パソコンのキーボードから指を離すと、フゥ太はほぅ、と溜息をつく。
目がしばしばするのは、疲れているからだろうか。
上を向いて目を閉じて、まぶたの上から眼球を指で軽く揉みほぐす。
背後の気配には、気付いていた。
肌がざわめいて、産毛の一本いっぽんが総毛立つような感じがしているから、間違いない。
ゆっくりと手を下ろしたフゥ太は、椅子の背もたれに背中を預けたまま小さく笑った。
「どうやって抜け出してきたんだ?」
独り言を呟くと、背後の気配がゆらりと蠢いた。
背筋がゾクゾクした。
きっとこの感覚は、フゥ太が兄のように慕っている綱吉も何度も経験していることだろう。
「おや。気付いていたのですか」
人を小馬鹿にしたような物言いは、いつの頃からか気にならなくなっている。やってくる時のあの不快な感覚だけはどうにもならないが、それを除くとこの人物の存在そのものがフゥ太には空気のような存在になってしまっていた。
気にしなければ、彼の言動に煩わされることもない。
ゆっくりと目を開けると、フゥ太のちょうど真後ろに、彼は立っていた。
「会いたかったでしょう?」
耳元に、吐息と共に囁きかけられた。フゥ太はゾクリと体を小さく震わした。
「別に」
会いたいなどと、どうして自分が思うことがあるのだろうか。この男のことをフゥ太は、嫌っている。同じ人として、嫌っている。それなのに何故、この男はこんなにも自信満々にそんなことを尋ねてくるのだろうか。
「そっけない」
微かな笑みと共に、男が呟く。
そろそろ作業を中断しようと思っていたところだったが、それどころではなくなった。フゥ太は腹の底で悪態を吐きながら、キーボードに手を伸ばした。
キーボードを叩く軽快な音だけが部屋の中に響いている。
背後の男はクフフと密やかな笑いを洩らして、フゥ太の肩口をそっと抱きしめた。
「僕に会いたくて仕方がなかったのではないですか?」
耳元に口を寄せると、男はフーッと息を耳の中に吹き込んだ。
「んっ……」
ゾクリと背筋に、電流のようなものが走る。フゥ太は咄嗟に唇を噛み締めた。
「会いたくて、会いたくて……だけど会えないことがわかっているから、一人で寂しかったのではありませんか?」
そう言うと男は、すらりと長い指をフゥ太の顎に滑らせる。
「そんなこと、ない……」
言い返した声は、微かに震えていた。フゥ太はギッと唇を噛み締め、ディスプレイを睨み付けた。
「嘘ですね」
すかさず男が言った。
「まったく、可愛らしい嘘をついてくれるんですね、君は」
男の指先がするりと移動し、フゥ太の唇をつつく。
逃げるようにしてフゥ太は体をもぞもぞと動かした。
「……嘘なんかじゃない」
小さな声で、フゥ太は返した。
会いたくなんてなかった。この男に会いたいなどと、いちどとしてフゥ太は思ったことはない。だから寂しいなどと思うことも決してなかった。この男は、嘘をついている──フゥ太はそう思った。
「でも、心の底では会いたいと思っていた。違いますか?」
喉を鳴らして男は、フゥ太の首筋に唇を押し当てる。少しひんやりとしたその感触に、フゥ太は首を竦めた。
「冷たっ……」
嬉しそうに男は喉を鳴らした。カプリとフゥ太の首筋に噛みつき、舌でチロチロと噛んだ跡を舐めあげる。
「……変態」
呟いた声は、悔しさと諦めの入り交じった声だった。
男の姿がディスプレイに映り込んでいる。
よく見知った顔の男だが、この十年、フゥ太は現実の彼とは一度だって会ってはいない。 「どうやってここへ?」
溜息をつきながら尋ねると、男は、何でもないことだと言った。
「それぐらい、この僕にとっては簡単なことです」
ディスプレイに映り込んだ顔がニヤリと笑い、舌なめずりをする。
この声を聞きたいと、自分は一度として望んだことはない。会いたいなどと、いったい誰が思うというのだろう。
「頭のいい君にはわかっているのでしょう?」
尋ねられ、フゥ太はギロリとディスプレイの奥に映る男を睨み付けた。
「いい表情ですね。そういう顔をしてくれると、ゾクゾクしてきます」
耳元に唇を寄せたと思うと、男は、耳の中へと舌を差し込んできた。ピチャリという卑猥な音が耳の中で響き、フゥ太はビクンと体を震わせた。
「あっ……」
逃げようとすると、足が、いつの間にか床から生え出した蔓に絡め取られていた。
「逃がしませんよ」
男の声が、耳の中に響く。
すらりと長い男の指がゆっくりと、フゥ太の体をまさぐり、スラックスの前立てをなぞり上げた。
「ん、ゃ……」
布地の上からぎゅっと性器を握られると、それだけで体が反応しそうになる。慌ててフゥ太は唇を噛み締めた。
「我慢しなくてもいいんですよ」
そう言って、男はクフフと笑った。
フゥ太はディスプレイに映り込む男の視線から逃れようとして顔をそらした。目をぎゅっと閉じて、まぶたの裏に焼き付いた男の姿を消してしまおうとした。
これは夢だと、フゥ太は思った。
そう思いたかった。
今、彼がこの場に実在しているのかどうかはともかくとして、この男と二人きりで会って、こんなふうに触れられるなんて思ってもいなかった。
いいや、もしかしたら心の奥底では願っていたのかもしれない。
この男に……骸に、会いたい、と。
そうでなければこんなふうに彼が自分を訪ねてくるはずがないではないか。それも、一度や二度ではない。ことあるごとに自分の前に現れては、そのたびごとにこの男は好き勝手をしていく。
いつの頃からかフゥ太は、この男がふらりと姿を現すことに慣れてしまっていた。
気紛れにやってきては、フゥ太に触れていく。ただ髪に触れるだけのこともあったし、それだけではすまないこともあった。たいていの場合、彼はフゥ太の体に触れたがった。
「目を開けなさい」
耳元に囁きかける声に、フゥ太は恐る恐る目を開ける。
ディスプレイに映り込んだ骸が、じっとフゥ太を見つめていた。
射抜かれそうなほど鋭い眼差しに、フゥ太は体を震わせた。この目が、嫌いだった。優しいようでいてその実、優しくない眼差し。どこか人を小馬鹿にしたような、それでいて時に慈しむように自分を見つめるこの瞳が、フゥ太は苦手だった。
「僕を見なさい」
そう言って骸は、フゥ太の座る椅子の向きをかえた。OAチェアがくるりと回転し、骸のほうへとフゥ太が向き直る。
「会いたかったでしょう?」
尋ねる声は、記憶の中に残る声よりも優しい。
「……いいえ」
小さな声でボソボソと、フゥ太は返した。
声は、震えてはいなかっただろうか。掠れてはいなかっただろうか。自分が彼のことを意識していると、気取られなかっただろうか。
「嘘ですね」
小さな溜息をついて、骸はクフフと笑った。
嬉しそうなその声は、まるで猫が喉を鳴らすような具合に洩れ出した。
「嘘じゃない」
強い調子でフゥ太が告げると、男の手が、ぐい、とスラックスの前を鷲掴みにした。
「強情を張るのもいい加減にしなさい、フゥ太。少し触っただけでこんなになっているのに、それでも嘘だと言うのですか、君は」
鷲掴みにした手を骸はゆっくりとスライドさせていく。
ほんの少し、触られただけだというのに硬くなっていたその部分に、熱が集まりだす。集まった熱は塊となって、そのうちに出口を求めてフゥ太の体を焼き焦がしてしまうかもしれない。
「ぅ……」
唇を噛み締め、うつむき加減に骸の視線から逃れようとすると、くい、と顎を指で引き上げられた。
「……いい目をしている」
嬉しそうに、骸は言う。
自分がいったいどんな目つきをしているのかわからないが、顔を引き上げられた瞬間、フゥ太は間違いなく彼を睨み付けた。そんな目つきを彼は、気に入っていると言う。
「帰ってください」
ここは、彼のいるべき場所ではない。
「元いる場所に、帰れ」
元いた場所、復讐者の牢獄へ──。
睨み上げた瞬間、フゥ太の唇にひんやりとした骸の唇が合わさった。
噛みつくと、ガリ、と音がした。
口の中に血の味が広がっていく。鉄臭い血の味を感じると同時に、唇に触れていたひんやりとした感覚が離れていく。
目を閉じたままでフゥ太は、ゆっくりと時間をかけて自分の唇に触れてみた。
たった今、キスをした。この唇は、間違いなく骸の唇と合わさっていた。下唇にぬるりとしたものを感じて、ゆうやくフゥ太は目を開けた。
指先に残る血の色に、フゥ太は微かな笑みを浮かべる。
彼は、やはりここにいた。
水牢の中にいるとばかり思っていた骸は、やはりここへ現れたのだ。自分に会うために。指先に残るこの血が、なによりの証拠だ。
指先をペロリと舐めるとフゥ太は、いそいそとパソコンの電源を落とした。
今日はもう、このまま眠ることにしよう。
会いたいと思ってもいない人に会ったのだ、気分が悪い。こんな日は、さっさとベッドに入って眠ってしまうに限る。
そう思いながらベッドへと向かうフゥ太の口元には、しかし柔らかな笑みが浮かんでいた。
(2010.3.22)
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