揺れる

  物音がしたわけではない。虫の知らせとでも言うのだろうか、不意にその気配に気づいた。
  顔を上げるとすでにその男は、フゥ太の目の前に立っていた。
  口許を緩め、微笑む男の顔がなにかしら企んでいるかのようで、油断ならない。
「あ……」
  咄嗟のことに、掠れた声しか出なかった。それほどまでに驚いたのだ。
「おや。歓迎して抱きついてはくれないのですか」
  尋ねられる頃には最初のショックからは立ち直りかけていた。
  バン、と机に両手をついて立ち上がると、フゥ太は目の前の相手を睨みつける。
「ああ……ダメですよ、そんな可愛らしい顔で睨みつけても」
  そう言われると、ますますフゥ太の胸の内は波立ってしまう。ギリギリと唇を噛み、それでも相手からは目を離そうとはしない。
「なにしに来たんですか」
  棘を含んだ口調で尋ねると、男はクフ、と小さく笑う。
「会いに来たんですよ、僕の恋人に」
  クフフ、と男が喉を鳴らすようにして笑うのに、フゥ太は思わず顔をしかめてしまった。
「そうですか。なら、その恋人とやらのところへどうぞ。わざわざ僕のところへ来てもらわなくても結構ですから」
  つっけんどんに言い放つと、男の手がすう、と伸びてくる。指先でフゥ太の顎をくい、と引き上げると、皮肉めいた口許が近づいてきた。
「やめてください」
  すんでのところで男の顔をぐい、と押し退ける。
  そうして、男から少しばかり距離を取っておいてフゥ太は、改めて彼を見つめた。癖のある……と言うか、頭のてっぺんからひょろりと突き出した癖のある髪型、一見すると優しげに見える頬の輪郭、なにを考えているのかわからない瞳。その中でもいちばん油断がならないのが、口元だ。皮肉めかして唇を歪ませることもあれば、ほんわりとした穏やかな笑みを浮かべることもある。
  質が悪いとフゥ太は思う。
  あの一見優しげな笑みの下に隠された悪意に、いったいどれだけの人間が気づくことができると言うのだろう。
  自分がその気づくことのできなかった人間だということを思い出すと、それだけで胃の底のあたりがムカムカしてくる。自分ではどうにもできなかった無力感と、この男には勝てないと思った時の絶望感が入り交じった、なんとも言えない複雑な感情が込み上げてきて、吐き気がする。
「あなたとは敵です、今も昔も。ツナ兄がなんと言おうと、僕はあなたのことを許さない」
  綱吉が、骸のことを仲間と見なしていることはフゥ太も理解している。
  しかし一度、胸の奥に根づいてしまった憎悪はそう簡単に覆すことができないのだ。
  フゥ太はギロリと男を睨みつけると、ゆっくりと事務机から離れた。



  大嫌いな男の視線から逃れるようにして、フゥ太は事務机の向こうにあるソファにどしんと腰を下ろす。
  不機嫌丸出しの顔で男を見遣ると、彼のほうはどこ吹く風で素知らぬ顔をしてフゥ太のほうを眺めている。いつまでこちらを見ているのだとギロリと睨むと、彼は微かな笑みを浮かべてフゥ太を見つめ返してきた。
「会いたくて仕方がなかったのでしょう? そんな表情をしていますよ」
  言われた途端、フゥ太はぷい、と男から顔を背ける。
「つれない態度で男を引きつけようとしているのですか、君は。そういう態度を……」
「別に。あなたが嫌いだから、そのまま態度にあらわしているだけです。勝手な解釈をしないでください」
  ピシャリと言うと、フゥ太は唇を噛み締めた。
  心底腹が立った。
  これまでにも、自分がそんなふうにもの欲しそうな態度を見せていたのかと思うと、はらわたが煮えくりかえりそうだ。
「人聞きの悪いことを言わないでください」
  自分は、絶対にこの男の来訪を待ち望んでいたわけではない。
  好きと嫌いのどちらかで表すならば、この男のことははっきりと嫌いだと言える。憎しみを感じるほどだ。それほどまでに強い感情を抱いたのは、この男が初めてだ。
  自分の中に憎しみの感情が宿っていることに気づいたフゥ太だったが、綱吉はそのことを知っていて尚、なにも言わなかった。「そう悪いヤツじゃないと思うよ」と、いつだったか綱吉に言われたことがある。そんなわけがあるものかと思いながらも、フゥ太の心のどこかでもしかしたら……という思いが根づいてしまっていたのかもしれない。
  気がついたら、男のことが気にかかるようになっていた。
  綱吉の言葉がなければずっと憎しみの対象でしかなかった相手のことが気になるとは、いったいどういうことだろう。いや、そもそも綱吉は、どんな魔法を使ったのだろうか。あんなにも憎んでいた相手を、こんなふうに気にかけることができるようにしてしまうだなんて。
  だが……これは、正しいことではない。
  フゥ太の中の理性的な部分が、この男はダメだと叫んでいる。必死になって抵抗しようとしているのに、気持ちだけが先走って、男のほうへと傾こうとしている。こんなことは、あってはならないことだ。
  こんな……



  胸が痛い。
  自分の気持ちなのに、自分の気持ちがよくわからない。
  不安定で、ふらふらとして、どうしたらいいのかがわからない。
  揺れていると、フゥ太は思う。
  自分の気持ちは、ユラユラと揺れる小舟のように頼りないものだ。
  とうしたらこの気持ちに、はっきりとした名前をつけることができるのだろう。
  どうしたら自分は、この気持ちに悩まされずにすむようになるのだろう。
  はあ、と溜息をつくと、クフフ、と耳元に笑い声が聞こえた。猫が喉を鳴らす時のようなくぐもった笑いに、フゥ太は背筋をゾクリと震わせる。
「そんなに悩ましげな表情をしないでください。自制できなくなりそうですよ」
  意味深に囁かれ、フゥ太の目元にさっと赤みが差す。
  さっきまで事務机のそばに立っていたはずなのに、いったいいつの間にこんなに近くまで来ていたのだろう、この男は。
「難しく考えないことですよ、フゥ太」
  そう言うと男の唇が、フゥ太の髪を掠めるように触れてくる。
「なっ……!」
  慌てて手を突っぱねて男から身を引こうとすると、腕を取られ、頭の上でひとつに纏められてしまう。
「じっとしてください。君に危害を加えるつもりはありません」
「加えてるだろ、危害」
  間近に迫った整った顔の男を睨みつけ、フゥ太はギリギリと奥歯を噛み締める。
  力では、敵わない。
  気持ちの上でもおそらく、自分はこの男には敵わないだろう。
  そのことがただただ、腹立たしかった。
「誤解です」
  言いながら、男の顔がさらにフゥ太のほうへと近づく。
「やめっ……」
  顔を逸らそうとすると、ソファの肘掛けに動きを阻まれてしまった。逃げられない。軽く舌打ちをしたフゥ太の唇に、骸の唇が強引に重なった。



  クチュ、と湿った音がした。
  重なった唇の隙間から、男の舌が割り込んでくる。無理矢理に口をこじ開けられ、口の中を蹂躙された。舌を吸い上げられ、唾液を流し込まれ、フゥ太はそれを軽く咽せ込みながら飲み下さなければならなかった。
  悔しい。こんなにも自分は非力だというのに、目の前の男は涼しい顔をしてニヤニヤと笑っているではないか。
「……な、せ……はな、せ!」
  腕を振り解こうとしても、相手の力が強すぎて、なかなか自由になることができない。腕が自由にならないと見て取ったフゥ太は、今度は足をばたつかせ始めた。膝を引いてぐい、と体のほうへと引き寄せると、ガッ、と鈍い音がした。
「いっ……」
  途端に骸の顔がしかめっ面にかわる。
「いつまで人の上に乗ってるんだ。いい気になるなよ」
  精一杯の威嚇を、骸はどう思っただろう。
  恐る恐る見上げた顔は、苦痛と笑いとに歪んでいた。
「それでこそ、僕の……」
  言いかけた男の股間に、フゥ太はもう一度、膝で蹴りを入れた。
「余計なことを言ってないで、さっさと退けよ」
  腹が立つのは、男にいいように力で征服されそうになったからだろうか。それとも、これ以上は男が手を出してこなかったからだろうか。
  眉間に皺を寄せ、苦悶の色を浮かべたまま、男はノロノロとフゥ太から身を離す。
  こうもあっさりと引き下がられてしまったこともまた、フゥ太には腹立たしかった。
  気持ちが揺れている。
  目の前のこの男に完全に傾いてしまったら、自分はいったいどうなるのだろう。
「帰れよ」
  吐き捨てるように告げると、男は口元に弱々しい笑みを浮かべた。
「君が眠るまで、そばについていてあげますよ」
  いつものように。そう、男が告げる。
  フゥ太は、自分の気持ちが大きく揺れたことに気づいていた。胸の内、誰も知らない秘密の場所で、フゥ太の気持ちが少しずつ男のほうへと傾いていく。
  ユラユラと、揺れている。
「いらない」
  ブスッと頬を膨らせて返したものの、自分が眠るまで男がそばについていてくれることはわかっていた。
  それが、嬉しいのか、嫌なのか、フゥ太にはわからない。
  揺れているからだ。気持ちが、ユラユラと不安定に揺れているからだと、フゥ太は思った。



(2012.1.9)


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