男の気配を感じ取るのがうまくなったと、フゥ太は我ながら思う。
彼がやってくる時の気配なら、綱吉と同じぐらいに自分は敏感に察知することができるようになった。
彼──骸のことは、好きではない。昔のことがあるから。
だが、ボンゴレのボスでもある綱吉は、骸を仲間と見なしている。
ならば自分も同じようにと思ったのが運の尽きだった。気づいたらフゥ太は、骸の手の中に捕らえられ、決して逃れられないようにがんじがらめにされてしまっていた。
今、見えない鎖がフゥ太を縛りつけている。
この鎖に、なんと名前をつければいいだろうか。
忌々しげに唇を噛むと、フゥ太は部屋の片隅へと視線を向ける。
部屋の何はフゥ太以外は誰もいなかったのに、いつの間にか男が立ち尽くしていた。
憎たらしい。
いつもいつも、当たり前のような顔をしてここへやって来ては、フゥ太をいいように玩具にして、飽きるとさっさと帰っていく。
この気持ちに名前などつけることなどできやしないのに、それなのに自分は、なにかの名前をつけようとしている。
恥ずかしいほどに自意識過剰な、この、気持ち。
「帰ってください。忙しいんです」
素っ気なく言い放つと、男は口元に淡い笑みを浮かべた。
「おや。いつの間に君は、僕に対してそんな口がきけるようになったんですか?」
からかうような口調が、本気で彼がそんなことを思っているわけではないと教えてくれる。だが、今日は朝から苛々続きで、この男の相手をしている余裕などこれっぽっちも今のフゥ太にはなかった。
「……喋りかけないでください」
今は、この男の声さえも聞いていたくない。
誰もいない部屋で一人、なにも考えずに眠りたいのにとフゥ太は思う。
男に背を向け、一心不乱にキーボードを叩き続ける。見られても困るような内容のものではなかったが、かと言って後に回すとそれだけ仕事に遅れが出る。苛々していようが頭痛がしようが、片づけてしまうしかないだろう。
黙々とキーボードを叩くが、気がそぞろになっているせいか、タイプミスが多い。また指が違うキーを押してしまった。苛々としてキーを叩くと、フゥ太はおもむろに手を止めた。
「そろそろ終わる頃ですか?」
訳知り顔で男が尋ねてくるのに、フゥ太は苦虫を噛み潰したような顔をする。
頭が痛いのは、この男がすぐ近くにいるからだろうか?
はあぁ、と重苦しい息を吐き出して、パソコンの電源を落とす。
わけもなく苛々するのは、この男が自分を見ているからだろうか?
男の言葉を無視するとフゥ太は、続き部屋になっている洗面所へと足を向けた。
洗面所の上の棚を開けると、消毒液や薬の瓶、箱がいくつか並んでいる。蛇口のそばにあったコップに水をたっぷりと注いでから、鎮痛剤の瓶を手に取る。瓶の中から一錠取り出して、口に含む。 その瞬間、先に胃の中になにか入れておけばよかったと、早々と後悔の念に囚われる。
コップを洗って元の位置に戻すと、棚のドアを閉じる。
部屋に戻ると男は、ソファに腰を下ろしてくつろいでいた。
その姿を目にして、またもやフゥ太は苛々としだす。せっかくこれで頭痛がおさまると思っていたのに、余計に頭が痛くなりそうだ。
「用事はもうすんだのですか?」
気楽そうに声をかけられ、フゥ太はわざと無視した。
手早く着替えを用意すると、今しがた出てきたばかりの洗面所へと戻っていく。
シャワーでも浴びれば、頭痛もおさまるかもしれない。
今日は骸の相手をしていられるほど気持ちに余裕があるような状態ではないのだ。
パタン、と音を立てて洗面所のドアを閉めると、フゥ太は素早く服を脱ぎ捨てた。脱衣カゴの中に脱いだものを放り込み、奥のバスルームへと続くドアを開ける。
わざと大きな音を立ててドアを閉めると、シャワーを浴びる。ぬるま湯と言うよりも水に近い冷たいのを頭から盛大に浴びて、ほぅ、と一息つく。
今、こうしてここにいる間に、あの男が帰ってくれたらと思わずにはいられない。
顔をつき合わせて言葉を交わすことが、酷く億劫だ。
できることなら今は、誰とも会いたくなかった。
頭はまだ、痛い。
溜息をつきつき、フゥ太はバスルームから出てくる。脱衣カゴに用意しておいた新しい着替えを身につけると、髪を乾かし、のろのろとした足取りで部屋へと戻る。
頭が痛くて、苛々する。あの男のせいにしてしまえと、半ば強引にフゥ太は骸に苛々の原因を押しつけてしまう。
部屋に戻ると、骸は相変わらずソファにどっしりと腰をおろしたまま、フゥ太が戻ってくるのを待っていたらしい。
顔をしかめると、ますます頭痛が酷くなるような気がする。
部屋の隅に備えつけてある簡易冷蔵庫からペットボトルを取り出し、キャップを捻る。口をつけると、スポーツドリンク特有の甘さが舌の上に広がった。
「……甘い」
いったん口を放して呟くと、また口をつける。ゴクゴクと喉を鳴らしてフゥ太はスポーツドリンクを飲んだ。半分ぐらいまできたところでペットボトルの蓋を閉め直して、冷蔵庫に戻す。
「頭痛は治りましたか?」
物知り顔で尋ねる骸が、腹立たしい。
「そんなにすぐに治るわけがありません」
自分がついさっき薬を飲んだばかりだということはわかっていたが、いったいいつになったら効いてくるのだとフゥ太は、苛々と男を睨みつける。
クフフ、と男は低く笑った。そのくぐもった笑い声が、さらにフゥ太の苛々を増大させる。
「治す方法がありますよ?」
そう言って男は、ソファから立ち上がる。
「いい、いらない。知りたくない。あなたからは、なにも教えてもらいたくない」
冷たく拒むと、骸は楽しそうに笑い声を上げた。
「相変わらず強情ですね、君は」
だから好きなんですとも、骸は言う。
「強情で結構。僕は自分の性格が気に入ってるんです。あなたにどうこう言われる筋合いはない」
ぷい、と横を向いた途端、いつの間に移動したのか男の姿がフゥ太の視界に飛び込んでくる。
「おや。気が合いますもね。僕も気に入ってるんですよ、君のその性格」
言いながら骸の手は、フゥ太の顔へと伸びてくる。
頬に触れる寸前で骸の手を払い落としたフゥ太は、男の襟元を鷲掴みにして自分のほうへと引き寄せる。
「おっと」
鼻先に噛みつこうとした途端、骸の手がフゥ太の口元を優しく覆う。大きな手に触れられ、ドキリとする。
「こんなふうに積極的なところも好きですが……今日はもう、休んだほうがいいですよ」
そう言って骸は、フゥ太の頬に指を這わせる。
「……やめろ。触るな」
ひんやりとした手のひらが心地よくて、フゥ太はもっと触れてほしいと心の中で思った。 ズキズキとしていた頭痛が、少しずつ引いていくような気がした。
いつの間に自分は、骸のこの手に懐柔されてしまっていたのだろうか。
気がつくと、ベッドに押し倒され、キスをされていた。
クチュ、と湿った音がする。骸の舌がフゥ太の口の中を舐め回していた。舌を吸い上げられ、唾液を啜られ……かわりに骸の唾液が、フゥ太の口の中へと送り込まれる。
「ん……っ」
しがみついた男の背中は広かった。一見すると痩せているように思うが、そこそこに筋肉のついた、均整の取れた体つきだ。
「ゃ、め……」
言いながらもっと、とフゥ太は思う。
もっと、キスをしてほしい。もっと、強く抱いてほしい。
言葉や態度に表すことはできないけれど、この男の手があまりにもひんやりとして心地いいから、今はまだ離れないでほしい。
チュ、と音を立てて唇が離れていく。骸が上体を起こすと、背中を抱きしめていたフゥ太の腕もするりと外れる。
パタン、とシーツの上に両手を投げ出して、フゥ太は恨みがましそうに骸を睨みつけた。 「ああ……そんな可愛い顔をして、どうしようと言うのですか?」
剣呑そうに目を細めて、骸が尋ねる。
一瞬でも、この男に抱かれることを気持ちいいと思ってしまった自分が腹立たしい。男の体温を感じることができなくなった途端に、頭痛がぶり返してくる。まったく、忌々しい。
「……帰れ」
冷たく言い放つと、骸の手が、フゥ太の前髪をくしゃりと掻き上げた。
「わかりました。今日は、君が眠るまでそばについててあげますよ」
「いらないから、帰れよ」
さらに語調を強めてフゥ太が言うのに、骸はクフ、と喉の奥でくぐもっと笑いを洩らす。 「さあ、眠りなさい」
前髪をもてあそんでいた手で、ゆっくりとフゥ太の目を覆う。
「なにも考えないで、眠ってしまいなさい。明日になったらこの頭痛もおさまってますよ」
そう言った骸の唇が、フゥ太の唇にそっと重ねられる。視界は骸の手で遮られているが、フゥ太にははっきりとわかった。自分の唇に触れているのは、骸の唇だ。優しい、触れるだけのキス。性的なものを感じさせないそれに、フゥ太は物足りなさを感じる。
そっと舌を突き出して、男の唇に触れてみた。唇の隙間を舌先でつん、とつつくと、すぐに舌を引っ込める。
キスを味わいたいのは、自分が弱っているからだ。
つけ込んでほしいとフゥ太は思う。こんな時だから、少しでも優しくされたい。キスをして、抱きしめてもらえたら、相手が骸だろうと嬉しく思うこともあるだろう。
矛盾しているなとフゥ太は思った。
こんなにも嫌っている骸に、触れてもらいたいと思う自分がいる。顔も見たくない、声も聞きたくないほど嫌っているというのに、こんなふうに触れて抱かれてしまうと、いつかそのうち、この男に懐柔されてしまうのではないかと怖くなる。
だが、それが心地いいのだ。
この男に自分は興味を持たれているのだ。そう思うと、それだけで心の奥底では嬉しがる自分がいる。嫌いなのに、好かれて喜ぶ自分はきっと、どこか歪んでいるのだろう。だから、この男に惹かれるのかもしれない。彼もまた、歪んだ世界で生きている人だから。
「……眠るよ。だから、今夜だけはそばにいて」
照れ臭さを隠すため口早にそう言うとフゥ太は、自分の目を覆っている骸の手を掴んだ。 「一晩中、抱きしめて、キスをしてあげますよ」
優しい声に囁かれ、フゥ太は微かに頷いていた。
(2012.8.15)
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