卒業式を前にして、中学校の屋上で最後のバトルをした。
家庭教師のディーノから持ちかけてきたのだ。
雲雀は二つ返事で喜んで屋上へと出かけて行った。卒業記念にディーノを咬み殺してやろうと思っていたから、呼び出す手間が省けたと思ったのだ。
それなのに、油断してしまった。
咬み殺そうと間合いを詰めた瞬間、反対にディーノのほうから唇に噛みついてきた。
中学生最後のバトルにも、雲雀は負けてしまったのだ。
不愉快極まりない思い出は、今も胸の内でくすぶっている。
正直なところ、好きとか嫌いだとかの感情が雲雀には、よくわからなかった。
嫌いか、嫌いでないか。不快か、不快でないか。
その程度でしか、誰かを判断したことはない。
ディーノは、一緒にいて不快ではない相手に入っていた。嫌いではないが、好きでもない。自分の視界に入りさえしなければ、それで構わない。
ディーノのことは、なるほど、家庭教師としてはなかなか優秀かもしれないと思っている。雲雀がどれほど頑張っても追いつくことのできない、はるか高みにいる存在のように思えることがあった。
かと思うと、つまらないことで騒いでみせたり、落ち込んだり、とんでもないヘマをやらかしたりして、呆れてものも言えないこともある。
それでもこの男と言葉を交わすのは、ここぞという場面では彼が自分よりも強いからだ。
いつかきっとその喉笛に食らいつき、咬み殺して見せると殺気を送ると、ディーノはにへらと笑って誤魔化してしまう。
その笑みを見るたびに、雲雀は悔しくて仕方がない。
いつまでたってもたかが一人の男に勝つことのできない自分が歯がゆくて、たまらない。
そして、そんな彼のことが気になるというのも、雲雀を苛々させている一因でもあった。
卒業式が終わると、並盛中学ともいよいよお別れになる。
受け取った卒業証書を手に雲雀は、風紀委員の面々に見送られて校門前へと出てくる。
ふと見ると、門柱の影に黒塗りの車が停まっていた。
怪訝そうに車の中へ視線を向けると、ディーノがへらへらと笑って手を振っていた。
「跳ね馬……」
何故、この男がこんなところにいるのだろうと思っていると、すぐにディーノが車から降りてきた。
「卒業おめでとう、キョウヤ」
この笑みが、癪に障る。バトルに負けた自分を嘲笑いに来たような感じがして、どうにもいい感じがしない。
「なんの用?」
声をかけたものの、返事を聞くつもりはなかった。あからさまに無視をして、帰路につこうとしたところで、腕を掴まれた。
「おいおい、ちょっと待てよ」
そう急がなくてもいいだろうと、ディーノが言う。
「あなたの顔見てると、あまりいい気がしないんだ」
否応なく、昨日のことを思い出してしまう。うち負かされ、唇に噛みつかれた、あの瞬間のことを思い出してしまう。
「……じゃあ、心ゆくまで戦える場所を提供してやるよ」
そう言ってディーノは、車のシートを指さした。
「乗れよ」
車に乗り込んだものの、どこへ連れて行かれるのかまではわからなかった。
気が付いたら雲雀は、空港にいた。
「ほら、お前のパスポート」
そう言われて、雲雀は怪訝そうな顔をした。目の前に差し出されたパスポートを受け取る。頁をめくると、自分の顔写真がちゃんと載っていた。いったいいつの間にこんなものを用意したのだろうかと、不思議でならない。
そのまま急かされて、制服姿のままで飛行機に乗っていた。行き先は、イタリア。ディーノの屋敷だ。
卒業祝いの旅行だと言われ、あやうく納得しそうになった。
しかし卒業祝いなら、昨日、受け取った。無様な負け姿を晒した、あのバトルが卒業祝いなのだと思っていた。
苛々とディーノを睨み付けると、ヘラヘラとした笑みで返された。
「今月いっぱい、うちの屋敷でゆっくりしていけばいい。どうせ学校が始まるのは四月に入ってからなんだろう?」
その間に、強くなればいい。
そう言われて、雲雀は頷いていた。
ディーノの意のままにイタリアへ連れて行かれるのはいい気がしないが、中学最後のバトルの仕切直しができるのなら、望むところだ。
飛行機のシートにもたれて、雲雀はぼんやりと窓の外を見た。
隣のシートに座るディーノは、音楽を聴きながら雑誌の頁をパラパラと捲っている。
雲の中に入ってしまったのか、視界は真っ白だ。じっと外の景色を眺めていると眠気が差してきて、雲雀は目を閉じた。
「イタリアにいる間に、絶対に寝首を掻いてやる」
低い声で雲雀は、呟いた。
半日以上かけて、イタリアに着いた。
さらに空港からディーノの屋敷まで、数時間かけて移動した。
我ながら酔狂なことをしていると、雲雀は思った。
いつもの自分なら、こんなに簡単に誰かの意のままに動くことはないだろう。
はっきりと断ってしまうことのできない自分に、苛々する。あなたの顔など見たくないと一言、いつものように言い放てばいいものを、何故、こんなイタリアくんだりまで自分はのこのことついてきてしまったのだろうか。
案内された部屋の窓から表を見ると、まるで森林のような裏庭が広がっている。つまらない眺めだと視線を逸らそうとしたところで、生い茂る木々の向こうにキラリと光る何かが見えた。
夕方近くの風は生暖かく、雲雀は羽織っていた上着を脱ぐと、ベッドの上に投げ出す。
あの反射光は、好奇心をくすぐる。雲雀はおおよその見当をつけて、部屋を出た。
屋敷の裏手にある建物のどれかだろうということは、容易に想像することができた。何の建物かが、わからない。夕方の日差しに反射して光っていたのか、それとも何か別のものが原因で光っていたのか、どちらだろう。
屋敷を出て、裏手に向かう。深い深い森が広がっている。
この向こうには、何があるのだろう。
森の深さからすると、入り口から奥のほうはまったく見えない。反射光のした場所は、かなり奥まった地点だったように思われる。
雲雀はゆっくりと、森の中を歩き出した。
しばらく進んだところで、道の雰囲気がかわった。道から離れるようにしてつけられた獣道が、ところどころ見え隠れてしている。
木々の向こうに見える藪に入りこむと雲雀は、獣道と思しき草むらを進んでいった。
足下は不安定で、落ち葉や枯葉が積もっていた。しかし定期的にこの道を使う者がいるのか、生い茂る草が踏みしだかれたままになっている箇所が一本の筋となって、小道を作り出していた。
突然、獣道が終わりを告げた。開けた場所が目の前に現れ、その先には温室があった。
「あれか……」
温室があるとは、思いもしなかった。
てっぺんの部分が太陽の光に反射して、雲雀の部屋の窓から外を覗くとキラキラと何かが光っているように見えたのだろう。
足音を忍ばせて、温室へと近づいていく。
大きかった。
近づいて見ると、温室は手入れが充分にされていることがわかった。
そっと入り口のドアに手をかける。
音もなくドアは、内側へと開いた。
ムッとした湿気を含んだ空気が、温室の中から漂い出す。
苔むしたにおいに雲雀は顔をしかめた。
中に入ろうとすると、中央近くに置かれた石のベンチに誰かが寝転んでいるのが見えた。
目を凝らさなくても雲雀にはすぐにわかった。ディーノだ。
息を潜め、そっと雲雀は温室に足を踏み入れる。
そっと、そっと、足を運ぶ。自分の呼吸音が耳障りに聞こえるが、実際はたいしたことはないはずだ。
温室の蒸れた湿気など気にもしていないのか、ディーノはよく眠っている。手を組んだ上に頭を乗せ、無防備に少し開いた口がいつもより彼を幼く見せている。
亜麻色の髪がきれいだと、雲雀は思った。
眠ったままの男の頬を指でなぞると、思い切りつねる。
自分がここにいるというのに、目を覚まさないことが腹立たしく感じられた。
「いっ……?」
ぱちりと目を開けると同時に、ディーノは飛び起きた。
「痛てぇ……」
つねられた頬をさすりながら、ディーノは愛嬌のある眼差しで雲雀を見つめる。人懐こいこの眼差しを、雲雀は少し苦手に思っている。
「口……涎、垂れてたよ」
口元にうっすらと笑みを浮かべながら、雲雀が言った。
慌ててディーノは、口元を服の袖口でごしごしと擦る。ちらりと雲雀を見ると、彼はつまらなさそうに温室を見回していた。
「ここ、俺の隠れ家なんだぜ」
自慢げにディーノは告げる。
雲雀は怪訝そうにディーノへと視線を戻した。
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(2009.6.25)
(2024.5.1加筆修正)
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