夕空 1

  ホテルのレストランで朝食をとることなんて、そう珍しいことでもない。これまでも、こういう機会は何度もあった。
  とは言うものの、昨夜の記憶が戻ってくるにつれて、何ともいたたまれない気分になってくる。
  もっとも、二人きりで夜を過ごしたと言っても、何かがあったわけではない。
  ただ、昔話を懐かしみ、互いのポジションを確かめ合っただけでしかない。
  ブラインドの隙間から部屋にさしこむ朝日が清々しくても、目覚めた時の気分がどれほどすっきりしていても、二人の関係がかわるはずもなく。また、急によそよそしくなるわけでもなく、どことなくしっくりこないしこりのようなものを抱えたまま二人は部屋を出た。
「よく眠れた?」
  エレベーターの中でポソリと綱吉が問いかけると、ほんのりと目元を赤らめて獄寺は頷く。
「三時間ほどしか寝てないと思うけど」
  と、綱吉が嫌味ったらしくチクリと言うと、獄寺は慌てて声高に言い訳じみた言葉を並べようとする。
「そんなことありません。三時間あれば睡眠なんて……」
  不意に語尾が揺らいで、小さく途切れていく。獄寺の様子を不審に思った綱吉は、少しだけ自分より背の高い男をちらりと見た。
「どうかした?」
  獄寺が、開いたばかりのエレベーターのドアの向こうを凝視していた。
  すぐに綱吉も、獄寺が何を見ていたのかに気付いて、顔をひきつらせた。ドアの向こうの男になんと声をかけようかと必死になって考え始める。
  適当な言い訳はしかし、こんな時に限ってひとつとして思い浮かんでこなかった。



「朝っぱらからイチャこいてんだな、お前ら」
  陽気な声が、カラカラと笑いながら言う。
「え、あ、うわっ……なんで……」
  逃げようとする間もなく、底抜けに明るい笑顔の男に正面から肩を掴まれた。
  軽くラリアートをかまされ、咳き込みながら綱吉は男を見上げる。
「な、なんで…こんなところに、ディーノさんが……」
  見上げると、ディーノは笑っていた。陽気なイタリア男は小脇に抱えた二人をぎゅっと抱き締め、すぐに体を離した。
「お前ら、仲良く夜明けのコーヒーか?」
  下世話なニヤニヤ笑いを浮かべながら、ディーノが尋ねる。
「違います」
  唇を尖らせ、すかさず綱吉は言った。
「俺も獄寺君も、そんなんじゃありませんってば」
  やや強めの口調で綱吉が言い放った瞬間、獄寺が表情を曇らせてさっと下を向いた。
「そうですよね。十代目はわざわざ、帰国した俺を迎えにきてくださっただけですから」
  獄寺はわざとらしい笑みを作ると、ディーノを真正面から見つめ返した。
「なんだ。お前ら、いったいどういう関係なんだ? てっきり俺は、お前たちが付き合ってるもんだと……」
  言いかけた途端に、獄寺が拳を繰り出す真似をする。
「んなわけ、ねえよ」
  不機嫌そうな低い声でそう言うと、ふい、と明後日の方を向いて歩き出す。
「あ、獄寺君!」
  追いかけようとする綱吉の肩をぐい、と引いて、ディーノが耳元に何かを喋りかけた。
  そんな二人の様子を目の端でちらりと確かめてから、獄寺はスタスタとその場を立ち去った。



  ホテルを出ると、太陽はすっかり真上に昇っていた。
  獄寺は空を仰ぎ、それからすぐに眩しそうに目を細める。
  綱吉は追いかけてもこない。
  小さく溜息を吐き出して、歩き出す。
  せっかく日本に戻ってきたというのに、気分が優れない。こんなにも苛々するのは何故だろう。
  無意識のうちに唇に触れていた。
  ショーウィンドウに映った自分の姿を見て、獄寺はぎょっとする。
  唇を触る自分の手が、違う人の手に見えて、鼻の奥がツンとした。
  明け方、自分の唇に触れたのは、あの人の手だった。そう思うと、それだけで体がざわめきだす。
  はっきりとした意志を持って触れられたのは、きっと、これが初めてのことだ。
「どうしよう……」
  キスしたかったと、あの人ははっきりと言った。
  キス、したかったのは、自分のほうだ。
  ずっとずっと、あの人のことを想っていた。
  好きで好きでたまらなくて、じっと見つめていた。誰よりもいちばん近くで、支えていきたいと思っていた。守りたいと思っていた。
  そう願う一方で、その想いは、届きそうで届かないものなのだと思っていた。
  自分の立場が理解できているつもりでいたが、どうやら、理解できていなかったようだ。
  もう一度、空を仰いだ。
  青く晴れ渡った空が、目に痛い。
  どこに行くというわけでもなかったが、獄寺はふらりと列車に飛び乗った。
  いつか見た海を、今、無性に見に行きたいと思っていた。



  一人きりで半日、海を眺めた。
  砂浜に腰を下ろして、コンビニで買ってきたペットボトルのミネラルウォーターをちびりちびりと飲みながら、海を見ていた。
  いざ帰ろうと駅に引き返したところで、ホームに立つ人の姿に目が吸い寄せられた。
  沢田綱吉だ。
  ホームに佇んで、海岸のほうを熱心に見つめている。
  慌てて獄寺は、改札を通り抜けた。
「十代目」
  そっと声をかけると、綱吉がポツリと呟いた。
「もう、夕方だよ」
  いつからここにいたのだろうか。
  駅のアナウンスが流れ、ホームに列車が入ってくる。
「そろそろ帰ろうか、獄寺君」
  そう言って振り返った綱吉は、柔らかな笑みを口元に浮かべていた。
「はい、十代目」
  列車の停止する音で、獄寺の声はかき消された。獄寺自身、自分の声が一瞬、聞こえなかったほどだ。
  スルリと開いたドアの向こう側、列車内に綱吉が乗り込む。
「こっち、こっち」
  中学生時代の無邪気な綱吉が見えたような気がして、獄寺はごしごしと手の甲で目を擦った。



  列車の中は、空いていた。
  自分たち以外、乗客は誰もいない。
「なんだかあの時みたいだね」
  シートに座らずに入り口近くに立ち尽くしたままの綱吉が、懐かしそうに呟く。
「そうですね」
  獄寺は眩しそうに目を細めて、綱吉を見つめている。
「獄寺君、ここに来て」
  柔らかな物言いの向こうに、微かな命令の色合いを認め、獄寺は素直に綱吉の近くに立った。
「ほら、夕焼け空だよ」
  見ると、西の空が茜色に染まり始めている。自分はいったい、どれぐらいの間、あの海岸にいたのだろうと獄寺は思った。
「いつからホームにいたんですか、十代目」
  尋ねる獄寺の声は、微かに掠れていた。
「多分、獄寺君が海岸に行ってからずっと……」
  そう言って綱吉は、はにかむように笑った。
「ねえ、ちょっとだけかがんでくれるかな」
  そう言って綱吉は、獄寺の目を覗き込む。
  獄寺は、綱吉と同じ目線になるように膝を曲げた。
「こんな感じですか?」
「そう、それくらい。ちょうどいいよ」
  中学生の頃から比べると、二人とも背が伸びた。獄寺のほうが背が高いのは今も昔もかわらないが、それでも、あの頃に比べると成長したと思う。
  綱吉はそっと壊れ物に触れるかのように、手をさしのべた。
「あの時と同じだね」
  綱吉が言った。
  あの頃よりもがっしりとした綱吉の手が、獄寺の頬を包み込む。
「人が……」
  弱々しく獄寺が呟く。
「大丈夫。この車両には、誰もいないよ」
  そう言って綱吉は、獄寺にキスをした。



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(2009.5.22)
(2024.5.2加筆修正)


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