唇から

  体育祭の終わった学校は、どこか寂しい感じがしてならない。
  昼間はあんなに盛り上がって騒いでいたグラウンドだが、閉会式を終えた今は物寂しい雰囲気が漂っているばかりだ。
  誰もいない屋上にあがった綱吉は、フェンス越しにグラウンドを見おろした。
  来賓用のテントや生徒の入場門、応援用のディスプレイが撤去され、丸裸にされた観客席。ライン引きの白線は朝はあんなにもくっきりと白く見えていたのに、たくさんの足に踏みつけられ、今はよじれて消えかかっている。
  終わったんだなと思うと、あまり運動は得意でない綱吉でも、寂しさを感じずにはいられない。
  しばらく網状になったフェンスの一カ所を握りしめてじっと暮れゆくグラウンドを眺めていると、誰かが屋上のドアを開ける気配がした。
「十代目、ここだったんですね」
  獄寺だ。
  身じろぎもせずに綱吉は、頷いた。
「うん。終わったんだなー…って、思ってさ」
  悪くない体育祭だったと、綱吉は思う。
  何しろ、ダメツナと言われ続けて初めて、心の底から頑張ったと思えたのだ、今日は。
「お疲れでしょう。帰りませんか?」
  背後から辛抱強く声をかける獄寺に、綱吉は小さく溜息をついた。
「うん……」
  体育祭など本当は、どうでもよかった。
  もちろん、皆で頑張った結果には満足しているし、こんなに楽しい時間は二度と味わうこともないかもしれないと思うと、少し寂しいような気もする。
  しかしそれ以上に綱吉は、気付いてほしいことがあった。
「山本ンちで、寿司パーティーするみたいですよ。行きませんか?」
  獄寺の言葉に綱吉は、くるりと振り向く。
「行ってもいいけど、その前にひとつだけ、獄寺君にお願いがあるんだ」



  風が、吹いていた。
  体育祭で火照った肌にはひんやりと心地よいが、少し肌寒くなったきたかもしれない。
  夕暮れの空気が物寂しくさせるのだろうか。
  綱吉は、獄寺が自分のほうへと近づいてくるのをじっと待った。
「なんなんスか? 他ならぬ十代目のお願いだったら、この獄寺、なんだって……」
  嬉しそうに近づいてくる獄寺の腕を、焦れた綱吉がぐい、と引っ張る。
「おわっ?」
  咄嗟によろけそうになった獄寺だが、なんとか次の一歩を踏み出して、体勢を立て直す。その隙に綱吉は、素早く獄寺に唇を近づけた。
「ごめん、獄寺君」
  小さな呟きが、唇が触れる寸前に綱吉の口から洩れた。
  掠め取るようなキスをして、さっと体を離す。
  獄寺はただただ驚くばかりで、何がどうなったのかもわかっていないような様子で、木偶の坊のように立ち尽くしたまま、綱吉を見つめ返すばかりだ。
「あ…の……」
  尋ねようとする獄寺に、綱吉は顔を真っ赤にした。
「今のっ……今のは、勝てて嬉しかったから……」
  体育祭では、綱吉たちのクラスが属するチームが優勝した。個別の敢闘賞ももらえた。だから嬉しくてつい、キスをしてしまったのだと、綱吉は弁解をする。
  その言葉に嘘はなかったが、すべてが真実というわけでもない。
  綱吉の言葉に納得した獄寺は、自分の唇を手で押さえながらも、嬉しそうに笑いかけた。
「優勝おめでとうございます、十代目」
  真面目くさった表情で獄寺が言うのに、綱吉は小さく笑った。
「なに言ってんのさ。獄寺君だって、優勝おめでとう」
  そう言うと、二人はまた視線を交わし合い、ひとしきりクスクスと笑い合った。



  学校を出るタイミングを逃してしまった二人は、屋上の片隅に座り込んで、言葉を交わし合った。
  どことなく気まずくてぎこちないのは、不意打ちで綱吉がキスをしたからだ。
  あれは、綱吉なりに考えての行動だった。
  以前から獄寺のことが気になっていた。好きだと気付いたのはつい最近のことだが、どうも自分は、同じ男の獄寺が好きらしいと確信するようになった。
  好きだと気付いた途端、今度はあの銀色の細い髪や、色の白い体に触れたいと思うようになった。
  以来、綱吉の気持ちは鬱屈したものになりつつある。体育の時間に着替えをする獄寺をチラチラと盗み見したり、たいした用もないのに声をかけてみたり、登下校時に並んで歩きながらさりげなく偶然を装って手があたるようにしてみたり、そんな些細なことを繰り返している。
  体育祭の優勝にかこつけてキスをしたのは、だからだ。
  ようやくおおっぴらに触れる理由ができたと、確信犯的に行動してしまった部分もある。
  触れたくて触れたくて、仕方がなかったのだ。
  もちろん、それだけではない。
  今日が自分の誕生日だからというのもひとつの理由ではあったが、それを理由に獄寺から無理にキスしてもらうのは狡いような気がした。そうではなくて、自分からキスしたいと思った。理由もなにもなく男同士でキスをするというのもどうかと思ったから、優勝にかこつけてキスをした。我ながら上出来だと、綱吉自身は満足している。
  それに、これ以上のものを望むのは欲張りすぎるような気もした。
  ダメツナならダメツナらしく、ささやかなもので満足しておくべきだと、何故だかそんなふうに思ったのだ。



  屋上から眺める並盛の夕焼けは美しかった。
  緋色、オレンジ色、茜色の中に青と水色と紺色が入り交じり、次第に暗くなっていく。
  風が少しずつ肌寒くなってきて、ブルッと震えたところで、グラウンドから山本の声が聞こえてきた。
「おぉーい、ツナ、獄寺ー!」
  なかなか店に来ない二人に焦れて、迎えにきてくれたらしい。
  綱吉は獄寺と顔を見合わせると、二人だけに通じる笑みをさっと交わした。
「行こうか、獄寺君。山本が迎えにきてくれたみたいだし」
  そう言って綱吉は、勢いよく立ち上がった。
  手をさしのべ、まだコンクリートの上に腰をおろしたままの獄寺の手をぐい、と引いてやる。
  立ち上がった獄寺の肩をあいているほうの手でするりと撫でると綱吉は、獄寺の耳元に素早く唇を寄せた。
「一緒にいてくれてありがとう」
  内緒話をするように、さらりと綱吉は告げた。
  誕生日に好きな人と一緒にいられたことが、綱吉にしてみれば嬉しかったのだ。
  わけのわからない獄寺は、怪訝そうな顔をしている。
「いや、そんな。たいしたことないっスよ、十代目」
  首を傾げたままの獄寺の手を取って、綱吉は屋上を後にする。
  昇降口では山本が、いつもの人当たりのいい笑みを浮かべて待ってくれていた。
「お前ら、早くしろよ。もう皆揃ってんだぞ」
  早く早くと急かす山本に、獄寺はいつものごとくムッとした表情で睨みを利かせる。
「ほら、早くしろって。主役がいないことには始められないだろ、誕生会ってやつは」
  そう言いながら山本は、バンバンと綱吉の背中を叩く。
「行こうぜ」
  痛がる綱吉をひとしきり笑ってから山本は、そう言った。
  獄寺の眉間の皺が、ひときわ深くなったように綱吉には見えた。



「誕生会って、なんスか」
  山本のあとを並んで歩きながら、獄寺が尋ねてくる。
「えっ、あの……」
  おたおたと綱吉が答えようとすると、さらに獄寺は言った。
「主役がいないと始まらないって、どーゆーことですか、十代目」
  むくれているなと、綱吉は思った。疎外感を感じてか、獄寺は不機嫌丸出しだ。背中を丸めた猫背の姿勢に、ふてくされた顔。眉間の皺はいつにも増して深く、ちょっとやそっとではこの不機嫌は直りそうにないだろうと思われる。
「ツナ、今日、誕生日なんだよな」
  前を歩く山本が、カラカラと笑った。頼むからそんなに大きな声で言わないでくれよと綱吉は思う。チラリと横を見ると、獄寺のこめかみがピクピクとしているのがはっきりと見えている。
  絶対に怒っている。
  山本が、綱吉の誕生日を知っていることを獄寺は怒っている。
  唇をとがらせて、不機嫌丸出しの獄寺からは殺気すら漂ってきそうな感じがしている。
  どうしようかと綱吉は、獄寺から目を逸らした。
  こういう時は当たり障りのないことで気を逸らしてやればいいのだろうか。
  あのまま、屋上で正直に話していたなら、獄寺の態度はまた違ったものになっていたかもしれない。そう思うと、自分はやはりダメツナなんだなと思えてくる。
「ごっ……ごめんね、獄寺君っ。誕生日ってさ、なんか気恥ずかしくって……」
  言い訳がましく綱吉が告げるのに、獄寺は鋭く言い放った。
「でも山本は知ってたんスよね」
  拗ねたようにジロリと綱吉を見つめる獄寺がどことなく可愛らしく見える。自分と同じ男相手に何を思っているのだろう。それにしても、だ。やはり屋上で今日が自分の誕生日だと正直に告げなかったことは正解だったのだと綱吉は、思った。
  もしあの時、今日が自分の誕生日だと言っていたなら、屋上で獄寺にキスすることは叶わなかったと思う。
  まだまだ獄寺と自分は、今の友達同士のままでいいのだと、ダメツナの自分が胸の内で囁きかける。
「まあまあ、硬いこと言うなよ、獄寺」
  そう言って山本が、綱吉と獄寺の間に割り込んできた。
「ほら、さっさと行こうぜ」
  皆が待っていると、しつこく山本が言った。
  今はまだ、仲間たちと一緒に楽しい時間──楽しくて幼い、幸せな時間だ──を過ごしているほうがきっと自分にもいいのだろう。
  獄寺との関係を進めていくのは、これからゆっくり取りかかればいいことだ。
  山本に急かされながら、綱吉は小走りに暗くなった道を駆けていく。
  右隣には、獄寺がいた。
「ありがとう、獄寺君」
  小さな声で綱吉が呟くと、獄寺にはその声が聞こえたのか、怪訝そうにこちらへと視線を向けてきた。
  なにも言わずに綱吉は、獄寺の手を掴んで走り出す。
  前を行く山本は、かなり前を走っている。
  走りながら綱吉は、この幸せな時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられなかった。



END
(2009.10.15)


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