一日遅れの……

  図書館で綱吉と待ち合わせをした。
  たまたま任務と任務の合間に空き時間ができたのが幸いした。
  気紛れに連絡をしてきた綱吉から、一時間ほどで行くから図書館で待っているようにと一方的に告げられたのだ。
  だから獄寺は、さっきから図書館の書架の間を気紛れに歩いている。
  時折、目にとまった本を手にパラパラと頁を捲ってみるものの、今日はどうやら本を読む気分になれないようだ。すぐに手にした本を棚に戻すと、またふらふらと通路を歩いていく。
  ひとしきりそうして図書館の中を歩き回った後で獄寺は、ふと中庭に続くドアが開いていることに気付いた。
  時折、吹き込んでくる風に華やかな香りが混じっている。見ると、中庭の金木犀にオレンジ色の可愛らしい花がついていた。
「ああ、これが香っていたのか」
  納得したというように呟いて、獄寺はそっと中庭に出た。
  ほっそりとした金木犀の枝についた小さな花が、ここちよい香りを放っている。
  手をさしのべて花に触れると、はらはらと小さな花がてのひらに落ちてくる。
  甘やかな香りはしかしこの距離からでは濃厚すぎて、少し頭が痛い。
「いい息抜きになったな」
  小さく呟いて、獄寺は腕時計に目を向ける。そろそろ綱吉と約束した一時間になる。携帯に連絡を入れてくれるのか、それとも直接、図書館まで来るのかどちらだろうかと獄寺は考える。
  昔は人の言葉に調子よく乗せられてなかなか断り切れずに言いなりになるような優柔不断な人だったが、最近の綱吉は慣れという名の図太さが身についてきたようだ。
  ぼんやりとしていると、スーツの内ポケットに入れた携帯が電子音を鳴らして着信を知らせる。
「もしもし」
  慌てて電話に出ると、綱吉からだった。
「獄寺君? 今、図書館の入り口なんだけど、どこにいる?」
  耳元で十代目の声が聞こえているような感じがして、獄寺は少しだけ頬を染めた。
「中庭にいます。金木犀が咲いていたもので……」
  獄寺の言葉に綱吉は、わかったと返した。
  電波が途切れ、間もなくして綱吉がやってきた。



「いい香りだね」
  ドアを潜って中庭に出てきた綱吉が、感心したように言った。
「はい。ちょうど今がいちばんいい頃なんでしょうね」
  獄寺の言葉に、綱吉は嬉しそうに頷く。
「そうだね」
  言葉少なに二人はしばらく、金木犀の花に見入っていた。風が吹くと、はらはらと小さな花たちがこぼれ落ちてくる。あたりに甘ったるい花のにおいが漂い、獄寺は軽い目眩を感じていた。
「……疲れた?」
  不意に綱吉が、尋ねてきた。
「いいえ」
  獄寺は即答する。
  疲れたわけではない。花の香りに酔っただけだ。「そんなことはありません」と答えると、獄寺はさっさと中庭を後にした。
  二人とも多忙の身だったし、綱吉に至っては次の会議が待っている。いつまでもこんなところでぼんやりとしていることはできない。
「行きましょうか、十代目。お送りします」
  駐車場から車を回してくるため、獄寺は先に図書館を出た。綱吉は図書館の入り口を出たところで獄寺を待っている。
  次の会合の場所まで綱吉を送り届けた獄寺は、またあの図書館に寄ってみようと思った。
  どこが気に入ったのかは自分でもよくわからなかったが、あの金木犀のある中庭の心地よい空気にもういちど包まれたいと思った。



  あれから獄寺は、図書館にちょくちょく立ち寄っている。
  図書館の雰囲気が気に入ったのと、綱吉がよく利用する接待用のホテルが近かったため、獄寺は送迎の車を回すついでに時間があれば立ち寄るようになっていた。蔵書の多さも魅力的だったが、それ以上にあの中庭が気になって仕方がなかったのだ。
  金木犀はまだ、咲いている。
  中庭に出て甘い金木犀の香りの空気を吸い込むと、ささくれていた気持ちが解れていくような感じがする。
  ひとつひとつはこんなに小さな可憐な花だというのに、ひとつの群を成すと、深く甘ったるい香りになる。中庭に足を運ぶたび、獄寺は癒されている。
  そうして綱吉を迎えに行く時間になると、黙ってその場を離れていく。
  任務の時間だ。
  獄寺の頭は切り替わりが早い。図書館を出る頃には既に守護者としての冷たく厳しい表情になっている。
  ハンドルを操り、ホテルにボスを迎えに行くと、不機嫌そうなしかめっ面が獄寺をじっと見つめていた。
  後部シートのドアを開ける獄寺に、綱吉は冷ややかな眼差しをちらりと向けた。
「寄り道は楽しかったかい?」
  感情を抑えた意地悪な綱吉の物言いに、獄寺の動きが一瞬、止まる。
「ここに来る前に、どこにいたの?」
  一瞬、にこりと笑ってから綱吉は素早く車に乗り込んだ。
  それから後は、不機嫌そうに押し黙ったままだ。獄寺が喋りかける隙すらなく、どうにも居たたまれない空間に閉じこめられたまま、綱吉を屋敷へ送り届けるしか他はなかった。



  気持ちがすれ違ったまま翌朝を迎えた。
  午前中の獄寺は、任務の下準備があった。精鋭の部下を集めていくつかの打ち合わせをこなし、そのまま別の任務で笹川兄と一緒に現地調査に出かけた。
  綱吉は綱吉で、朝から会議であちこちを飛び回っている。
  夕方遅い時間になってようやく任務から解放された獄寺は、自分があの図書館の近くまで来ていたことに気付いた。
  ふらりと足を伸ばして、立ち寄ってみる。
  閉館しているのではないかと思われた図書館は、まだ開いていた。
  照明を落とし気味にした建物の中にはまばらに人が残っている。いつもの中庭へと続く通路を慣れた様子で歩いていく。開け放されたドアの向こうから聞こえてくるのは、子ども向けの絵本を読み聞かせる老齢の婦人の声だ。
  この建物の中だけ、別世界のようだと獄寺は思った。
  中庭のドアを開けると、むせかえるような金木犀の香りが少し冷たい風に乗って建物の中に流れ込んできた。
  薄暗い中、金木犀の小さな花たちがはらはらと降り注いでくる。
  足音を立てないようにそっと中庭に出ると獄寺は、金木犀の木の下に静かに歩いていく。音もなく落ちてくる花が、街灯のあかりに照らされて淡い金色に光って見える。
  目を閉じて、花の香りを吸い込んだ。
  昨日の綱吉の言葉が獄寺の胸に、小さな棘を打ち込んだ。小さな小さな、目に見えないほどの傷だったが、その棘はジクジクとした嫌な痛みを獄寺に与えている。気を抜くと昨日の綱吉のあの冷たい表情を思い出してしまい、そのたびに獄寺の胸は痛んだ。
  言葉を交わしたい。綱吉の目を見て、なにげない日常の一言でもいい、気持ちの通う言葉を交わしたいと、獄寺は思った。



  金木犀の木の下でしばらくそうやって獄寺は立ち尽くしていた。
  甘ったるい花の香りに包まれていると、ささくれた気持ちが少しずつ解れていくような感じがする。
  目を閉じて、濃厚な香りと降り注ぐ花に意識を集中していると、不意に携帯が鳴った。
  慌てて電話に出ると、綱吉からだった。
「今、どこにいるの?」
  少し怒ったような綱吉の声に、獄寺は穏やかに返した。
「この間の図書館です。中庭の金木犀がそろそろ散ってしまいそうなので、見に来ました」
  喋りながらも獄寺は、花々が散っていくのを感じている。強い風が吹けば、パラパラと落ちてくる。明日の朝にはもしかしたら、ほとんど残っていないかもしれない。
「今から迎えに行くから、そこにいるように」
  携帯の向こうで、綱吉がそんなことをポツリと言った。
  都合のいい幻聴だろうかと、獄寺は首を傾げる。公私ともに忙しいボンゴレの十代目が、守護者の一人でしかない獄寺を迎える来ると、今、確かに言ったような気はしたが。
「ねえ、獄寺君。君、ちゃんと聞いてる? 今から迎えに行くって俺、言ったんだけど」
  苛々と綱吉が言うのに、獄寺は戸惑いながら言葉を返した。
「図書館ですよ? 車で来ていますから、自分で帰れます。迎えなんて必要ありません」
  獄寺がそう言った途端、背後から綱吉の声がした。
「迎えに行くって言ってんだから、おとなしく待ってりゃいいんだよ、まったく!」
  建物の中、ちょうど中庭へと続くドアのところに、携帯を握りしめた綱吉が立ち尽くしていた。急いできたのだろうか、綱吉の息は荒い。
「十代目……?」
  獄寺の手にした携帯が、ポトリと地面に落ちた。
「迎えに来たよ、獄寺君」
  中庭に出てきた綱吉は、地面に落ちた携帯を拾い上げ、獄寺の手に握らせた。
「ほら、しっかり持って。これがなかったら困るだろ?」
  言い聞かすような綱吉の言葉に、獄寺はぎこちなく頷く。
  携帯を持った獄寺の手を両手で包み込み、綱吉は微かに笑った。
「……昨日はごめんね、獄寺君。俺の誕生日を忘れるぐらい君がこの花に入れ込んでるんだと思ったら、無性に腹が立ったんだ」
  そう言った綱吉の表情は、穏やかだった。もう、怒ってはいないようだ。
「あ……」
  握られた手と、綱吉の顔とを交互に見遣り、獄寺は口をパクパクさせた。
「す、スンマセン、十代目。あなたのお誕生日を忘れてしまうなんて俺は……」
  昨日、綱吉の機嫌が悪かったのはこのせいだったのだと、獄寺はようやく思い至った。
  どう謝ろうかと必死になって頭を下げようとしたところで、ぎゅっと体を抱きしめられた。
「謝らなくていいから」
  やさしい声だった。
「謝らなくていいから、笑ってよ?」
  抱きしめあった二人の上に、金木犀の花がはらはらと降り落ちてくる。
  獄寺はおずおずと手を動かし、綱吉の腕にしがみついた。
  それから掠れた小さな声で言った。
  ──…お誕生日おめでとうございます、十代目。



END
(2009.10.18)


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