イタズラ

  むしむしとして鬱陶しい梅雨の合間に、学校では水泳の授業が始まった。
  今年は、去年までとは違う。
  泳げるようになったのだと、綱吉は少し誇らしげな様子をしている。今までのように水に怯え、周囲の嘲笑の目に怯える必要もなくなった。まだ少しぎこちない泳ぎではあるけれど、最近の綱吉は少しずつダメツナ返上中だ。少しだけ泳げるようになったことが嬉しくて、誇らしくてたまらない。去年までの自分とは違うのだと思うと、顔が自然と緩んでくる。
  授業に出るのが嫌ではなくなった。これは大きな変化だ。
  日常の変化は些細なものから大きなものまでたくさんあったが、最近の綱吉には、友だちのいない学校生活なんて考えられない。自分の周囲はこんなにかわったのだ。
  それに好きな人も、できた。
  笹川京子のことは相変わらず憧れの存在ではあるけれど、そういった高嶺の花に憧れる気持ちとは別の「好き」が、今の綱吉にはあった。
  自分と同じ男だというのが、目下の悩みどころではあったけれども。



  初日の授業は晴れていた。
  前日に降った雨の名残りか、プールサイドはほんのり湿り気を帯びていたが、それもしばらくすれば気にならなくなるだろう。空は雲ひとつなく真っ青に晴れ渡っている。この様子だとプールサイドはすぐに乾くだろうし、そうでなければプールからあがったばかりの生徒たちの体から滴る水でビチャビチャになるかのどちらかだ。
「晴れてよかったな」
  さっそくふざけて水の中に突き落とされた山本が、ポタポタと水を滴らせながら綱吉に声をかけてきた。
「うん、そうだね」
  頷きながらも綱吉は、目の前の獄寺へとこっそりと視線を走らせる。
  白い背中に、ほどよく筋肉がついている。野球をする山本のように作られた筋肉よりは控え目だが、それでも無駄な肉などないように思える。ところどころに残る傷跡は、綱吉と知り合ってからのものもあれば、それ以前にできた傷跡だろうか、目を凝らして見なければわからないものもあった。
「お、いい形」
  不意に山本が呟いた。
「なに?」
  綱吉が尋ねると、山本はひとさし指を立ててすーっと、獄寺の背中をなぞる。指が動くにつれて、獄寺の背中の筋肉がヒクン、と引きつる。
「ひゃあっ!」
  油断していたのだろうか、獄寺らしくない声があがった。
「てめっ、ナニしやがる!」
  振り返ると同時に獄寺は、山本に掴みかかろうとする。
「ちょ、待って、獄寺君」
  二人の間に綱吉はするりと身を割り込ませた。
「悪気があってやったことじゃない……と、思うんだ。
  そう言い訳する綱吉の隣で山本は、獄寺の背中を気にしている。悪気など、彼の中にはこれっぽっちもないのだろう。
「なあなあ、獄寺。お前、肩胛骨ンとこの窪み、いい形してるのな」
  カッコイイと、山本が言う。
  どれどれと綱吉は、獄寺の背後へと回った。



  白い背中の肩胛骨の窪んだ形が、カッコイイと山本は言う。
  自分の背中どころか、他人の背中ですら滅多に眺めることはない。あるとしたら、水泳の授業の続く短い期間ぐらいのものだろう。
  綱吉は改めて獄寺の背中を見た。
  華奢に見えるものの、獄寺の体には全体的にしっかりとした筋肉がついている。ダメツナの綱吉とは大違いだ。もちろん、さしもの獄寺とてクラブ活動で平素から体を鍛えている山本や了平とは比べものにはならないだろうが、それでも見栄えはいいほうだと思われた。
「わあ、本当だね」
  そう言って綱吉は、山本がしたようにひとさし指の腹でそっと獄寺の背中をなぞってみる。さっき、山本がした時からずっと自分も触ってみたいと思っていたのだ。
「ひゃああ!」
  身悶えしながら獄寺が声をあげるのに驚いて、綱吉は手を止めた。
「なんだ、色気のねえ声!」
  カラカラと笑いながら山本が言う。
「あんだと?」
  振り返ってギロリと睨みつける獄寺の眼差しは、本気の眼差しだ。このままでは山本が獄寺に喧嘩をふっかけられるだけだ。
「ごっ、ごめん、獄寺君」
  慌てて綱吉は口を挟んだ。
「さっき、山本がしてて面白そうだったから……」
  そう言いながら綱吉は止めていた指を動かして、またするりと獄寺の背中をなぞった。
「うひゃ……」
  もぞもぞと獄寺は身じろいだものの今度は文句を口にすることはなかった。
  白い背中に指を走らせながら綱吉は、面白いと思った。指を動かすと、背中の筋肉がヒク、となり、ついでくすぐったいのか、獄寺が背中全体をもぞもぞとさせる。白い肌が動く。獄寺がじっとしているのは、綱吉の指が背中に触れているからだろうか。じっとくすぐったいのを堪えている背中が愛しくて、綱吉はもうひとなぞり、つーっと白い背中に指を走らせた。
「ひっっ!」
  背中をよじり、獄寺は恨めしそうに綱吉のほうを見た。
「十代目、勘弁してくださいよぅ……」
  淡いグリーンの瞳が、今にも泣き出しそうだった。



  授業中は、じっと獄寺の背中を見つめていた。
  白い背中の肩胛骨がふとした拍子に上下する様を眺めるのは楽しかったが、結局、最後まで授業に集中することはできなかった。
  終礼の鐘が鳴る頃になってもチラチラと獄寺の背中を気にしていた。先生の話なんてこれっぽっちも頭の中には残らなかった。
  授業が終わってからも、獄寺の白い背中が頭の中に浮かんでくる。
  肩胛骨が上下すると、すぐそばの窪みが浮いたり深くなったりする。白い肌は、授業の終わりがけには日光のせいでかほんのりと薔薇色に色づいていた。そのことが、獄寺が他の生徒たちとは違うのだということを示しているように思えてくる。赤みのさした肌を思い出すと同時に「エロティック」という言葉がふと頭の中に浮かんできて、慌てて綱吉はその言葉を否定した。
  自分は決して、そんなふうに疚しい目で獄寺のことを見ているのではないと、自分に対して苦しい言い訳をする。
  ただ、白いなと思って見ていただけだ。
  そこらへんの女の子の肌よりも獄寺の肌は白くて、触るともちもち、すべすべしていた。筋肉のついているところはもちろんそこそこの固さはあった。古い傷跡は薄皮が盛り上がって、特になめらかだった。
  イタリア人の血が流れているからこそのあの白さなのだろうか?
  もういちど触ってみたいと綱吉は思った。
  背中全体に手を這わして、触ってみたい。山本がカッコイイと言った肩胛骨の窪みの部分にも触れてみたい。
  頼んだら、触らせてくれるだろうか?
  友達として頼んでみようか? 君の背中に触らせてください、と。獄寺は聞いてくれるだろうか? 快く、背中を触らせてくれるだろうか?



  学校帰りの道すがら、綱吉は思いきって獄寺に頼んでみることにした。
  今日は山本は、部活動があるからと昇降口で別れた。この暑い中、ご苦労なことだ。
  いやそれよりもと、綱吉は思う。獄寺と二人きりの今がチャンスかもしれない。
  頼んでみるべきだと思ったものの、どう切り出せばいいのかがわからず、口を開きかけてそのまま固まってしまった。
  どう伝えたらいいのだろうか。
  ストレートに背中を触らせてくださいというのも妙な感じがする。
  歩きながらしばらく考えていると、隣を歩く獄寺がポリポリと背中を掻いていることに綱吉は気づいた。
「どうかしたの、獄寺君」
  尋ねると、獄寺は眉間に皺を寄せてちらりと綱吉のほうを見遣る。
「ああ……なんでもないっスよ、十代目。ちょっと日焼けして痒いだけですから」
  そう言いながらも、制服の上からガリガリ肩のあたりを掻いている。
「うち、寄ってく? 痒いところ見てあげるよ」
  すかさず綱吉が声をかけると、獄寺は「いや、そんな、おそれ多い」と遠慮をする。
「いいから、来なって」
  なおも綱吉が言い募ると、獄寺は困ったような顔をした。
「いやでも……」
「冷やしてあげる。そのかわり、宿題教えてくれるかな?」
  悪戯っぽく綱吉は口元に笑みを浮かべる。
  獄寺は困ったように視線を逸らした。ややうつむき気味にちらりと綱吉に視線を戻すと、ボソボソとした声で頷いた。
「なら……宿題を片付けて、時間が残れば……」
  そう告げる獄寺の首のあたりが、すでにほんのりと色づいている。
「うん、そうだね。時間があったら冷やしてあげるよ」
  時間があったらと返すことで、獄寺には逃げ道を用意してやった。もっとも、時間がなくても獄寺の背中を見ないことには綱吉の気持ちは収まらないだろう。
  背中を見て、冷やして、隙があったら昼間のように触ってみたい。肩胛骨のそばの窪みに触れたら、どんな感じがするだろう。指で押して、なぞって、軽く引っ掻いたら赤くなるだろうか。少しだけ、舌で触れてみたいような気もする。
  獄寺は、綱吉が背中に触ることを許してくれるだろうか?
  ちょっとした悪戯気分なんだけどなと、綱吉は思った。
  そんな綱吉の悪意のない思惑に、獄寺はこれっぽっちも気づかないでいる。
「じゃ、早く帰って宿題しよう」
  無邪気さを装って、綱吉は言った。
  頷いた獄寺は、少し照れたように二カッと笑った。



END
(2010.6.21)


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