雨の日

  勢いよく降りだした雨の中を、綱吉は駆けていく。
  傘は、持っていなかった。学校の昇降口で持っていた折り畳み傘を笹川京子と黒川花の二人に貸してしまったからだ。
  綱吉が差し出した傘を受け取った京子は、一緒に帰ろうと申し出てくれた。憧れの京子と二人で帰るのもいいかもしれないと一瞬、そんな思いが綱吉の脳裏を横切ったのは事実だ。しかしそうはならなかった。京子の隣には黒川花がいたし、綱吉だってたまには見栄を張りたかった。
  快く傘を京子に貸すと、くるりと踵を返して雨の中、表へ飛び出していった。
  学校から家までの距離を考えたら、きっと校門を出るか出ないかのあたりでずぶ濡れになってしまうはずだ。
  それでも構わないと思ったのは、やはり京子の目があったからだろう。
  オレだってたまにはいいとこ見せたいもんな。
  そう口の中で呟くと、綱吉は校庭を突っ切り、校門を飛び出した。
  雨足は速く、校門を出てすぐのあたりですでに綱吉は濡れ鼠になってしまっていた。鞄を抱えて走っていると、背後から声が追いかけてくる。
「十代目!」
  獄寺だということは、すぐにわかった。
  雨の中、綱吉は立ち止まって獄寺が追いついてくるのを待つ。
「十代目、傘ささないと風邪ひきますよ」
  追いかけてきた獄寺は、ビニール傘を手にしていた。
  わざわざ追いかけてきてくれたのだと思うと、嬉しいような気持ちになる。
「獄寺君……ありがとう」
  差し出された傘の中に、綱吉は遠慮がちに頭だけを入れた。焦れったそうな獄寺は、ぐいぐいと傘を綱吉のほうへと突き出してくる。
「使ってください、十代目」
  そう言って獄寺が傘の柄から手を離そうとするのを綱吉は、両手でぎゅっと握って押し止めた。



「駄目だよ、獄寺君が濡れるから!」
  綱吉自身はすでにずぶ濡れだったから、傘がなくても構わなかった。しかしそれでは、獄寺の気持ちを無駄にすることになってしまう。
  頭半分ほど自分より高い獄寺の顔をちらりと見て、綱吉は笑った。
「一緒に帰ろうよ、獄寺君。それともうちで雨宿りしてく?」
  尋ねると、獄寺は二つ返事で頷いた。
「はい、喜んで、十代目!」
  人懐っこい犬ころのようだと、綱吉は思った。
  時々、獄寺は恐い顔をしてあちこちの素行のよろしくない連中と喧嘩をしているようだったが、今の彼はそんな悪評を微塵も感じさせないような信頼しきった表情で、嬉しそうに綱吉を見つめている。
「じゃあ、傘は俺が持ちます」
  そう言って獄寺は、いちどは綱吉に押しつけた傘の柄を取り戻し、意気揚々と掲げてみせた。
「ありがとう、獄寺君」
  礼を告げる綱吉に、獄寺はニカッと笑い返した。



  雨の通学路を二人で歩いた。
  人通りが少ないのは、雨が強いからだ。あたると痛いほどの大粒の雨が、ザアザアと音を立てて降っている。
  通り雨だろうが、こんなふうに二人きりで歩くことができるのなら、それも悪くはないかもしれない。
「誰も歩いてませんね」
  獄寺が呟いた。
  これだけ雨の勢いが激しいと、余程のことがない限り、外に出るのは躊躇われるだろう。
「オレたちだけしかいないみたいだ……」
  と、綱吉も返す。
  怖いような嬉しいような、複雑な気分だ。
  笹川京子のことは憧れていたが、少し前から綱吉は、獄寺のことが気になっていた。いわゆる異性に対する好意と同じものを獄寺に対して、どうやら綱吉は抱いているようなのだ。
  男同士というのがいいことなのか悪いことなのかはわからない。この気持ちが一過性のものなのか、そうでないのかすら綱吉にはわからない。それでも、気になるのだ、獄寺のことが。
「なんか、不思議な感じがしますね」
  立ち止まり、傘の端から空を仰ぎ見て獄寺がまじまじと言った。
  喧嘩っ早いくせに妙なところでロマンチストで……そんな獄寺のことを、綱吉は可愛いと思うことがある。この可愛いと思う気持ちも、おそらく好意の一部になっている。
「……そうだね」
  呟いて、綱吉は獄寺の腕をくい、と引っ張った。
「濡れるよ、獄寺君」
  獄寺の体を傘の下に押し込めると、綱吉は満足そうに笑った。
「さ、早く帰ろう」
  いくら傘があろうが、二人きりで歩いているように感じられようが、こんな土砂降りの中を歩くのは、できることならごめんこむりたい。獄寺がいるから、我慢して歩いているのだ。
  靴の中はすでにビショビショで、歩くと靴が、靴下が、ぐちょぐちょと音を立てる。しかもその濡れた感触は冷たいような生暖かいような感じがして、気持ち悪いことこの上ない。
  ちらりと獄寺のほうへと視線を向けると、どうやら彼も靴の中が濡れてきたようだ。しかめっ面をした獄寺の眉間の皺が、だんだんと深くなってきている。
「帰ったら、あたたかいお茶でも飲もうか」
  尋ねた声は、さらに勢いを増した雨音にかき消されてしまった。



  気が付くと、二人ともずぶ濡れになっていた。
  それぞれが傘を持っていたとしても、この勢いでは同じことになっていただろう。
  綱吉がちらりと獄寺のほうを見ると、視線が合った。獄寺はずっと綱吉を見ていたのだろうか。
「寄ってくよね?」
  念押しとばかりに綱吉が尋ねる。
  獄寺は頷いて「はい」と返した。
  雨の中を歩くのは、意外と楽しかった。一人だったならきっと、校門を出たあたりで嫌になっていただろう。
  獄寺がいるから、家に帰る道が楽しい。
「帰ったら、宿題教えてくれるかな?」
  少しでも長い時間、獄寺を引き止めておきたい。
  一緒に宿題をして、他愛のない話をして、それから夕飯を家で一緒に食べてもらうのもいいかもしれない。
「ご迷惑じゃないっスか?」
  遠慮がちに獄寺が尋ねる。
  迷惑だったら、母の奈々が獄寺に夕飯を食べていくように声をかけることはないはずだ。
「大丈夫だよ」
  賑やかなのが好きな母のことだから、きっと獄寺のことを歓迎してくれるはずだ。リボーンだけでなくランボやイーピン、フゥ太、それにビアンキが我が物顔で居座っているというのに、獄寺一人に目くじらを立てるわけがない。
「じゃあ、遠慮なくお邪魔することにします」
  しかつめらしく獄寺は言った。



  雨の中を歩いていく。
  傘を持つ獄寺の手に、綱吉も手を添える。雨のせいでひんやりとなった手と手が触れ合って、そこからわずかな熱が生じるのが感じられる。
  雨に濡れるのも、もうどうでもいいような気がする。
  このままずっと二人で歩いていくことができたらいいのにと、ふとそんなことを綱吉は思った。
  しかし現実はと言うと、ドキドキしながらの道のりはあっという間で、一緒に歩くのはもう終わりなのだと思うと少し物足りない感じがしないでもない。
  ずぶ濡れのままで帰宅すると、さっそく母が二人分のタオルを玄関先まで持ってきてくれた。
「ほら、二人ともしっかり拭いて。風邪ひくわよ」
  そう言って奈々は、台所へと戻っていく。
  甘いにおいがしているから、きっとチビたちにせがまれてお菓子でも作っていたのだろう。
  二人して二階の綱吉の部屋にあがると、さっそく着替えを引っ張り出してくる。綱吉に至っては下着までずぶ濡れで、少しでも早く着替えたかった。
「着替え、オレのだと小さいかもしれないけど」
  そう言って綱吉が服を渡すと、獄寺はどことなく気まずそうに微かな笑みを浮かべる。
  獄寺の様子に、綱吉も気まずさを感じていた。これ以上、声をかけるのも憚られ、二人は黙って互いに背を向けた。
「……ありがとうございます、十代目」
  獄寺は綱吉に背中を向けたまま、服を着替え始めた。下着は免れたものの着ていたものはズクズクで、もしかしたら綱吉とたいしてかわりのない状態かもしれない。
  黙っていると、なんとなく空気が重苦しく感じられた。なにか喋らなければと思うものの、なにも言葉が出てこない。それに比例するようにして、気まずい空気はどんどん大きくなっていく。
  どうしたらいいだろう。
  なにを話せばいいのだろう。
  息を潜めて綱吉は、脱ぎ捨てた服を拾い集める。のろのろとした動きで服をすべて抱えると、獄寺のほうへと向き直った。
「獄寺君、母さんに洗濯機回してもらうから、脱いだもの貸してくれるかな?」
  あんなにどうしたらいいのだろうかと悩んでいたというのに、出てきた言葉は現実的な言葉だった。
  はあぁ、と溜息をついて綱吉は、獄寺が脱いだ服を腕に抱えたのだった。



END
(2010.7.17)


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