バタバタと騒がしい足音が聞こえてくる。
大きくドアを開けたその向こうに、息を荒げた獄寺の姿が見えた。
「十代目!」
飛び込んできた獄寺は、随分と急いで執務室へ来たのだろう、肩で息をしている。
「あ、獄寺君。お疲れさま」
ニコリと笑って綱吉は声をかけた。
「な…なにか、あったんスか?」
心配そうな獄寺の顔は至って真面目だ。ボンゴレ十代目のこととなると彼は、なによりも先に優先してくれる。獄寺のこういうところを、綱吉はほんの少しだけ鬱陶しく感じている。重くてたまらない時があるのだ。
「うん、ちょっとね」
そう言うと綱吉は、ドアに鍵をかけるように獄寺に告げた。大切な話があるのだと勿体ぶって綱吉が口にすると、優秀な右腕としてはなにを置いても十代目のそばに駆けつけてくれるだろうと知ってのことだった。
「それで、大切な話ってなんなんスか、十代目」
言われたとおり執務室のドアに鍵をかけると獄寺は、綱吉のほうへと近付いてくる。その無防備な様子は、やはりボンゴレ十代目を全面的に信服しているからだろう。
「……うん」
大切な話なんてないのだとは、口が裂けても言えなかった。
ニコリと余裕の笑みを浮かべると綱吉は、獄寺にもっと近くに寄るようにと手招きする。 「いったいどうなさったんですか、十代目。まさか、マル秘扱いのはな…──」
言いかけた獄寺の手首を掴むと綱吉は、力任せにぐい、と自分のほうへと引き寄せた。
「うわっ!」
よろり、と獄寺の体が傾いだ。
咄嗟に椅子から腰を浮かした綱吉は、獄寺の体を抱き留める。
ぶつかってくる華奢な体から、ふわりと煙草とコロンの香りが立ち上る。咄嗟に目の前の白い首筋に鼻先を寄せたら、のしかかってくるような獄寺の体重に押されて二人して床にひっくり返ってしまった。
「痛っ……」
言葉が飛び出すよりも先にゴン、と音がした。後頭部が床にぶつかった音だ。毛足の長い絨毯を床に敷いているというのに、なかなかいい音をするものだと綱吉は、そんなことをぼんやりと考えている。
「わ、すんません、十代目! 大丈夫っスか?」
あまりにも心配そうに獄寺が顔を覗き込んでくるものだから、綱吉は真面目な顔をしてみせた。
「お怪我は? どこか痛いところでもあるんスか?」
矢継ぎ早に尋ねかける獄寺は、見ていて可愛らしかった。男相手になにをと思うが、可愛く見えるのだから仕方がない。幼い子どものように眉間に皺を寄せ、今にも泣き出しそうな表情をしている目の前のこの男が、綱吉は可愛くて仕方がないのだ。
「十代目!!」
顔を寄せてくる獄寺に、綱吉は悪戯をしたくてたまらない。
ギリ、と唇を噛み締めると獄寺を見上げ、弱々しく名前を呼んだ。
「──獄寺君」
思ったよりも小さな声が出た。その声に驚いたように、さらに獄寺が顔を覗き込んでくる。
「しっかりしてください、十代目!」
覗き込む顔は心配で青白くなっていた。それなのに、キスをしたいと綱吉は思う。こんなにも獄寺が心配しているというのに、自分はなんと薄情なのだろうか。
「獄寺君……」
もういちど呼びかけると綱吉は、覗き込んでくる獄寺の頭をガシ、と腕に抱えた。
スーツについた煙草とコロンの香り。それから、微かな獄寺自身の汗と体臭とに、綱吉の心臓がキリリと痛む。
「じゅ…代、目?」
ここへきてようやく獄寺は、怪訝そうな表情になった。
銀髪に唇を寄せると、音を立ててチュ、チュとキスをした。
湿った音に、獄寺が恥ずかしそうに身を捩る。少し力を入れれば綱吉の腕の中から逃げ出すことなど簡単にできるはずなのに、獄寺はそうはしない。従順な右腕が綱吉のすることに抵抗を示すことは、滅多にない。
「逃げていいんだよ」
耳元に囁きかけると獄寺は、綱吉の肩口に額をぐい、と押しつけた。
「心配させないでください、十代目。打ち所でも悪かったのかと思いました」
獄寺の言葉は大袈裟すぎるのだ。
綱吉は小さく笑った。
「大丈夫だよ。ちょっと驚いただけだから」
鼻先を掠めた獄寺の体臭に、ドキリとした。それからキスをしたいとも思った。そもそも獄寺を執務室に呼びつけた本来の目的は、表向きには仕事と称して、心ゆくまでイチャイチャしたいと思ったからなのだ。正直に白状してしまうにはあまりにもつまらないことだから、綱吉はぐっと奥歯を噛み締めて、それらを言わないことに決めた。
「すんませんでした、十代目。あそこで俺が転ばなかったら……」
言いかけた獄寺の唇にやんわりと唇を寄せ、綱吉は笑う。
「それを言うならオレだって。獄寺君の手を引っ張ったのはオレなんだから、責任はオレにあるんじゃないの?」
「いや、でも……」
そんなやりとりをなんども交わして、二人で責任の所在を取り合った。
いつまでも執務室の床に転がっているわけにはいかないだろう。
しばらくして獄寺が居心地悪そうに体をもぞもぞとさせるのを見計らって、綱吉は抱きしめる腕を緩めてやった。恋人は、無情にもするりと綱吉の腕の中から抜け出した。
体を起こすと、獄寺の髪に埃がついているのが見えた。
「獄寺君」
声をかけると、さっと手を伸ばす。
素早く埃を取ってやると、絹糸のようにさらりとした銀髪に綱吉は指を絡めた。
「あの……?」
怪訝そうな獄寺の口元は、どことなく困ったように引き結ばれている。その唇の形が、なんだかひどく色っぽく見える。
「オレも、子どもだったらよかったのに」
はあ、と溜息をついて綱吉は呟く。十年前の自分だったら、ランボやイーピンと一緒に屋敷の中を練り歩いたはずだ。お菓子か、悪戯か。声高にそう言って、あちこちからお菓子をせしめただろうことは容易に想像できた。
「そんな……」
咄嗟に獄寺が声をあげる。
綱吉はもうひとつ溜息をつくと、獄寺の髪から指を引き抜いた。未練たらしく最後の房にくちづけて、身を翻す。
「子どもだったら、ランボやイーピンと一緒に…──」
言いかけた綱吉の手を、獄寺はそっと取った。眉間に皺を寄せ、綱吉をまっすぐに見つめている。
「そんな寂しいことを言わないでください、十代目。その隣に、俺は……」
恐る恐るといった様子で尋ねかける獄寺が、愛しく思える。ただ単に、大人としての責任や義務を一時的に放棄してしまいたいと思っただけなのだが、獄寺には別の意味に取られてしまったようだ。
そっと息を吐き出すと、綱吉は微かに笑った。
「もちろん、獄寺君と一緒じゃなきゃ、楽しくないと思うけどね」
執務室をそっと後にすると、手を繋いだまま綱吉の部屋まで移動した。
物音を立てないようにひっそりと、廊下を進んでいく。広間からのざわめきは、一足進むごとに波が引いていくように小さくなっていく。
ハロウィンパーティなどクソ食らえだと、綱吉は心の中で思う。だいたいリボーンは、なにを思ってハロウィンパーティをするなどと言ったのだろう。
自分の手の中に包んだ獄寺の手をぎゅっと握りしめると、獄寺も同じように握り返してくる。
一分でも一秒でもいいから、少しでも早く部屋に辿り着きたい。
廊下を進む足取りが、知らず知らずのうちに早足になる。
ぐいぐいと獄寺の手を引っ張って歩いていく。そのうちにふと、獄寺が立ち止まるのが繋いだ手から感じられた。
「どうかした?」
振り返って綱吉は尋ねる。
「手、痛かった?」
握っていた手の力を緩めようとすると、獄寺の手がぎゅっと綱吉の手を握りしめてくる。 「違うんです」
と、獄寺は言った。伏し目がちの瞳が濃い深緑色に見えて、綱吉はドキリとした。まるで猫の瞳のようだ。
「あの、もっとゆっくり歩きませんか、十代目」
綱吉の気も知らないで、獄寺は提案する。
少しでも早く二人きりになりたいのにと、綱吉はこっそりと恋人を睨みつける。
「じゃあ、トリック・オア・トリートだ」
少しだけ意地悪を、綱吉はするつもりだった。
咄嗟の言葉に獄寺は一瞬戸惑ったものの、すぐに破顔した。
「ランボやイーピンの真似ですか、十代目」
言いながら獄寺は、ポケットを探っている。
ポケットの中は空っぽだというのに。綱吉は小さく笑った。獄寺が持っていたお菓子は、少し前にランボとイーピンが全て奪い取っていった。だから獄寺のポケットには、もうお菓子など残っていないはずだ。
「トリック・オア・トリート。ねえ、獄寺君はどっち?」
恋人の顔をちらりと見ると、焦っているのか獄寺は、必死になってスーツのポケットを探っている。
「別に、なかったらないでいいのに」
お菓子なんて、別になくてもいいのだと綱吉は暗に告げた。
それよりももっと、欲しいものがある。お菓子よりもさらに魅力的なものが、目の前に……──
「や、ちょと待ってください、十代目。確かポケットの中に……」
言いながら獄寺はポケットを片っ端から確かめている。
まだしばらく、二人だけの時間はお預けになりそうだ。
深い溜息を吐き出すと綱吉は、微かな笑みを口元に浮かべたのだった。
END
(2010.11.05)
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