深爪

  書き物の途中で、爪が伸びていることに気づいた。
  普段なら気づきもしないような些細なことだが、やりたくないことをしている時に限って気づいてしまう。
  丸くカットされた楕円型の爪の先は、白くなった部分が随分と尖ってきている。
  こんな爪でひっかかれたら痛いだろうなと思うと同時に、これがなにかの拍子にひっかかりでもして爪が割れたりしたらどうしようと、頭の隅を不安がよぎる。
  痛いかも…と、いうか、絶対に痛いはずだ。血も出るだろう。
  いや、それよりもちょっとした不注意で爪をはがなければならなくなったらどうしよう。絶対に痛い。そんなの我慢できないだろう。
  ふう、と溜め息をついて。それから綱吉は自分以外は誰もいない執務室の中を見回す。
  おもむろに右端いちばん上の引き出しを引く。爪切りを取りだし、机の端にティッシュを敷いた。
  爪切りを使うと、パチン、と小気味のよい音がする。
  半円型の白い爪が、ティッシュの上に落ちる。
  プツ、パチ、と音を立てて左手の爪をきれいに揃えてしまうと、続いて右手にとりかかる。
  ティッシュの上には三日月のような細い爪がパラパラと散らばっている。
  両手がすっきりしたところで、今度は自分が仕事をするような気分ではなかったことに綱吉は気がついた。
  キョロキョロとあたりを見回すが、部屋の中には自分しかいないのだから、仕事をするしかない。
  はあ、とこれ見よがしに溜め息をついたところで、大きくドアが開いた。
「今、いいっスか?」
  ドキッとして、ティッシュにくるんだ爪を綱吉は机の上にばら蒔いてしまう。
「ああっ……」
  慌てて散らばった爪を寄せ集め、ティッシュに包んでポイ、と手元のゴミ箱に放り込んだ。



「お忙しかったですか?」
  控え目に獄寺が尋ねるのに、綱吉は苦笑いを浮かべる。
「ちょっと、息抜きしたかったところなんだ」
  そう言いながら綱吉は、指をクイ、クイ、と曲げて獄寺を呼んでみせる。
「なにかご用でも?」
  尋ねる獄寺の横顔は、扱く真面目な表情だ。
「うん。ちょっと、気になって……」
  と、綱吉は近付いてきた獄寺の手を取った。
  獄寺の白い手は、すらりとして骨張っている。指は、細く、長い。ピアノ弾きの手というのは、皆、こんなふうなのだろうか。
「爪、伸びてるね」
  楕円型の爪の先をするりと指の腹でなぞって、綱吉は言う。この爪に引っかかれるのもいいけれど、引っかかれないに越したことはないだろう。
「あ……はあ……そろそろ切ったほうがいいっスかね」
  怪訝そうに綱吉の様子をうかがいながらも、獄寺は律儀に返した。
「じゃあ、オレが切ってあげるよ」
  綱吉はそう言うと、いそいそと今片付けたばかりの爪切りを引き出しから取り出した。
「あの、いや、それは……」
  獄寺の困った顔は可愛くて、少しだけ嗜虐心をそそる。綱吉は「ここに座って」と、机を指さす。
「机に、ですか?」
  眉間に皺を寄せた獄寺の腕を引くと、無理に執務机に腰かけさせた。そうするとちょうど獄寺の手が綱吉の目の前に差し出される形になる。
「じっとしてて」
  白い手を取ると、綱吉は爪切りを動かし始めた。



  はじめは、仕事をサボるための口実ができたらいいな、ぐらいにしか思っていなかった。
  とにかく今日は気分が乗らず、仕事をする気になかなかなれなかった。
  だから、爪切りをした。
  爪を切ると、なんだか妙に気分がさっぱりとした。仕事をしたくない気持ちはまだあったが、なんだか、胸の奥に抱えていたモヤモヤとしていたものが少しだけ解消されたような気がしたのだ。
  少し深爪気味ではあったが獄寺の爪をきれいに切りそろえると、綱吉は顔を上げた。
「ヤスリは? かける?」
  尋ねると、獄寺は躊躇いながらも手を引っ込めようとする。
「ありがとうございます、十代目。これで、もう……」
「ヤスリ、いつもはかけてたよね?」
  少しばかり強い調子で綱吉が尋ねると、獄寺の手がピクリと震えた。
「あ……はい」
「じゃあ、ヤスリもかけておくよ?」
  素知らぬ顔をして綱吉は告げた。
  手を引っ込めたくても引っ込められない獄寺は、ただただ困ったように綱吉を見下ろすばかりだ。
  切ったばかりの爪にヤスリをかけながら、綱吉はじっくりと獄寺の手を見つめた。
  きれいな指だ。うっすらと硝煙のにおいがする手は、間違いなく男の手をしている。それでも、綱吉の手に比べるとほっそりとして、白い。この手が、時々、綱吉の体を抱きしめることがあった。縋りつくようにしっかりと肩に食い込み、爪の跡を残すことがある。ヒリヒリとして痛いけれど、どこか嬉しい痛みを残していく獄寺の爪を、綱吉は密かに気に入っている。
「今夜の予定は?」
  ヤスリをかけ終える寸前、綱吉は尋ねた。
「──…なにも、ありません」
  うつむいて返した獄寺の答えに、綱吉は満足した。



  夕食が終わると、綱吉はすぐに自室へと引き上げた。
  今夜は獄寺が部屋に来ることになっている。昼間、仕事中に誘ったことを獄寺は覚えているはずだ。よほどのことがない限り、獄寺が誘いを退けることはなかった。
  部屋の灯りを少し落とし気味にして、のんびりと膝の上に広げた雑誌の頁を捲る。
  獄寺はまだ、来ない。
  早く来てほしいような、まだ少し一人でいたいような気がする。待っている時間が楽しいのだ。恋人はいつ来るのだろう、今夜はどんなふうに誘ってくれるのだろうかと、そんなことを考えながら、獄寺が部屋に来るのを綱吉は待っている。
  ふと時計に目を向けると、十一時を少し過ぎたあたりだった。
  パラパラと頁を捲るものの、なにが書いてあるのか、さっぱり頭に入ってこない。もうすでに頭の中は獄寺とのことに飛んでしまっている。
  楕円形の爪がきれいだったなと、ふと綱吉は思った。
  桜色をしたオーバル型の爪の縁を、丸く切った。獄寺が自分で爪を切る時にはやすりをかけて仕上げるのを知っていたから、同じようにやすりをかけてやった。手が、微かに震えているのが感じられて、それが妙に艶めかしくてドキドキした。
  そう言えば、困ったような伏し目がちの表情も色っぽかった。
  ああ、自分は獄寺にこんなにもドキドキしていたんだと、あの時、綱吉は思った。
  揃え終わった獄寺の爪の先をするりと指の腹でなぞると、その感触がくすぐったかったのか、獄寺の手が揺らいだ。引っ込めようとする手を無理に引き止め爪の先に唇を押し当てた。
「はい、これでおしまい」
  そう告げて顔を上げると、獄寺の目元はほんのりと赤らんでいた。



  控え目なノックの音がして、ドアがそっと開いた。
「十代目。お邪魔してもよろしいですか?」
  細く開けたドアの隙間から顔を覗かせて、獄寺が尋ねる。
「早く入っておいでよ、獄寺君。待ってたんだよ」
  膝の上の雑誌をポイ、と放り出して、綱吉は獄寺を出迎えるためにソファから立ち上がった。
  ほっそりとした恋人の体を抱きしめ、首筋に鼻先を押し当てた。石鹸のにおいと煙草のにおいがして、綱吉は小さく笑う。
「いいにおいがする」
  風呂上がりの石鹸のにおいに、綱吉の下腹部がざわめきだす。昼間、獄寺の爪を切っている時にこの体を押し倒したくて仕方がなかったのは内緒のことだ。ぎゅっと強く抱きしめてから、ゆっくりと体を離した。獄寺の手を取って、ベッドのほうへと連れていく。
  するりとなぞった獄寺の爪の先は、昼間、綱吉が時間をかけて手入れをしたからか、今は丸みを帯びている。
  今夜は引っかかれたとしても痛くはないはずだ。
「ゴメン。したくてたまらないんだけど、いい?」
  上目遣いに獄寺にお窺いを立てると、物わかりのいい恋人は恥ずかしそうに目を伏せたものの、どことなく嬉しそうに頷いた。
  まず、キスを。それからお互いに相手の服を一枚一枚丁寧に剥ぎ取りながら何度もキスを交わした。
  優しく押し倒され、ベッドに沈み込む獄寺の手が綱吉の肩に縋りつく。
  ぎゅっとしがみついてくる獄寺の爪も、今日ばかりは綱吉の肩に跡を残すことはないだろう。
  こめかみと、鼻の頭にキスをして、それから獄寺の唇をゆっくりと貪る。
  肩に食い込む爪の痛さがないのが少しだけ、今夜は寂しく感じられた。



END
(2010.11.23)


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