風のむこう

  五月の風は気まぐれに草原を駆け抜けていく。
  顔をあげると頬や額に吹きつけてくる風の爽やかさに、知らず知らずのうちに笑みが浮かぶ。
  空は高く、青かった。とぎれ途切れのちぎれ雲がゆったりと空を横切ってゆく様を、綱吉はじっと見つめている。
  高原へは、気分転換に来ていた。
  少し前にあったゴタゴタなど、綺麗さっぱり忘れてしまいそうなほど穏やかな景色に、ずっと前からこうしてぼんやりと、吸い込まれてしまいそうな空の色を見つめていたような気がしてくる。
  頭上高くで腕を広げ、深呼吸をした。
  背筋が伸びるような感じがする。
  耳を澄ますと、草原を駆け渡る風の音に混じって葉摺れの囁きが聞こえてくる。小鳥がさえずり、遠くのほうからは水の流れる音が、綱吉の耳を楽しませている。
  平和だと思う。
  今、この時、穏やかな音に囲まれ、自分は平和を満喫している。
  大切な人と二人きりで過ごす時間のありがたさを、噛み締めている。
  すぐ近くに好きな人がいて、触れることができることの幸福感に、綱吉は溜息を零した。
  視線の先には、獄寺がいた。
  瓜を腹の上に乗せた獄寺は、少し前からベランダに引っ張り出したカウチの上でウトウトとしている。
  疲れているのだということはわかっていた。未来の世界で奮闘した獄寺と、二人だけの旅行を決行した自分を少し誇らしく思う。
「オレも、少し眠ろうかな……」
  そう呟くと綱吉はベランダに腰をおろし、カウチに背を預ける。ちょうど、獄寺の胸のあたりに頭を寄せると、穏やかな寝息が聞こえてくる。
  目を閉じると、すぐに綱吉は眠り込んでいた。



  ザリ、となにかザラザラとしたもので頬をなぞられたような感じがした。
  まだ意識ははっきりとしていない。もう少し眠りたい、放っておいてくれと頬に触れるなにかを手で押しやったかもしれない。
  しばらくすると、またザリ、と今度は額になにかを感じた。
  生暖かく湿ったものが、綱吉の額を舐めている。
  嫌々ながらも薄目を開けると、ナッツが綱吉の額を舐めているところだった。毛繕いでもしてくれているつもりなのだろうか? 微かに綱吉は笑った。
「くすぐったいよ、ナッツ」
  声をかけると、ナッツはゴロゴロと音を立てて喉を鳴らす。
  まだ、獄寺は眠っている。
  五月の空はまだ明るく、あたたかな日差しがベランダ脇の楡の木の葉の間から降り注いでいる。
「ダメだよ、ナッツ。獄寺君も瓜も疲れているんだから、静かに」
  綱吉の言葉に、ナッツはゴロゴロと低く喉を鳴らし、獄寺の腹の上で眠る瓜に静かに身を寄せていく。
  熟睡したままの獄寺の頬に手を触れてから綱吉は、再び目を閉じた。
  風が、さわさわと音を立てて耳元を通り過ぎていく。
  ナッツの喉を鳴らす音に同調するかのように、瓜がもぞもぞと体を揺らし、甘ったるく喉を鳴らし始める。
  幸せだと綱吉は思った。



  昼寝から目を覚ますと、獄寺はとうに起き出していた。
  ナッツも瓜もどこかへ遊びに行ってしまったのだろうか、姿が見えない。
  少し寂しく思いながらも綱吉は、カウチに腰をおろし直す。妙な格好で眠っていたからだろうか、体のあちこちが痛い。
  目を擦り、ぼんやりとした頭であたりを見回す。
  誰もいない草原にひとりぼっちでいるような気分がしてきて、綱吉は眉をひそめた。
  獄寺はどこにいるのだろうか。ナッツは、それに瓜も、どこに行ってしまったのだろうか。
  綱吉たちが泊まっているコテージの裏のほうからは、アカゲラの声が聞こえてきていた。独特のキュッ、キュッ、という鳴き声がアカゲラの鳴き声だということを綱吉は、獄寺から教えてもらった。
  ちらりと見えたアカゲラは頭の後ろが鮮やかな明るい赤色をしていた。どうやらコテージの裏手に巣があるらしく、さかんにドラミングをしている。
「ううーん」
  大きく伸びをしてから綱吉は、カウチを後にする。
  獄寺がいないとどうにも調子が出ない。
  せっかく二人きりで旅行をしているというのに、どうして置いてけぼり感を感じなければならないのだろうか。
  まだ少し眠い頭でふらふらとコテージの中を歩き回った。
「獄寺君? ナッツ……瓜?」
  恐る恐る声をかけてみるが、誰も返事をしてくれない。
  これはもしかしてもしかすると、冗談事ではなく、本当に自分は置いて行かれてしまったのだろうか?
「──…獄寺君?」
  少し強い調子で声をかけるが、コテージの中に人の気配はない。
  躊躇いがちに綱吉は、表へと出てみた。



  コテージのドアを開けると、目の前には小道がある。まっすぐ行くと駅へ、右手へ足を向けると近くを流れる小川へと続いている。
  微かに息を飲み込むと、綱吉はゆっくりとした足取りで小道を歩きだした。小川へと続く道を、慎重に進んでいく。
  川の水が流れる涼しげな音が、しだいに大きくなってくる。またどこかでアカゲラがドラミングを始めたようだ。カッカッカッ……と、忙しなく木をつついている。
  生い茂る樹木の間を抜けて小道を進んでいくと、川べりの開けたところに出た。
  獄寺がいた。川に足をつけて、釣り糸を垂らしている。
  川下では、ナッツと瓜が位置について上流から下ってくる魚を狙って水底にじっと見入っている。
「獄寺君!」
  綱吉なりに、脅かさないように声をかけたつもりだった。
  それでも、一瞬、獄寺の集中力が削がれてしまったのだろうか、振り返ると同時に体がぐらつき、大きくみずしぶきを跳ね上げる。綱吉があっと思った時には獄寺は、川の中に尻餅をついていた。
「大丈夫?」
  駆け寄り、川岸から手を伸ばすと獄寺は呆然とした表情で綱吉の手に掴まった。
「魚……」
  悲しそうに獄寺が呟く。
「魚?」
  尋ねながらも綱吉は、魚なんてどうでもいいと思った。魚よりも、獄寺のほうが大事だ。怪我はなかっただろうか? そればかりが気にかかる。
「魚に、逃げられてしまいました……」
  獄寺の言葉に、ナッツと瓜もそれぞれ、残念そうに低く唸り声を上げた。
「……驚かせてごめん」
  一人と二匹から責められて、綱吉は謝るしかなかった。



  ずぶ濡れの獄寺と、並んでコテージへと戻った。
  コテージにはそこそこの味のレトルトものを始めとする食品が常備してある。魚は釣れなかったが、だからと言って食事に困るようなことはないのだ。
「着替えておいでよ」
  声をかけると、獄寺は照れ臭そうにうつむく。
  シャツの裾から覗く白い首筋にほんのりと朱が差して、やたらと色っぽく見える。
  ドキリとして、それから慌てて綱吉は目を逸らした。
  あの白い肌に、少し前に自分は触れたことがある。未来の世界にいる時のことだ。滑らかな手触りの肌だった。煙草のにおいと、獄寺がいつも身につけているコロンの香りがしていたのを覚えている。
  あれからもう何日も過ぎている。
  オレンジの爽やかなにおいのする肌に、もういちど触れてみたいと思う。
  柔らかな唇に、キスしたい。
  キス……させて、もらえるだろうか?
「あ……」
  声をかけようとしたものの、どう切り出せばいいのかがわからず、綱吉は口にしかけた言葉をこそりと飲み込んだ。
  獄寺は、頷いてくれるだろうか?
  キスしてもいいと、言ってくれるだろうか?
  恐る恐る綱吉は、獄寺の顔を見た。
  淡い緑色の瞳が、じっと綱吉を見つめ返してくる。
「どうかしましたか、十代目?」
  怪訝そうに首を傾げる獄寺に、綱吉は笑みを向けた。
「ほら、さっさとシャワー浴びて着替えてきなって」
  キスはそれからでも遅くはないだろう。
  素早くバスルームへと向かった獄寺の後ろ姿に視線を馳せ、綱吉はほう、と溜息をつく。
  獄寺が戻ってくるまでにと、綱吉は夕飯の用意に取りかかる。レンジでチンするだけのピザとフライドポテト、ラザニアを温める。それからベランダに出しっぱなしになっているカウチの横にテーブルを持ち出し、温めた食品を並べた。ペットボトルのミネラルウォーターをコップに注ぐと、夕飯の用意のできあがりだ。獄寺がバスルームから戻ったら、すぐにでも食べられる状態だ。
  ふと見ると、ベランダのすぐそばの楡の木が薄暗い影を投げかけていた。
  それでも外は、まだ明るい。
  西の向こうの空にオレンジ色の太陽が沈もうとしている。せいいっぱい腕を伸ばして、夜がくるまではあたりを明るく照らそうと頑張っているかのようだ。
  目を閉じると、風が頬を優しく撫でていくのが感じられた。
  風の音、木の葉の音、川のせせらぎ、鳥の声。背後から小さなくしゃみが聞こえて、綱吉は目を開けた。
「すんません、十代目。晩飯の用意、十代目にさせちまいましたね」
  申し訳なさそうな顔をした獄寺が、すぐそこに立っていた。
  急いでシャワーを浴びてきたのだろう、銀色の髪がまだしっとりと湿っている。
「いいよ、これぐらい。それより食べようよ」
  二人並んでカウチに腰をおろすと、ぎこちない空気の中で、テーブルに並んだ料理を少しずつ食べていく。
  ラザニアを食べる獄寺の口が、動いている。ピザを咀嚼する。ペットボトルの水をぐい、とあおり飲むと喉が上下して、艶めかしい。唇の端についたピザのソースに、綱吉は目を惹きつけられた。
  キスしたいと思わずにはいられない。
  ゴクリと唾を飲み込んだ瞬間、森の奥からひんやりとした風がさあ、と吹きつけてきた。
  ハッと我に返った綱吉は、驚いたように瞬きを繰り返した。
  まだだ、と、綱吉は思った。
  キスは、まだだ。もっと暗くなってからだ。
  ジリジリと焦げつきそうになる気持ちをぐっと堪えると、綱吉は目の前の夕飯に意識を集中させた。
  耳のすぐ近くを駆け抜けていく風を焦れったく感じながら、綱吉は獄寺の唇から目を離したのだった。



END
(2011.5.27)



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