夏バテで綱吉が倒れたと獄寺が知ったのは、つい今しがたのことだ。
明後日、二人で市営プールに行く約束していたものの集合時間を決めておらず、何時に待ち合わせるのか確認をしようと電話をしたところ、綱吉の母の奈々から事の次第を聞かされたのだ。
倒れたと言ってもたいしたことではないから、明後日には皆と一緒にプールに行けるはずだと奈々はいつものあっけらかんとした様子で返してくれた。
それでも、綱吉を心配な気持ちにかわりはない。
お見舞いに行ってもいいですかと獄寺にしては珍しく丁寧な口調で奈々に尋ねると、二つ返事で「甘いかき氷を用意してあげるら、すぐにいらっしゃい」と返される。
正直なところ、連日の暑さで獄寺も少々バテ気味だった。これはありがたいと獄寺は、早速伺うことを奈々に伝え、電話を終えた。
受話器を元に戻すと獄寺は早速、シャワーを使う。さっきコンビニから帰ってきてすぐに綱吉のところへ電話をしたものだから、着ていたシャツは汗でベタベタだった。下着まで汗でほんのりと湿っている。着ていたものを洗濯機に放り込むと、ほとんど水に近いシャワーを頭から浴び、さっぱりとする。
腰にタオルを巻きつけた姿で部屋に戻り、獄寺は替えの服を探す。
見舞いに行くのだから、あまりにも派手な服はやめておいたほうがいいだろう。
結局、濃い緑色のタンクトップとジーンズの上に半袖のパーカーを羽織り、獄寺は家を出る。 沢田家までは歩いて行く。のんびりとした足取りで、途中のコンビニで手土産がわりのスナック菓子とジュースを買って、獄寺は歩き慣れた道を進んでいく。
綱吉の状態が心配ではあったが、彼の母である奈々が大丈夫だと言うのだから、そう心配することもないのだろう。
焼けたアスファルトを踏みしめ、さっきシャワーを浴びたばかりだというのにもう汗だくになりながら、獄寺は沢田家のインターホンを押す。
待っていたように綱吉の母が玄関のドアを開ける。
人当たりのいい笑みを浮かべた奈々は、獄寺の手を取ると「さ、上がって、獄寺君」と声をかけてくる。
この家の居心地がいいのは、きっと彼女のおかげだろう。いつもあたたかな笑みを浮かべては、やって来る者を歓迎する、そんな女主人がいるから沢田家はいつ訪ねてきても居心地がいいのだ。
「お…お邪魔します、お母様」
礼儀正しくそう告げると獄寺は、家の中へ上がった。
獄寺が二階の綱吉の部屋に入ると、綱吉はベッドにゴロンと転がっていた。
一見すると単にダラダラとしているだけのように見えないでもないが、やはり疲れているのだろうか、顔色はあまりよくない。
「十代目、夏バテだと聞きましたが……」
声をかけると綱吉は、バツの悪そうな顔をして微かに笑う。
「……うん」
綱吉の母はたいしたことはないと言っていたが、本当に大丈夫だろうかと心配になってしまうほど、綱吉は弱々しく見える。
「あの……コンビニに寄ったら新しいスナック菓子が出てたから、買ってきました、十代目」
ビニール袋に入ったままの菓子とペットボトルのジュースを、獄寺は綱吉の目の前へと無造作に突き出した。
「ありがとう、獄寺君」
嬉しそうに笑う綱吉はしかし、どこかしらぎこちない様子がして見える。
本当に、大丈夫なのだろうか?
明後日の約束のことをここで切り出すのは、なんとなく躊躇われる。獄寺は手土産兼お見舞いの菓子を渡してしまうと、後は手持ち無沙汰に綱吉が横になったベッドの脇で胡座をかいて座ったまま、じっと押し黙っている。
「……心配かけちゃってごめんね」
沈黙に耐えかねたのは、綱吉のほうだった。
声に力はないが、獄寺が見舞いに来たことを喜んでくれているのがわかる。それだけで獄寺は充分だと思う。体の調子が優れない時に、なにも無理をして元気に振る舞ってほしいとは思わない。
「お母様から聞いた時には、驚きました」
青天の霹靂とはこのことだ。まさか綱吉が倒れるとは、これっぽっちも思ってもいなかったのだから。
「あー……うん。なんか、張り切りすぎたみたいで……チビたちと遊んでたら、急にフラーッと、ね」 冗談めかして綱吉は言う。
「アホ牛が原因っスか」
前々から気に入らないヤツだと思っていたが、あのアホ牛め、と獄寺は口の中で呟く。
「いや、あの……ランボはあんまり関係ない……と、思うよ」
綱吉の歯切れが悪いのは、ランボを庇っているからだろうか。そう思うといっそう、獄寺の中の憤りが激しくなる。自分は明後日に綱吉と遊ぶ約束があるからと電話をすることすら躊躇っていたというのに、あのアホ牛め。眉間の皺をより深くして、獄寺は口の中の内側の肉をぐっと噛む。
「それに、明後日のプールは大丈夫だからさ」
そう言って綱吉は、獄寺のほうへと手を伸ばしてくる。
触られる、と思って獄寺が慌てて目を閉じたら、髪をくしゃり、と撫でられた。優しい手が、獄寺の髪をもてあそび、するりと離れていく。
「……獄寺君の髪、キラキラしててきれいだね」
目を閉じているからだろうか、耳に響く綱吉の声が、たまらなく甘ったるく聞こえる。
「そんなこと……」
そんなこと、ない……と言いかけた途端、唇にやわらかなものが押し当てられた。
「ん……っ」
やわらかくて、ほんのりとあたたかくて……ああ、十代目の唇が、自分の唇にくっついているんだ。そう思うと同時に、獄寺の心臓がザワザワとざわめきだす。
「……んんっ!」
チュ、と音を立てて綱吉の唇が離れていくまで、何秒ぐらいかかっただろうか。
獄寺は呆然としながらも、目の前の綱吉の顔を見つめている。
唇を離した綱吉は、複雑そうな表情をしていた。
自室のベッドにゴロリと横になった獄寺は、さっきから昼間のことをひたすら反芻していた。
昼間、綱吉の部屋でキスをされた。
どうして綱吉は自分にキスをしたのだろう。
どうしてあの場で自分は、綱吉を拒まなかったのだろう。
男同士なのに、と獄寺は思う。
自分たちは男同士だ。男同士でキスなんて、日本ではあまり考えられないことだ。なによりも自分たちの関係は、単なる友だち同士だというのに、こんなことは考えられない。
特に綱吉の性格からして、こういう……性的なことを思わせる行為は、冗談ではしないだろうと思われる。
と、言うことは、だ。
これは冗談ではないということだろうか? 真面目に綱吉は、キスをしてきた?
あの時、キスをした後で綱吉は、どんな表情をしていただろうかと獄寺は思い出してみる。
唇が離れた瞬間、綱吉は照れ臭そうな、しかしどこか寂しそうな、複雑な表情をしていた。
あのキスが冗談などではないと言うのなら、きっとなにか重大な理由があってのことだろう。綱吉がわけもなく誰かをからかったりするようなことをしないことは、獄寺がいちばんよくわかっている。となれば、きっとあのキスにはなんらかの理由があったのだ。
その理由とは、いったいなんだろう。
キスをする、理由。
男同士で。
何度も寝返りを打っては、獄寺は溜息をつく。
綱吉の真意がわからない。
綱吉が、自分にキスをする理由がわからない。
いったい、どうしてだろう。
どうして綱吉は、男である自分にキスをしたのだろうか。
獄寺には、どうしてなのかがわからない。もちろん、綱吉のことは同じ男として尊敬しているし、好きだと思っている。だがその好きというのは、友だちとして、仲間としての好きだと思っていた。今までは。
あのキスの意味がわからないことには、獄寺はどうにも身動きがとれない。がんじがらめにされてしまって、自分の足下すら危うい状態になってしまいそうだ。
はあぁ、と何度目かになる溜息を暗闇の中に吐き捨てると獄寺は、ガリガリと頭を掻きむしる。
獄寺のこの銀髪を、綱吉はきれいだと誉めてくれた。あの時、獄寺はとても嬉しかった。誰か別の人に言われたなら、もしかしたら気分を害していたかもしれない。他の誰でもない綱吉が言ったことだから、獄寺は嬉しかったのだ。
それにしても、キスの理由だ。
獄寺にはさっぱりわからない。綱吉の行動の真意を掘り下げ、答えを導き出すためには、やはり当の本人に確かめるしか方法はないだろう。
だが、いったいいつ、確かめればいいのだろう。
明日は……と考えて、明日ではダメだと獄寺は思う。まだ、心の準備ができない。綱吉の顔を見たら昼間のキスを思い出してしまいそうで、気まずくて、とてもではないが会うことはできない。
だったら明後日はどうだろう。
明後日は、市営プールに行く約束をしている。
当日、どうなるかはわからないが、今のところは二人きりで行くことになっている。いつものように誰かれ構わず集まってくるかもしれないが、そうなってくれないだろうかと、今回ばかりは願わずにいられない。
二人きりで顔を合わせようと思うと、二日や三日では、気持ちの整理がつきそうにない。 「あああ〜、なんでキスなんてするんですか、十代目」
ゴロン、と大きく寝返りを打つと獄寺は、唇に手をあてた。
指で触れた唇がほんのりと熱いのは、綱吉の唇が触れたからだろうか。
ペロリと唇を舐めると、歯磨き粉のミントの香りがしていた。
ああ、と獄寺は思う。キスの味というのは、こういうのを言うのだろうか。綱吉とキスをした時には感じなかったが、あの時の感覚は、まさにこのミントの味のようだ、と。
もう一度、綱吉はキスしてくれるだろうか?
その時にはきっと獄寺にも、昼間の綱吉のキスの理由がわかるような気がした。
(2012.8.6)
END
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