夢うつつに聞こえてくるピアノの音で、綱吉は目を覚ました。あれはきっと、獄寺が奏でているのだろう。
どこかもの悲しいような、切ないピアノの曲に綱吉は、のろのろとベッドに起き上がる。 まだ明け方にもなっていない時間だからだろうか、窓の外はぼんやりとして暗かった。
眠い目をしばたたかせて、綱吉はベッドを下りた。床に散らばった衣服を拾い上げ、身に着けてからリビングへと足を向ける。
フローリングの床の上を裸足で歩くと、ペタペタと小さな音がした。
リビングのドアは細くすけたままになっていて、綱吉はそこからそっと中を覗き込む。
こちらからはよく見えないが、獄寺がピアノに向かっている姿が見えた。
はめ殺しの大窓から入り込む月明かりに照らされて、獄寺はピアノを弾いている。ジーンズをはいただけで、上は何も着ていない。
鍵盤の上を走る指の動きは軽やかで優しいものだったが、聞こえてくる旋律に綱吉の胸の奥がツキンと痛む。
「……眠れない?」
静かに声をかけると、獄寺の手が止まった。顔を上げ、綱吉のほうへと向き直る。
「すみません、十代目。うるさかったですか」
「うるさくなんて」
そう言うと綱吉は、獄寺の銀髪に手を伸ばした。触れるとやわらかで、指の間をさらさらとすり抜けていくような感触が綱吉は好きだった。しばらくそうやって獄寺の髪の感触を楽しんでから綱吉は、口を開く。
「何か聴かせてよ」
獄寺はすぐにピアノの鍵盤に指を滑らせた。
もしかしたら獄寺は、彼の今は亡き母のようにピアニストになりたかったのではないだろうか。たくさんの人に自分のピアノを聴いてほしいと思っているのではないだろうか。
こんなふうに彼がピアノを奏でる姿を見ていると、いつも綱吉は不安に思えてくる。自分が獄寺のことを精神的に縛りつけているのではないだろうか、と。
大勢の前でピアノを弾く獄寺の姿を見たいと思うこともあった。だが、誰にも見せたくないとも思う。
自分だけのものにして、閉じこめて、気の向くままにピアノを奏でさせたい。綱吉だけのために。そんなふうにして獄寺を束縛したいという気持ちが、日ごとに綱吉の中で大きくなっていく。
これではいけないということはわかっていたが、どうすればいいのかがわからない。
不安を感じると共に焦りや怯えが綱吉の胸の奥底で渦巻き、片時も獄寺をかたわらから離すことができなくなってしまった。
これまでと同じように獄寺は接してくれている。屈託のない笑みを浮かべて、話しかけてくれる。
おそらく獄寺のことだから、とうの昔に綱吉のどす黒い感情に気づいているだろう。
ふと見ると、月明かりに照らされた獄寺の背中、肩胛骨のすぐそばに薄黒い染みのような影ができている。獄寺が腕を動かすと、肩についた筋肉が肉感的な動きをする。
「こんなところに……」
綱吉は小さく呟いた。
さきほどの情事で、自分自身がつけた所有の印が影のように見えているだけだ。それなのに罪悪感がこみ上げてくるのはどうしてだろう。
「……獄寺君」
思わず綱吉は、獄寺の肩を背後から抱きしめていた。
「獄寺君、ごめんね」
不意に口をついて出た謝罪の言葉は、何に対してのものなのか、綱吉にもわからない。
「どうなさったんですか、十代目」
獄寺の言葉は静かだった。ほっそりとした指先が、綱吉の腕にかかる。
「君を……ピアニストとして表舞台に立たせてあげたいとは思うけれど、オレはそんなに心が広くないんだ」
縛りつけ、手にも足にも首にも鎖をかけて、例え嫌がったとしても手元に置いておきたいと思うほど、自分は獄寺に入れ込んでいる。同じ男同士だというのに、いったいいつから自分はこんなにも獄寺に執着を見せるようになっていたのだろう。
「なに言ってんスか、十代目」
クスッ、と獄寺は笑った。
「俺は、あなただけのピアニストでいたいんです。俺が望んでそうしたいと言ってるんですよ、十代目?」
獄寺の指が、するりと綱吉の腕を撫でた。
綱吉はよりいっそう強い力で獄寺の体を抱きしめた。
月明かりの中でしばらくの間、綱吉は獄寺の体を抱きしめていた。
手放したくないと思う。
自分だけのものにするというのは文字通り、手元に置いて片時もそばから離さないということだ。綱吉が望めば、おそらく獄寺は受け入れてくれるだろう。現に今だって獄寺は、綱吉のためにそばにいてくれている。自分と同じ男だというのに毎晩のように綱吉の前で足を開き、抱かれている。
これが果たして、獄寺にとっていい環境だと言えるのだろうか。
「君はもっと、外の世界を見るべきだと思う」
人のことは言えないけれど、と綱吉はポソリと言い足す。
自分だって、まだまだ世間のことを知らなければならない。例え世間のことを隅から隅まで知ったとしても、あの家庭教師はきっと綱吉のことを無知な子どもの頃と同じように扱うだろう。そんなふうに成長途中の子どもと同じ扱いしかされない自分に、獄寺の人生を台無しにする権利はない。
「オレ、獄寺君のピアノ、いろんな人に聴いてほしいんだ」
小さなホールを借りてもいい。イタリアの祖父の屋敷でささやかなコンサートを開いても構わない。もっとたくさんの人に獄寺のピアノを聴いてもらい、いろんな人たちと交流を持つべきだ。
「……それは、ボンゴレ十代目としての命令ですか、十代目?」
獄寺は、鍵盤を軽く叩いた。
張り詰めた音がリビングに響く。
ここでそうだと返せば獄寺は、綱吉の言うとおりにするだろう。だが、違うと返したとしても獄寺は、綱吉の言うとおりにするだろう。それではダメなのだ。獄寺が自分で考えて、自分から自発的に動かなければならないのだ。
「違う……けど、違わなくもない」
惑わされないでほしいと綱吉は思った。綱吉の言葉に引きずられてほしくない。綱吉の思い通りに動いてほしくはない。そんなことをしたら今までの繰り返しだ。獄寺自身が考えて、自分で答えを出してほしいのだ。
「オレのことは考えないで、自分の思うように進んでほしいだけだ」
その決意の先には、もしかしたら綱吉のいない未来があるかもしれない。だが、それでも構わない。獄寺が選ぶのであれば、綱吉に口を挟む権利はない。
「俺は……」
綱吉の腕を掴む獄寺の指に、力がこもった。ギリ、と爪を立ててくるのは彼なりの反抗心の現れだろうか。
「俺は今のままでいいです」
「でも、それじゃあダメなんだ」
ややきつい口調で綱吉が言うと、腕を掴んでいた獄寺の手が不意に離れていった。
「あなたのためにしかピアノは弾きません。他の誰でもない、あなただけのピアニストでいたいんです、俺は」
そう言いいながらも獄寺は、全身で綱吉を拒絶している。触るな、一人にしてくれと、獄寺の全身がそう、綱吉に叫んでいるように見える。
綱吉はそっと獄寺から離れると、くるりと踵を返して部屋へ戻った。
自室のドアに手をかけると、ピアノの音が聞こえてきた。怒りの感情をすべて鍵盤に叩きつけているような激しい旋律に、綱吉ははあ、と溜息を零す。
互いに距離を取らなければと思うものの、なかなかうまくいかない。
ちょうどいい距離感がわからなくて、いつも自分は失敗ばかりしてしまう。
ベッドの上にごろりと仰向けに転がると綱吉は、ポソリと呟いた。
「難しいよなあ……」
目を閉じてもまだ、獄寺のピアノが聞こえてきている。
感情のままに奏でているからだろうか、音が乱れ気味だ。いつもならしないだろうミスも、何となく気づいてしまった。
動揺しているのかもしれない。綱吉の言葉に何かを感じ取って、感情が揺らいでいるのだろう、きっと。
「なにも別れようって言ってるわけじゃないんだから、そうややこしく考えなくてもいいのに」
別れることなどできないと、綱吉は心の中で強く思った。もしもそんなことになったら、自分が耐えられない。獄寺が右隣にいない未来だなんて、考えただけでゾッとする。
ずっと一緒にいられるように。
大切な友人として、守護者として、そして恋人として──。
もう一度だけ小さく溜息をつくと綱吉は、あくびをした。
眠るのだ。そうしたら少しは自分のこの複雑な気持ちも落ち着くだろう。朝になれば獄寺だって、落ち着いているはずだ。
目が覚めたら仲直りのキスをして、それからもう一度話し合えばいい。聞いてくれなければ何度でも。
二人がいつまでも一緒にいられる方法を探すために、不安な気持ちを取り除くために。
「朝に、なったら……」
小さく囁いた綱吉の声は、もしかしたら寝言だったのかもしれない。
リビングからはいつまでも、獄寺のピアノの音が響いてきていた。
(2014.4.27)
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