恋人未満

  あの唇に触れたいと思うようになったのは、いつの頃からだろうか。
  執務室のデスクに肘をついた綱吉は、はぁ、と溜め息をつく。
  ちらりとデスクの向こうを見ると、獄寺が神妙な顔をしてキーボードを叩いている。夕べの一件の報告書と、始末書を同時に作成しているとつい今しがた聞いたばかりだ。
  声をかけたいような気もするが、このまま眺めていたいような気もする。
  色白の肌にうっすらと汗が浮かんでいるのがここからでも見えるような気がするのは、秋になったとはいえまだまだ暑い日が続いているからだ。
「獄寺くん、始末書終わりそう?」
  声をかけると、獄寺はにこりと笑い返してくる。
「はい、十代目! あと五分もあれば!」
  本当かどうかはわからないが、それぐらい気合いを入れて書類を作成しているのだろう。
「じゃあ、これが終わったら一緒に晩飯でもどう?」
  綱吉は前々から考えていた言葉を口にする。
  いつ誘おうかと迷っていた。普通に友人として食事に誘うことはできても、特別な関係にステップアップするために食事に誘うのは、綱吉には敷居が高すぎてずっと迷っていたのだ。
  綱吉の言葉に、獄寺は顔を上げ、こちらをまじまじと見つめてくる。
「よろしいんですか?」
  このところ、京子やハルを優先して食事や催事に付き合っていたことを知っている獄寺にしてみれば、それほど意外だったのだろう。
  うかがうような淡い翡翠の瞳が、じっと綱吉を見つめてくる。
「だって週末のこんな時間から女の子たちは誘えないよ」
  そう言うと綱吉は、執務室の壁にかかる時計にちらりと視線を向ける。
  午後十時前を示した針の先に、獄寺は「ああ、そうっすね」と返してきた。
「うん。だからさ、二人で屋台のラーメンでも行かない?」
  すぐそこの路地裏に屋台のラーメン屋が来るのは週末だけだ。色気もなにもない屋台のラーメン屋でラーメンを啜り、二人きりでのんびりと家へ帰る。それだけて綱吉には幸せを感じることができる。そんな些細なことをいくつも重ねて獄寺とは時間を共有していきたいと綱吉は思っていた。
「ラーメンっすか。トンコツありますかね?」
「あるよ」
「じゃあ、すぐに終わらせます!」
  そう言ったかと思うと獄寺はピアノを弾く時のようにリズミカルにキーボードを叩き始めた。素早い指さばきに綱吉が感心していると、本当にあっという間に獄寺は報告書と始末書を仕上げてしまう。
「終わりました、十代目。行きましょう!」
  パソコンの電源を落とすと勢いよく椅子から立ち上がり、獄寺はさっさと帰宅準備を整えた。
「お待たせしました、十代目」
  そう言って笑う獄寺の顔が無性に可愛く思えて、綱吉は小さく笑った。



  二人で路地裏の屋台に足を運んだ。
  夜だというのに予想以上にむし暑かった。これで秋だというのだから驚きだ。例年ならこの時期は、日が暮れるとひんやりしてくるものなのだが。
  板を渡しただけのベンチに二人で腰を下ろすと、綱吉は屋台のオヤジに声をかけた。
「トンコツ二つ」
  獄寺は嬉しそうにしている。もう何度も二人でいろんなところに出かけたが、もしかしたら屋台は初めてだったかもしれない。
  ラーメンを待つ間、二人して他愛のない言葉を交わした。
  明日の天気のことだとか、始末書についてのことだとか、後はどうでもいいような些細なことだ。言葉を交わしながら綱吉は、ちらちらと獄寺の横顔を盗み見る。
  これからどうしようか。
  ただ二人きりでラーメンを食べるだけでは物足りない。
  どうにかしてその先へと進みたい。
  もどかしい気持ちに綱吉は、つい膝を軽く揺らしてた。
  獄寺の足に軽く膝がしらがぶつかり、綱吉は「ごめん」と咄嗟に謝った。
「もうちょっとこっちに詰めましょうか?」
  獄寺が尋ねてくるのに、綱吉は首を横に振った。
「いや、いいよ。大丈夫だから」
  それに、こんなふうに獄寺の膝に自分の膝をくっつけていられる理由ができる。笑い返すと、獄寺もわかりないなりに笑い返してくる。
  おそらく獄寺は、綱吉の胸の内になど気付いてもいないだろう。
  肩を並べ、膝をくっつけたまま食べるラーメンは美味かった。
  腹が満たされると同時に幸福感が綱吉の内側をゆっくりと満たしていく。いつ言いだそう、何と言いだそうかと綱吉はタイミングを計りながら、何度もなんども獄寺の横顔を盗み見ていた。



  ラーメンを食べ、二人して帰路についた。
  のんびりとした足取りで歩くのは、ラーメンの後に少しだけビールを飲んだからだ。
  酔っているわけではなかったが、どうしても足取りが遅れがちになる。
  獄寺と別れがたい気がして、一分一秒でも長く一緒にいたいと望んでしまう。そのため、綱吉は随分とゆっくりとした足取りで夜道を歩いていた。
「お疲れですか、十代目? タクシーでも呼びましょうか?」
  気を利かせて獄寺が言ってくるのに、綱吉は少しだけ考えた。
  タクシーを呼んで、一緒に部屋まで行ってもらうという手もある。少し姑息だが、酔ったふりをして獄寺の部屋に転がり込むのもいいかもしれない。
  だが、それを実行に移すだけの度胸が綱吉には足りない。
「うーん……」
  眉間に皺を寄せてしばらく綱吉は考えた。
  どうしよう。どうすればいいだろう。
  ちらりと獄寺を見ると、彼は心配そうに綱吉を見つめている。
「酔い覚ましに俺の部屋に来ますか、十代目」
  綱吉の思惑になどこれっぽっちも気付かない獄寺は、迷うことなく手を差し伸べてきた。
「手、引きましょうか?」
  しんどかったら言ってくださいねと、完全に綱吉を酔っ払い扱いしている獄寺は甲斐甲斐しかった。
  綱吉黙って腕を伸ばすと獄寺の手を取った。
「……うん。ごめんね、獄寺君」
  自分は何に対して謝っているのだろうかと、綱吉はこっそりと思った。
  手を引いてくれることに対してなのか、獄寺の勘違いに便乗して嘘をついていることに対してなのか。
  どちらにしても今の綱吉は、自分に対して寄せてくる獄寺の信頼を裏切っているのだ。
  獄寺の温かい手に指を絡めて、綱吉はふらふらと歩き続ける。酔っ払いの真似はなかなかうまくできている。父親のあのみっともない姿を思い起こせば、それぐらいどうということもない。
「今夜は星がいっぱいっすね、十代目」
  何も気付かない獄寺は、楽しそうに声をかけてくる。
  まるで幼い子どものように手を引かれ、獄寺の後をついていく綱吉は、込み上げてくる微かな罪悪感を胸に抱えている。
「ごめんね、獄寺君」
  ぽつりと呟くと、獄寺は振り返って笑った。
「いいってことですよ、十代目。こういう時のために俺がい、る……」
  獄寺の言葉が途切れたのは、綱吉が足元の小石に躓いてよろめいたからだ。
「わっ、十代目!」
  慌てて獄寺がもう一方の腕を差し伸べてくる。
  その腕に掴まりながら綱吉は大きくたたらを踏んだ。
「うわ、ひっ……!」
  力を入れて獄寺の腕にしがみついたものの、綱吉は地面に転がった。みっともなく尻もちをついた綱吉の上に、手を繋いでいたために同じようによろめいた獄寺が倒れ込んでくる。
「ちょ、まっ……」
  両手で倒れてくる獄寺を支えようとしたものの、咄嗟のことで間に合わない。ガッ、と額がぶつかり合い、二人して地面の上に倒れ込む。
「痛た……」
  情けない声をあげながら綱吉はのろのろと体を起こす。
  獄寺は綱吉の上でうずくまって、額を抑えている。
「大丈夫だった、獄寺君?」
  尋ねながら手を伸ばすと綱吉は、獄寺の頬についた土を指の腹で拭ってやった。
「はい……すんません、十代目。十代目こそ大丈夫ですか?」
  顔を上げた獄寺は、まだぶつけたところを気にしている。綱吉も痛かったが、よほど痛かったのだろう。
「うん。オレは大丈夫だよ」
  言いながら綱吉は、さらに獄寺の頬を指さしでするりと撫でる。
  なめらかな白い皮膚は手触りもよく、綱吉はそのまま獄寺の唇へと指を滑らせていく。
「獄寺くんは……」
  ゆっくりと綱吉は顔を近付けていった。
  唇が触れそうなぐらいに顔を近付けて、獄寺の睫毛がどんなに長いか確かめる。それから獄寺の唇にそっと自身の吐息を吹きかけた。
「じゅ、ぅ……?」
  怪訝そうな獄寺の顔が、至近距離にある。
  唇を合わせたい気持ちをぐっとこらえると綱吉は、ふい、と顔を離して獄寺を抱きしめた。
「ごめん、獄寺君……オレ、完全に酔ってるみたい……」
  情けなくもみっともない声でそう告げると、獄寺が小さく息を飲むのが感じられた。
  それから優しい手つきでぽん、ぽん、と綱吉の背中を叩いてくる。
「大丈夫っスよ、十代目。今夜は俺の部屋に泊まっていってください」
  ちゃんと責任を持って介抱しますからと告げてくる獄寺の言葉に救われたような気がして、綱吉は酔っ払ったふりをしたまま微かに頷いた。



(2015.9.20)


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