夏の風に、生い茂る葉のにおいが混じっている。
顔をあげた獄寺は窓際に寄り、鼻を鳴らして空気のにおいを確かめる。
夜になって湿度が増したためか、それとも雨が降るのだろうか、空気中には埃っぽい雨のにおいも混じっている。
もう少ししたら降りだすかもしれない。
ラップトップのパソコンの電源を落とすと、獄寺はもういちど窓の外へと視線を向けた。 もうしばらくしたら、彼がやってくる頃合いだ。
約束の時間に彼は遅れて来るだろうか。
別にそれでも構わないと獄寺は思う。要は、彼の顔を見ることができるなら、それで充分に獄寺の気持ちは満たされるのだ。
口許に柔らかな笑みを浮かべると獄寺は、いそいそとキッチンへと向かう。
コーヒーがいいだろうか、それとも紅茶がいだろうか。クッキーを添えて、彼を迎えよう。慣れた手つきでケトルを火にかけたところで、インターホンが鳴った。
慌てて獄寺は、玄関へと飛び出していく。
バタバタと狭い廊下を大股で歩き、勢いよく玄関のドアを開けた。
「いらっしゃい、十代目!」
ドアの向こうにいる人に向かってにこやかに声をかける。
少し緊張した面持ちの綱吉が、獄寺の目の前に立っていた。
「あ……」
迎え出た獄寺の勢いに驚いたのか、ビクッ、と肩が揺れるのが見て取れる。引きつり気味に頬を歪ませて、それでも綱吉は笑みを浮かべている。
「す、すんません、十代目。驚かせるつもりはなかったんスけど……」
獄寺が頭を下げるのに、綱吉は苦笑しながらも首を横に振った。
「ううん。獄寺君の家に来るのって初めてだから、オレもちょっと緊張してたかもしれない」
緊張どころか、変に身構えられてしまっているのはどうしてだろう。
「ど…どうぞ、十代目。狭いとこっスけど、上がってください」
綱吉の緊張が、獄寺にも感染してしまったのだろうか。もたもたと声をかけると獄寺は、ぎこちない動きで綱吉を部屋へと招き入れる。
二人してもたもたと家の中へと入ると、通されたリビングで綱吉はこっそりと、はあぁ、と溜息をついた。ちらりと見えた綱吉の困ったような表情に、獄寺は焦りを感じる。
せっかく初めて獄寺の部屋に綱吉が来てくれたのだから、どうにかして綱吉には居心地よく過ごしてほしかった。
「あ、あのっ、お茶……や、ジュースでも飲みますか、十代目」
勢いよく尋ねながらも獄寺は、手にした座布団はフローリングの床にドサリと落とし、甲斐甲斐しく綱吉の周囲を歩き回ればテーブルに足を引っかけて転びかけるしで、どうにも様にならない。
「少し落ち着いたら、獄寺君」
呆れながらも綱吉は、獄寺に声をかけてくる。
「はっ、はいっ!」
返事をした途端、またしても今度はソファに足を引っかけて、獄寺はドサリとソファに転げ込む。
綱吉がやって来るまでは、表面上は取り繕うことができていた……と、獄寺は思う。
今日は初めて綱吉が獄寺の部屋へやってきた記念すべき日だ。
獄寺にとってはこの上なく大切な日でもある。
粗相のないように、居心地が悪くないようにと、こちらが気遣って当然の人がこの部屋にいるのだと思うと、獄寺の心臓はドキドキと鼓動を刻み、どうかすると今にも爆発してしまいそうな感じがする。いっそ盛大にダイナマイトを打ち上げてもいいぐらいに興奮しているのが、自分でもはっきりとわかる。
みっともない姿を見せるつもりは微塵もなかったが、テンパリ過ぎた自分がさっきからどれだけ惨めな姿をさらしているか、獄寺は気づいている。
「あ……あはっ、ははは……」
日本に来てから覚えた誤魔化し笑いも随分と板についた。笑いながら獄寺はソファからなんとか起きあがると、逃げるようにしてキッチンへと駆け込んだ。
綱吉の顔を見ていることすら恥ずかしくてならなかった。
冷蔵庫の中から炭酸飲料のペットボトルを取り出し、ついでにシンク脇のキャスターによけておいたスナック菓子も引っ張り出す。
ついさっき、綱吉のために近所のコンビニまで買いに走ったのだ、獄寺は。
それほどまでに獄寺は、綱吉の訪問を喜んでいる。今だけは綱吉を、自分一人が独占できるのだ。そう思うと嬉しくて嬉しくて、たまらない。
「十代目、ジュースとおやつ、持ってきましたよ」
言いながらリビングに戻ると、綱吉も肩の力が抜けたようなのんびりとした様子で、ガラスのローテーブルの前に座っている。
「オレンジジュースにしますか、それともコーラ?」
尋ねながら獄寺は、手にしたトレーを危なげな手つきでテーブルに置いた。まだ少し、緊張しているようだ。
「ありがとう、獄寺君。でも、お構いなく。オレもおやつやジュースを持ってきたから、二人で好きなだけ飲めるし、好きなだけ食べれるね」
スナック菓子と炭酸飲料水だけでお手軽に盛り上がれるあたり、二人ともまだまだ子どもの域を抜け出しきれていないように獄寺は思う。だが、こういった何気ない小さな積み重ねが一つひとつ増えていくごとに、互いの間にあった距離が近づいていくのを感じるのは、心地いい。
テーブルの角を挟んで綱吉と隣り合うようにして腰を下ろした獄寺は、嬉しくてたまらない。
なんと言っても綱吉と二人きりだ。まるでデートのように思えて、本来の目的など頭の中からすっぽ抜けてしまいそうだ。
「じゅ、十代目、その……」
綱吉が獄寺の自宅へやってきたのは、一緒に宿題をするためだ。
そのために今、二人きりでいるのだ。
獄寺はゴクリと唾を飲み込むと、改めて綱吉の顔を覗き込む。
「宿題……そう、宿題をしないと……!」
声が裏返ってしまいそうだ。テーブルの下でぐっと握りしめた拳の中がじっとりと汗ばんでいる。
「あ、そうだった」
ハッと我に返ったのか、綱吉も慌ててお菓子から手を離し、いそいそとナップサックの中から宿題の道具を取り出し始める。
「どれからする?」
神妙な顔で綱吉に尋ねられ、獄寺の心臓がドクン、と鼓動を刻む。
「あ……あーと……」
どうしよう。獄寺は戸惑いながら綱吉の横顔に視線を馳せた。
宿題なら、おそらく綱吉に教える片手間に終わらせることができるだろう。そう時間がかかる気もしなかったが、綱吉はどうしたいのだろうか。
「じゃあ、オレは社会のプリントから片づけていこうかな」
プリントと教科書一式を机の上に並べると、綱吉は真剣な表情でプリントに取り組みだす。
ああ、と獄寺は胸の内で小さく喘いだ。そのプリントは、授業中に空欄部分を埋めてしまっていた。授業があまりにもつまらなかったから、教科書や資料集をパラパラと眺めているうちに完成してしまったのだ。全部埋めていなければ、綱吉と一緒に宿題ができたもしれないのにと、獄寺は歯噛みする思いで綱吉のプリントを覗き込む。
「獄寺君は? 獄寺君は、どれからするの?」
「あ、や、ええと……じゃあ、俺は数学のプリントでも……」
しどろもどろになりながら獄寺は、慌てて数学のプリントを引っ張り出してくる。
こちらは、授業中にあまりにも眠かったので、まったく手をつけられていない状態だ。
「えっ、数学? 俺、わかんなくて真っ白だよ、数学」
計算式が苦手で、くわえて今日の授業はまったく面白くなく、なかなか身が入らなかった。数学の先生が悪いというわけではないだろうが、やる気にならないと早々に投げ出してしまった生徒がいったい何人ぐらいいただろう。それぐらい、教える側にやる気がなければ、教えてもらう側にもやる気がなかったのだ、今日の授業は。
「じゃあ、十代目が社会のプリントを片づけている間に、俺は数学のプリントを終わらせてしまいますね。そしたら、後で十代目が数学のプリントに取りかかる時に、教えてさしあげられますから」
獄寺の言葉に綱吉は、「ああ、そうだね」と納得顔だ。
この、綱吉の無防備な表情がいい。一緒にいて安心できるのは、ひとえに綱吉の人柄のおかげかもしれない。
「そしたら、さっさと社会のプリントを終わらせなきゃだね」
にこやかに綱吉が宣言する。
すぐに片づけてしまうから、ちょっとだけ待っててね。そう言われて獄寺はのんびりと数学のプリントに回答を埋めていくが、綱吉のほうは遅々として進まないようだ。どこを探せばいいのかがわからず、立ち往生しているような雰囲気がしないでもない。
「十代目、あの……」
どうしよう。言ってしまおうか、それとも黙っていようか。数秒考えてから獄寺は、綱吉の目を覗き込んだ。
「この一から十五までの設問は、教科書と資料集に載ってるんスよ。ほら、見てください」
言いながらも獄寺は、自分の甘さに苦笑している。
結局、お節介にも自分は綱吉に言ってしまうのだ。
綱吉にちょっかいを出したい自分は、結構好きだ。綱吉の行動を逐一確かめて、どうすれば喜んでもらえるのかを考える瞬間が、いちばん楽しくて、ドキドキするということに獄寺は気づいている。
「ほら、資料のここの頁──」
告げた途端、寄せ合った額がコツン、とぶつかる。
「あ……」
「ぶつかったね」
綱吉が、それはそれは嬉しそうに指摘する。
「は……い」
そうですねと呟きながら獄寺は、感情が面に出ないように必死でこらえている。
初めての綱吉の訪問だからとテンパる自分がいた。綱吉はしかし、獄寺の様子にはたいして注意も払っていない。自分のことで精一杯なのだろう。
「とりあえず今やっているプリントが終わったら、軽く休憩入れましょうね、十代目」
それから、二人で一緒にまたプリントを埋めていけばいい。
獄寺は頭の中でざっと今日の予定を立ててしまうと、のんびりと再び、数学のプリントを解きだす。
綱吉がすぐ目の前にいるのだと思うと、楽しくてならない。
お互いに宿題があるからまだ気を抜くことはできないが、宿題が完成したあかつきには、二人で持ち寄った炭酸飲料水とスナック菓子とで、打ち上げをしなければと獄寺は思う。
それから、初めて綱吉を部屋に入れたこともお祝いしなければと獄寺は、胸の中でこっそりと思うのだった。
(2012.6.8)
END
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