やさしい獣

  体が怠いのは、このところ忙しかったからだろうと油断していた。
  これしきのことで休んではいられない。仕事は積み上がっており、片付けなければならないことは山とある。もちろん、本音を言うと仕事などほっぽりだしてしまいたかった。しかしそうはいかない。大人というのは、つまらないものに縛られ、くだらない現実によって動かされている。
  それに、だ。多少、無理をしたところでどうということはないだろう。そう、綱吉は思っていた。
  もしかしたら自分を過信しすぎていたのかもしれない。
  気が付いたら、書類まみれの状態で椅子から転げ落ち、気を失っていた。
  仕事の進捗状況を見に来た雲雀はちゃっかり完成した書類だけを持っていったそうだ。床の上にひっくり返った綱吉を助けてくれたのは、雲雀の後に執務室へやってきた山本だった。
  こんな時だというのに、右腕であり恋人でもある獄寺はいない。先週からフゥ太とランボの二人を連れて、イタリア出張に出かけている。
  寂しいと思わずにいられなかった。
  別に、獄寺に非があるわけではない。仕事でいないのだから、それを非難するほうがどうかしている。
  そうではなくて、側にいないのだと実感することで、改めて寂しさが込み上げてきただけだ。特にこんなふうに病気で寝込んでいるときは気持ちが弱くなっているようだ。
  ベッドの中で溜め息をつくと、綱吉はぎゅっと目を閉じる。
  早く、帰ってきてほしい。
  十年越しの想いが叶ってようやく恋人と呼べる存在になったというのに、彼はなんとも素っ気ない様子でイタリアくんだりまで行ってしまった。なんて薄情な恋人なのだろう。
  まさか自分も一緒に行きたかったとは口にできず、綱吉はじっと我慢の日々を送っている。
  疲れが溜っていたというよりも、ここしばらくの不摂生がたたってのことだろう。
  万一この話がリボーンの耳に入りでもしたら、きっとねちっこく嫌味を言われることだろう。
  体の熱さと怠さとに顔をしかめたまま、綱吉はいつしか寝入っていた。



  目を覚ましたのは、ひんやりとしたなにかが額に触れたからだ。
「ん……?」
  もぞもぞと体を動かし、寝返りを打つ。
  うっすらと片目を開けると、頬にひやりとした手が触れた。獄寺だ。どうしてここにいるのだろう? 獄寺はイタリアに出張中ではなかったのだろうかと眠い目を何度も擦る。
「獄寺…君?」
  眠っていたからか、綱吉の声はしわがれていた。
「はい。ただいま戻りました、十代目」
  穏やかな声は、間違いなく恋人のものだ。
  どうしてと言いかけた唇を、ほっそりとした指先がやんわりと押さえつけてくる。
「過労だそうですね、十代目。ゆっくり体を休めてください」
  唇に触れる指先の感触が、ひんやりとして心地よかった。綱吉は獄寺の手を取ると、自分の頬へと持っていった。
「ひんやりして気持ちいい……」
  へへっ、と子どものように綱吉が小さく笑う。獄寺も微かに笑みを浮かべた。
「どうぞお休みください、十代目。しばらくお側にいますから、目を閉じて、少しでも体を休めてください」
  獄寺の静かな声に頷きながらも綱吉は、ひんやりとする手を離そうとしない。
「雲雀さんへの報告は?」
  尋ねると、心配ないというように獄寺は頷いた。
「帰りの飛行機の中で仕上げて、アホ牛とフゥ太の二人に渡しておきました」
  だから、あなたが心配することは何もありませんと獄寺は告げる。
  ああ、そうか…と、綱吉は思う。恋人をほっぽったまま出張に行ったものの、実のところ彼も寂しかったのだろう。まだ掴んだままだったひんやりとした手をくい、と引き、綱吉は獄寺のほっそりとした体を引き寄せる。
「どうかしましたか?」
  問いかける獄寺の首の後ろに腕を回すと、綱吉はぎゅっと体を抱き締めた。
  熱のせいだろうか、触れるものすべてがひんやりとして感じられる。獄寺の手も、抱き締めた体も、ひんやりとして心地いい。
「ああ……冷たくて気持ちいい」
  溜め息とともに、呟きがこぼれた。
「熱があるからですよ」
  咎めるように獄寺が言う。
「知ってるよ、そんなこと」
  だからこんなに体が熱いのだと、綱吉は唇を尖らせる。
  我ながら子どもっぽいことをと思うのだが、熱のせいだろうか、つい意地悪になってしまう。
「ねえ。なんで俺を置いてイタリアに行ったりしたの、獄寺君」
「なんで、って……」
  言いかける恋人の体にしがみついて、綱吉は首筋やサラサラとした銀髪に何度も口づける。
「あのっ……これじゃあ喋れません、十代目」
  もぞもぞと体を動かして逃げようとする獄寺のシャツの裾を、綱吉はくい、と引っ張り出す。そのままシャツの下の肌に手を這わせ、そろりとなぞり上げると、ひんやりとした冷たい肌が手のひらに気持ちよかった。



「わ……ちょ、十代目!」
  上体を引こうとする獄寺に、綱吉は悪戯っぽく笑いかけた。
「服の上からでもこれだけひんやりしてるんだから、その下の肌はもっと冷たいんじゃないかと思ったんだ」
  悪びれた風もなく綱吉が返すと、獄寺は少しムッとした表情になった。
「ダメですよ、十代目。熱があるんですから、おとなしくしててください」
  そう言うと獄寺は、子どもにするように綱吉の頭をそっと撫でる。
  綱吉は、獄寺のきめの細かい肌を手のひら全体でなぞっている。指の腹に力を入れて脇腹を撫で上げると、ビクン、と獄寺の体が震えた。
「ぁ……」
  目をしばたたかせた獄寺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。うっすらと開いた唇は、戸惑いながらも綱吉を誘っているように見えないでもない。
「熱がなかなか下がらなくて、辛いんだ」
  全身が熱くて、皮膚呼吸ができなくなるのではないかと思うほど苦しい。そのくせ、なかなか汗が出ないから、体の内にこもった熱で今にもどうにかなってしまいそうだった。
「氷嚢でもお持ちしましょうか?」
  真面目な顔をして獄寺が告げる。綱吉はいらない、と、投げやりに返した。
「いいよ、別に。どうせ汗が出なかったら同じことなんだし」
  汗が出さえすればいいのだ。そうしたら、体の内側にこもった熱が抜けていくはずだ。
  ちらりと、もの言いたげに獄寺のほうへ視線を飛ばすと、やんわりと睨み付けられてしまった。
「ダメですよ、十代目」
  きっぱりとそう言い切る獄寺は、少し前までの彼とどことなく雰囲気が違う。どこが、ということははっきり言えないのだが、纏う雰囲気がかわったと綱吉は思う。これまでの獄寺はどこか一歩退いたような感じだったのが、最近は以前にも増してはっきりと物事を口にするようになった。恋人になったことで、これまで綱吉に対して持っていた遠慮がなくなったのかもしれない。
「でも、本当に熱いんだ」
  唇を尖らせて綱吉が訴えると、獄寺ははあ、とわざとらしい溜息をつく。
  しかしそれをものともせずに綱吉は、にこやかに言った。
「確か獄寺君が入院してた時に……俺、水を飲ませてあげたよね?」
  少し前に火事に巻き込まれて怪我をして入院したことを言っているのだということは、獄寺にもすぐに見当が付いた。
「あの時の獄寺君は、おとなしくて可愛かった」
  綱吉は拗ねたような口調で告げた。
  本当に可愛かったのだ。大の大人、それも大人の男に何をと思うだろうが、獄寺のナイーブなところが綱吉は気に入っていた。繊細で傷つきやすく、そのくせ強がってばかりでなかなか綱吉の命令に従おうとしないところが何とも可愛らしかったのだ。
「気のせいですよ」
  さらりと言い返すと獄寺は、綱吉のこめかみに唇をそっと押し当てた。



  獄寺の肌に触れていると、ひんやりとした感触が心地好い。離れたくないと思ってしまう。
  シャツの下に差し込んだ手で肌をなぞると、くすぐったいのか獄寺の体が揺れる。時折、敏感な箇所に綱吉の手が触れると、そのたびに獄寺は悩ましげな溜息を吐き出す。
  もっと触れたいと、綱吉は思った。
  こんなふうにシャツの下から手を差し込むだけでなく、裸になって抱き合いたいと思わずにいられない。
  獄寺は、賛成してくれるだろうか?
  綱吉の言葉に従ってくれるだろうか?
「……ねえ」
  ポツリと綱吉が呟くと、「なんですか?」と獄寺が首を傾げる。
「ヤらせて……」
  言いかけた綱吉の頬を、獄寺はぎゅっと引っ張った。
「病人はおとなしくしててください、十代目!」
  怒っているなと綱吉は思う。こんなふうに獄寺が綱吉を叱りとばすことは、珍しい。恋人同士になってようやく、お互いに言いたいことを口にすることができるようになった気がする。
「でも、熱い」
  すかさず口答えをした綱吉にちらりと冷ややかな一瞥を投げかけ、獄寺ははあぁ、とわざとらしい溜息を吐き出した。
「だから氷嚢でも……」
  しつこく言いすがる獄寺は、必死だ。
  恋人なのに冷たいと、綱吉はムッとした。それとも、十年越しの想いが叶って気分が盛り上がっているのは自分一人だけなのだろうか? 獄寺は、想いが叶ったことで満足してしまっているのだろうか?



  自分は、無い物ねだりをする子どもとかわらないのではないだろうか。
  文句を言いながらも側についていてくれる獄寺は優しかった。
  二人の想いが叶うきっかけとなった事件の後、それまでしていた獄寺の後ろめたそうな眼差しが変化したことに綱吉は気付いている。気持ちを押し殺したような苦しそうな淡い緑色の瞳が、いつもいつも気にかかっていた。あんな辛そうな瞳はもう見たくはない。そう思って、どさくさに紛れて想いを打ち明けたのはよかったのか、悪かったのか。
  それとも獄寺は、釣った魚には餌はやらないタイプなのだろうか? 互いの気持ちを確かめてしまえば、それで用済みとばかりに恋人を放置するようなタイプなのだろうか?
  熱でボーっとする頭の綱吉は、横についてくれる獄寺の顔をじっと見つめている。
「……飽きませんか?」
  獄寺が尋ねる。
  綱吉は小さく笑って、口を開けた。
「飽きないよ」
  ただ、恋人の顔を見ていたいだけだ。
  大人になって少しばかり落ち着いた雰囲気を見せるようになった獄寺の瞳が、悲しい色を映さないよう、ただ見つめていたいだけだ。
「……ヤらせてくれなくてもいいから、添い寝して」
  お窺いを立てるように遠慮がちにポツリと綱吉が呟くと、今度は本気で睨み付けられた。ギロリと睨む瞳が、光の反射で深い緑色に変化したように見える。
「ダメです」
  こんな時にも四角四面な獄寺に、綱吉は心の中で苦笑した。
「じゃあ、手だけ握ってて」
  そっと手を差し伸べると、ひんやりとした獄寺の手が、指先に絡みついた。
「眠られるまでこのまま手を繋いでますよ、十代目」
  綱吉は口元に淡い笑みを浮かべた。
  ひんやりとした感触が、指先から体全体へと伝わっていくような感じがする。
  目を閉じると、すぐに暗闇に吸い込まれていくような感覚がして、いつの間にか綱吉は眠り込んでいた。



END
(2010.05.08)


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