Un bacio della felicita 5

  抱きしめられて、獄寺の体温が上昇した。
  やはりこの人の腕の中は安心できる。そう思ったものの、素直にそう告げることはできなかった。
  黙りこくっていると、執務室に入るようにと促された。
  綱吉は手を伸ばして素早くドアを開けると、獄寺の背中をそっと押した。石のように固まっていた足をぎこちなく動かして、獄寺は執務室に入る。綱吉のにおいのしみこんだ部屋だ。どこもかしこも綱吉のにおいで満たされていて、そう気付いた途端、獄寺は俯いて震えはじめた唇を噛み締めた。
「お帰り。疲れただろう?」
  言いながら綱吉は、執務室の隅でコーヒーを用意している。獄寺のためのものだ。
「た……ただいま戻りました」
  掠れる声で、獄寺は返した。
「どうぞ、座って」
  やさしい笑みを浮かべて、綱吉は言う。
  獄寺はソファに腰かけると、うつむき加減に膝の上で握りしめた拳をじっと見つめる。
「インスタントだから、味はよくないよ」
  そう言って綱吉は、獄寺にカップを手渡す。手渡されたインスタントのコーヒーは味気なかった。もしかしたら、綱吉に対してやましい気持ちがあるからかもしれない。
  獄寺がじっと自分の手を見つめていると、綱吉が深い溜息をついた。
「この間から様子がおかしいようだけど、なにかあった?」
  獄寺の向かいの椅子に腰かけて、綱吉は尋ねる。身を乗り出して、獄寺の顔を覗き込もうとしてくる。
「……と、言うか、俺、獄寺君になにかした?」
  真っ直ぐな瞳が、じっと獄寺を見つめている。
  ドキッとして獄寺は、身を引いた。ソファの背もたれに阻まれてほとんど動くことができなかったものの、体を後方へと反らし、困ったように綱吉を見つめ返す。
  言ってしまっていいものなのだろうか。
  正直に、告げてしまったほうがいいのだろうか。
  そのままじっとしていると、綱吉の手が伸びてきて、獄寺の顎を捕らえた。
「ねえ、もしかして俺のこと、嫌いになった?」



  言葉を返すことができずに獄寺は、じっと綱吉を見つめている。
  さながら蛇に睨まれた蛙のようだ。獄寺は胸の内でこっそりと思った。
「いえ、違います。そんなこと……」
  慌てて言いかけたところで、唇を塞がれた。
「んっ……」
  キスの合間にちらりと見ると、綱吉はテーブルの上に片膝を乗せていた。ボンゴレ十代目がなんと行儀の悪いことをと、頭の隅で獄寺は思う。
  唇が離れると、今度こそ獄寺は、ソファに押し倒された。背もたれからずり落ちるような格好の獄寺に、綱吉の体重がかかる。
「最近、冷たくなったよね、獄寺君は」
  するりと、綱吉の指が、獄寺の頬を撫でていく。
「俺、このあいだからめちゃくちゃ不安なんだけど、わかってる?」
  頬の輪郭をなぞり、ゆっくりと獄寺の唇に辿り着いた指は、焦らすように下唇に触れてくる。
「それは……」
  気付いていなかった。
  獄寺自身、自分の不安でいっぱいだった。綱吉がそんな獄寺を見て、不安に思っているなどとは考えもしなかった。
「申し訳ございませんでした」
  掠れた声で獄寺が言う。唇に置かれた指は、言葉の合間に口の中に潜り込んでいた。
「なんで俺のそばから逃げ出したの?」
  尋ねておいて綱吉は、獄寺の口の中に入れた指で口腔内をかき混ぜている。ぐちょぐちょと湿った音がして、獄寺はあまりいい顔はしなかった。気に入らないのだ。綱吉はすぐに指を引き抜き、また獄寺の口元にキスをした。
「逃げたのではありません。俺は……」
  言いかけたところで、もういちどキスをされた。
  綱吉のこの笑みからすると、怒っているわけではなさそうだ。
「不安だったら、ちゃんと言ってくれないと」
  そう言って綱吉は、獄寺の鼻先にキスをした。
「でないと俺も、不安になっちゃうよ」
  困ったように綱吉は、笑う。
  やさしい笑みに、獄寺はドキッとした。



  手をさしのべ、獄寺は綱吉の腕にしがみついた。
「すみません。俺……」
  それでも、肝心の言葉は出てこない。
「うん?」
  綱吉は我慢強く、獄寺の言葉を待ってくれている。
  茶色の瞳がきれいだと、獄寺はぼんやりと思った。まっすぐで、無邪気で、なによりも強い光を放っている。
「自分の気持ちをどうやって伝えればいいのか、わからなくて……」
  素直になればいいだけのことだというのは、頭では理解している。だからいつも、綱吉には自分の気持ちを素直に伝えていた。ストレートに好きだ、好きだと言葉をぶつけてきたが、それだけではいけないと気づいた。唇に触れてくる綱吉の指に、あの言葉に、嫉妬を感じたのは、自分に自信がなくなってきていたからだ。
  このままではいけない。では、どうすればいいのか? その答えを獄寺は、まだ見つけていない。
  弱々しく唇を動かしたものの、獄寺の口から言葉は出てこない。
  不安なのだ。もっと自分が安心できるように愛してほしいと、何故、その一言を自分は口にすることができないのだろうか。
  じっと綱吉を見つめていると、茶色の瞳がふっとやわらかく瞬いた。
「強情っぱりだな」
  軽く肩をすくめて、綱吉は告げた。
  でもそんな獄寺が好きなのだと、綱吉はまた笑う。
  そのまま二人でソファにもつれ合って身を沈めた。
  誰も来ない二人だけの執務室は静かで、穏やかだった。



「それで、獄寺君はいったいなにを拗ねていたの?」
  ソファの上で互いに相手の体を抱きしめながら、綱吉は尋ねる。
「あ……いえ、お気になさらないでください」
  そう返した瞬間、綱吉は軽く獄寺を睨み付けた。
「また、そうやって自分の中に溜め込もうとする。獄寺君の悪い癖だよ」
  げんこつでコツン、と軽く頭を叩かれて、獄寺は不思議そうに綱吉を見上げる。
「ちゃんと言ってくれないと、いつまでたってもわからないだろ」
  真剣な眼差しに獄寺の気持ちが一瞬、揺らいだ。
  言ってしまえば楽になることはわかっている。しかし、どう告げればいいのだろうか。
  焦れた綱吉は、獄寺の唇を指でなぞった。指の腹がするりと獄寺の下唇を伝い、上唇へ移ろうとする。
「あ、ほら、また」
  不意に綱吉が声をあげた。
「なんでそういう表情するんだよ」
  そう言われても、自分の表情を見ることができないため、獄寺は自分が今、どういった表情をしているのかがわからない。
「なんでそんなに怯えた顔するんだか」
  呆れたように、綱吉は言った。
「怯えてますか? 俺が?」
  怪訝そうに獄寺は、自分の頬に手をあててみた。
  もしかしたら自分は、綱吉に唇を触られるたびに怯えていたのかもしれない。綱吉がいつか、自分からずっと遠い存在になってしまって、触れることも叶わなくなってしまうのではないかと、そんなふうに思っていたのかもしれない。事実、今でも獄寺の胸の底にはそんな不安がないわけではない。ボンゴレ十代目の右腕として、いついかなる時も彼の側にいると豪語しているものの、なにかの拍子に綱吉が自分を置いてどこかへ行ってしまうことがあるのではないかと、懸念することがあるのも事実だ。
  どんなに頑張っても、いつか綱吉は自分の手の届かない存在になってしまうのではないか。あり得ない話ではない。
  唇に触れられて不安になっていたのは、自分の不実を言われているようでいい気がしなかったからだ。それはつまり、いつか自分が綱吉から置いていかれても仕方がないことの言い訳のようにも聞こえて、その言葉を耳にするたびに獄寺は、胸の奥がジクジクと痛んでいたのだ。
「だって、それは……」
  言いかけて獄寺は、不意に口を噤んだ。
  言ってしまえば、自分は綱吉のことを信じていなかったのだと告白することになってしまう。
  そうではないのだと獄寺は顔を背けた。
  執務室の空気が、急になじみのない冷たくよそよそしい空気にかわったような気が、した。



  しばらく黙りこくったままの二人だったが、そのうちに綱吉のほうが口を開いた。
「悩んでる獄寺君もきれいなんだけどさ。見ててこっちが辛くなるから、もうそろそろ降参して俺に洗いざらい話さない?」
  ソファに座り直して綱吉は、話を聞く体勢に入っている。
  獄寺ものろのろと身を起こすと、綱吉にもたれかかるようにして座り直した。
「俺、あなた以外の誰ともキスなんてしません」
  うつむいて呟くと、驚いたように綱吉の手が、獄寺の肩を引き寄せた。
「当たり前だろ、そんなこと!」
  唇だけでなく、体だって、同じだ。綱吉以外の誰に触らせるというのだろうか。
  獄寺は顔を上げると、綱吉の唇に触れるだけのキスをした。
「あなたこそ……」
  いつもしてくれるように綱吉の唇を、指の腹でゆっくりとなぞる。
「あなたこそ、この唇を俺以外の誰かに触らせたりしないでください」
  きっぱりと言い切ると獄寺は、綱吉の唇にもういちどキスをした。今度は舌で唇をなぞり、少し大胆に口の中に侵入を果たす。前歯の裏をねっとりと舐めとり、舌と舌とを絡め合う。
「ん、ぅ……」
  キスの合間に鼻にかかった声が洩れ、体がゾクゾクした。
  綱吉の手が、もたつきながらも獄寺のスーツを脱がせていく。
「触らせないよ」
  唇を離すと、綱吉は囁いた。
「この唇は、誰にも触らせない──」



END
(2009.10.29)


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