冬の日

  静まり返った部屋の中には、鉛筆を走らせる音だけが響いている。
  集中しているのではなく、単に焦っているからだということを綱吉ははっきりと自覚している。
「……ごめんね、獄寺君」
  ポソリと綱吉が呟くと、獄寺は鉛筆を持っていた手を止めて、屈託のない笑みを浮かべた。
「気にしないでください、十代目。こんなの、すぐに終わっちゃいますって」
  カラカラと笑って獄寺は言うが、そう簡単に片づくものだろうか。不安に思いながらも綱吉は手元のノートに鉛筆を走らせる。
  ほんの二週間ほど前に終業式を迎えた綱吉たちは、冬休みに突入した。
  大晦日は皆で大掃除をして、迎えたお正月には獄寺や山本、いつもの面々が集まって賑やかに新年の挨拶を交わし合った。それから並盛神社へ初詣に行って……食べて騒いで、ダラダラと日々を過ごしているうちにいつの間にか冬休みは終わりに近づいていた。
  気づけば明後日は始業式という今日になって、宿題がほとんどできていないという事実を綱吉は知った。
  別になにも怠けていたというわけではないのだ。
  ただ、皆と過ごす日々が楽しすぎて、宿題にまで気が回らなかっただけなのだ。
  すわ一大事、とばかりにようやく宿題に手をつけ始めたのはいいけれど、問題が難しすぎてわからない。
  どうしたものかと思っているところへちょうど獄寺がやってきて……後は、いつものごとく、二人して額をつき合わせて、宿題を片づけることになったというわけだ。
  もっとも獄寺のほうは年末のうちにさっさと宿題など片づけてしまって、今は暇を持て余しているぐらいだったのだが。
「あ……十代目、そこ、間違ってますよ」
  すらりとして手入れの行き届いた指がトン、と綱吉の手元を指し示す。
「ここ?」
  問題を解いている時から自信のなかった数式を、綱吉は目を凝らしてじっと見つめる。獄寺はどの部分で間違いに気づいたのだろう。
  ちらりと獄寺の顔をうかがうと、彼は愛想よく笑い返してくる。
「ほら、十代目。ここっスよ、ここ。ここの計算式でプラスとマイナスの記号が逆になってて…──」
  獄寺の説明を聞きながら綱吉は、もう一度はじめから問題を解いてみる。足して、引いて……括弧を外してかけ算をして、それからまた足して。
「あ、ここ?」
  先に問題を解いた時には確かに引き算をしている。だが今、獄寺の指摘を受けて落ち着いて計算し直すと、ここはどう考えても足し算になるはずだ。
「そうっスよ、十代目」
  何もかも心得た風に獄寺が頷いた。
  そそくさと計算をしてしまうと綱吉は、ノートに正しい回答を書き直した。



  そんなこんなで一日、宿題に追われ続けた。
  途中で昼食と軽い休憩を挟んだものの、ほとんど獄寺につきっきりで宿題の面倒を見てもらったことになる。
「ありがとう、獄寺君。今日はすごく助かったよ」
  心の底から綱吉は思った。
  ほとんど手つかずだった宿題が、今日一日でほとんど完成したのだ。夕飯の後、風呂に入る頃には今日と明日の日記を残すだけとなり、綱吉もやっと一息つけるようになった。
「一日オレの宿題につき合わせてしまってごめんね、獄寺君」
  時間も時間だから泊まっていきなさいと言われた獄寺は、今夜は綱吉の部屋で寝ることになっている。
  交代で風呂も使って、お揃いのパジャマを着てそろそろ寝ようかという時刻になって、急に綱吉は落ち着かない気分になってきた。
  獄寺のことは、彼が日本にやってきて以来、ずっと友だちづきあいをしている。獄寺のほうがどう思っているのかはよくわからないが、綱吉のほうは少しずつ彼のことを知るたびに、好きになっていった。
  獄寺のよく怒るところも、すぐに喧嘩をするところも、ぶっきらぼうにしているくせに放ってはおけずについランボの面倒を見てしまうところも、綱吉は好ましく思っている。何よりも綱吉のことを第一に考えてくれる獄寺の好意が、嬉しくてたまらない。
「や、俺も楽しかったですし……」
  ボソボソと口の中で呟く獄寺を見ていると、せっかくの貴重な冬休みを一日、自分のせいで潰してしまい申し訳ないような気持ちになってくる。
「でも、ずっとオレが宿題してるの横で見てただけじゃん」
  時々、声はかけてくれた。間違っているところの指摘だとか、正しい回答を書き込むことができた時に褒めてくれたりと、獄寺なりに気を遣ってくれていたのだと思うと、友人失格かもしれないと綱吉は思う。
「……迷惑でしたか?」
  そう尋ねる獄寺は、どこかしらしょんぼりとしているように見えないでもない。
  こんなふうに肩を落として上目遣いに見つめられると、綱吉の中には罪悪感がこみ上げてくる。
「あー……いや、そんなことはないよ。獄寺君のおかげで助かったし……」
  本当に獄寺のおかげだと綱吉は思っている。
  だが、不純な気持ちが混ざってしまう瞬間があるため、どうしても気持ちがすっきりとしない。こんなふうに自分の気持ちを押し隠しながら獄寺のそばにいていいものだろうかと、不安になってしまうだけだ。
「本当っスか?」
「うん、本当」
  綱吉の言葉ひとつで獄寺は満面に笑みを浮かべる。
  こんなにも信頼してくれている獄寺のことを自分は、心の中で裏切り続けている。そのことがただ、辛いだけだ。



  綱吉がベッドに入ると、獄寺は床に敷いた来客用の布団に潜り込む。
「じゃあ……おやすみ、獄寺君」
  声をかけると獄寺も、「おやすみなさい、十代目」と返してくる。
  眠るのが恐かった。
  いつの間にか獄寺のことが好きになっていた綱吉だが、こんなふうに心の中では獄寺を裏切るような真似をしている。手が届くほど近くで眠るのが、恐くてたまらない。
「明日はのんびりできそうっスね、十代目」
  部屋の灯りを消した暗がりの中で、獄寺の声がひっそりと響く。
「……うん」
  ドキドキした。
  胸の鼓動が獄寺の耳にまで届いてしまうのではないかと不安に思えてくるほど、綱吉の心臓はドキドキと鳴っている。
「十代目のお好きなゲームで、一緒に遊びましょうか」
  二人でゲームをする。クリスマスの頃に出た新しいゲームは、まだ少ししか進めていない。本当は冬休みの間に進めようと思っていたのだが、皆と一緒に出かけたり騒いだりするのが思いの外楽しすぎて、正直なところゲームに手をつけるだけの時間などなかったのだ。
「ああ……うん。いいね」
  二人きりで。
  誰も呼ばずに、獄寺と二人きりでゲームをする。
「楽しみっスね」
  そう呟いたかと思うと獄寺は、もう寝息を立てている。
  獄寺がこんなに寝つきがいいとは思ってもいなかった。
  だけど綱吉は、少しだけホッとしてもいる。これ以上は獄寺に対しても、自分に対しても、嘘をつかなくてすむから。
  小さな溜息を吐き出して綱吉は、ゴロリと獄寺のほうへと体を向ける。
  暗がりの中、布団の中で眠る獄寺の影がぼんやりと見えている。
「……おやすみ、獄寺君。今日は本当にありがとう」
  小さく囁いて綱吉は、目を閉じる。
  獄寺に対する気持ちが洩れだしてしまわないように、パジャマの胸のあたりをぎゅっと握りしめる。
  「好きだよ」と微かに告げた綱吉の言葉は、暗がりに吸い込まれて四散した。


  目が覚めると、いつもの日常がそこにはあった。
  冬休み最後の一日を綱吉は、獄寺と過ごした。
  母が用意してくれた朝食を二人して食べて、ゲームをして、おやつを食べてまた遊んで。
  途中でランボやイーピン、それにリボーンに邪魔をされたりしながらも、冬休みの最後の日はのんびりと過ぎていく。
  明日から学校が始まるのだと思うと少しうんざりもしたが、それでも綱吉は、獄寺と一緒にいられることを嬉しく思った。
  自分の気持ちを隠してでも、獄寺と一緒にいたい。
  今はまだ、それでいい。
  それだけで充分だ。
  自分のすぐ隣で獄寺が笑っている。その笑顔をいつも見つめることができるのなら、今はそれだけで綱吉の気持ちは満足できる。
  友人のポジションよりももっと近くで獄寺を見つめることができれば、それでいい。
  十代目と右腕という関係ではなく、友人という関係でもない、何か別の関係は、これから作っていけばいいのだから。
  ふと顔を上げると、こちらを見ていた獄寺と目が合った。
  ニコリと笑いかけると、獄寺も笑いかけてくる。
「喉、乾いたね」
  笑って、騒いで、少し遊び疲れたかもしれない。
  ゲームのコントローラーを握っていた手を止めると綱吉は、獄寺のほうに向き直る。
  今年もこんなふうにして続いていく。
  獄寺と、自分と。
  少しずつ、少しずつ、二人の距離を縮めていけばいい。
「じゃあ、ジュースか何かお母様にいただいてきますよ、俺」
  素早く立ち上がった獄寺は、もう部屋を出て行きかけている。
「オレ、炭酸飲料がいいな」
  不意に溢れ出しそうになった自分の気持ちを押し止めるかのように、綱吉は慌てて声をかけた。
「わかりました、十代目。すぐに戻ってきますね」
  パタン、とドアが閉まる。階段を下り始めた獄寺の足音が、遠ざかっていく。
  綱吉は小さく溜息をつくと、トレーナーの胸のあたりをぎゅっと握りしめた。



(2014.1.5)



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