春の日

  頬を撫でる風が少しずつやわらかな空気を含むようになってきた。
  もうすぐ春だと思うと、少し複雑な気持ちになる。
  この一年、自分と獄寺と山本は同じクラスだったが、四月からはどうだろう。クラス替えで顔ぶれがかわることはまず間違いないから、もしかしたら三人一緒のクラスにはなれないかもしれない。
  そんなことを考えると、憂鬱になってくる。
  せっかく二人と仲良くなることができたのに、クラスが別れてしまうだなんて。
「あー……新学期、やだな……」
  ポソリと呟くと綱吉は、自室の勉強机にべたりと突っ伏す。
  山本のいないクラス。獄寺のいないクラス。どちらもしっくりこないし、二人のいないクラスはもっとしっくりこない。
  それに、だ。
  自分はまだ獄寺に、自分の気持ちを告げていない。
  いつかは告げなければと思うのだが、なかなかその勇気が出てこない。
  もう少し、もう少し、と思うままに日を延ばしているうちに、三ヶ月近くが過ぎている。
  あと一週間もしないうちに修了式がやってきて、春休み明けには自分たちの身の振り方が大人たちによって決められてしまうのだ。
  まだ、離れたくない。まだまだ一緒にいたい。
  山本とも、獄寺とも。
  手足をジタバタさせてみても、何もかわらない。
  はあーっ、と重苦しい溜息をついて、綱吉は目を閉じる。
  開け放った窓から入り込んでくる風は穏やかで、春のにおいがしている。微かに湿った土のにおい、若葉のにおい、花の香り。
  もうひとつ溜息をつくと綱吉は、机にコツン、と額を押し当てる。
  獄寺のいない教室なんて、考えられない。
  まだ、好きだと告げてもいないのにそんなこと、考えたくもない。
「やっぱ、言ったほうがいい……のかな?」
  呟くと同時に、ぐぅ、と腹が鳴った。



「ツッくーん……ねえツッくん、悪いけどお買い物に行ってきてくれない?」
  腹の虫が騒ぎ出すのを見計らったようなタイミングで、階下から母の声がかかった。
  どうもついていないような気がする。
「ええーっ、もう、しょうがないなぁ」
  ブツブツと文句を零しながらも綱吉は階下へおりていく。夕飯の支度をしているはずの母は階段のすぐ下で綱吉を待ちかまえていた。
「ごめんね、ツッ君。卵と牛乳、買ってきてくれる?」
  買い物用のバッグと財布を渡される。夕飯の時間が近いからだろうか、いつもなら綱吉にまとわりついてくるランボは台所にこもって摘み食いに専念しているらしい。
「お釣りでお菓子買ってもいい?」
「いいけど、三百円までよ」
  母の言葉に「ええーっ」と顔をしかめると、逆にメッ、と窘められてしまう。
「お夕飯できるまであと三十分ぐらいだから、寄り道しちゃダメよ」
  その言葉に綱吉は、さらについてないような気がした。
「……じゃあ、行ってくる」
  そう言うと綱吉は、さっさと家を後にする。
  早いところ買い物をすませてしまって、夕飯にありつきたいものだ。
「ああ……腹減った」
  溜息と一緒に呟くと、背後からよく知った気配が近づいてくるのが感じられた。
「十代目!」
  声をかけられ、綱吉はクルリと振り返る。
「獄寺君!」
  通学路で別れた時には制服姿だったが、今は二人とも、私服に着替えている。
「どうなさったんですか、十代目」
  尋ねられ、綱吉は苦笑しながら手にした買い物バッグにちらりと視線を向けた。
「母さんに頼まれて、商店街まで買い物。獄寺君は?」
  すぐに綱吉の隣に並んで獄寺も歩き出す。
「俺は、そこのコンビニまで。あ、でも俺も商店街までご一緒しますよ、十代目。どーせ晩飯買うだけっスから」
  嬉しいような、気まずいような複雑な気持ちを持て余しつつ綱吉は、獄寺の言葉に頷いた。



  二人きりで、商店街までの道を歩いていく。
  四月からのことを考えると、自分の気持ちを獄寺に告げてしまいたいような気がしてくる。
  いや、でも……と、綱吉は胸の内で呟く。
  自分の気持ちを獄寺に告げたところで、獄寺のほうはどうなのだろう。男の自分から告白なんかされて、喜ぶだろうか?
「……やっぱ、困るよな」
  ポソリと呟くと、すぐ横を歩いていた獄寺は怪訝そうに綱吉の顔を覗き込んでくる。
「何かおっしゃいましたか、十代目?」
「あー……や、たいしたことじゃないから……」
  獄寺に告白しようかどうしようか迷っていたと正直に白状するだけの度胸は、まだ綱吉にはない。いや、そんなことを白状することができるくらいなら、とっくに自分の気持ちを告げているだろう。
「それにしても、随分と温かくなりましたね」
  三月も半ばを過ぎれば寒さがぐんと緩む。陽が落ちればもちろん肌寒いことにかわりはないが、それでも空気の感じが違うのだ。
「そうだね」
  修了式のあたりになると、もっと暖かだろう。その頃にはもしかしたら、獄寺に気持ちを伝えるかどうか、腹を括っているかもしれない。
「あ……十代目、走りましょう。信号、かわっちまいますよ」
  不意に獄寺が声を上げたかと思うと、手を掴まれた。
  強い力で手を繋がれ、引っ張られる。
「えっ、わ、ちょっ……!」
  思っていたよりもほっそりとして冷たい手が綱吉の手をぎゅっと握りしめてくるものだから、反射的に握り返してしまった。
  繋いだ手から、自分の熱が獄寺に伝わっていけばいい。胸の奥にとどめているこの気持ちと一緒に。
  手を繋いだまま二人で横断歩道を駆け抜けた。
  もしかしたら誰かに見られたかもしれない。
  だけどそんなことなどどうでもよくなってしまうぐらいに綱吉は、獄寺と手を繋ぐことができて嬉しかった。
  こんなふうに手を繋いで歩くなんて、男の自分たちにはできないと思っていたから。



  横断歩道を渡りきって商店街のアーケードを潜っても獄寺は、綱吉の手を離さなかった。
  綱吉のほうも、なんとなく離しがたい気がしていた。
  もう少しこのままで、獄寺を手を繋いでいたい。
  繋いだ手にそっと力を込めると、同じように獄寺も握り返してきてくれる。
「やっぱり夕方になると、寒いね」
  言い訳めいた言葉を紡ぐと、獄寺はどこかしら嬉しそうに頷いた。
「そーっスね」
  だから、まだしばらくはこのままで。
  綱吉は言葉を飲み込むと、獄寺の手を引いて歩き続ける。
  母に頼まれた買い物をすませ、獄寺がほか弁の弁当を買うのを待ち、一緒に肩を並べて今来た道を歩いて帰る。
  人気のない道をわざと選んで、ゆっくりと歩いた。
  獄寺ももしかしたら、綱吉の気持ちがわかっているのかもしれない。
  なんだか別れがたくて、喋り足りないような、もっと一緒にいたいような気がしてならない。
「あの、さ……」
  どう言えば獄寺と、もうしばらく一緒にいられるだろう。
  河川敷の道を歩いていると、さーっ、と春の夜風が頬を撫でていく。少し冷たくて、甘い香りのする風だ。
「なんか、帰りにくいっスね」
  ニヤリと獄寺が小さく笑う。悪戯っ子のようなやわらかな笑みに、綱吉は一瞬、見惚れてしまった。
「あ……うん」
  まだ、帰りたくない。獄寺を帰したくない。
「夕飯さ、やっぱりうちで食べてけば?」
  必死になって言い訳を考えて、裏返った声でそれだけ告げると綱吉は、獄寺にクルリと背を向ける。
「オレ、そろそろ帰らなきゃなんないし……よかったらうちで一緒に夕飯、食べようよ」
  そうすれば、まだしばらく獄寺とは一緒にいられる。
  いや、もしかしたら今夜はうちに泊まっていってくれるかもしれない。
「あー……でも、十代目のお母様がなんておっしゃるか……」
  歯切れの悪い調子で獄寺が言うものだから、綱吉はつい、獄寺の手をぐい、と引っ張ってしまった。
「いいからっ! オレ、三十分で買い物して帰る約束してたんだ。だから……その言い訳になってほしいんだ」
  そうしたら、獄寺ともうしばらく一緒にいられる。夕飯を食べ終わるまでは、獄寺と一緒だ。
  それに母はきっと、綱吉のこの提案を快諾してくれるだろう。綱吉の友だちを夕飯に招くぐらい、どうってこともないはずだ。
「じゃあ……十代目が迷惑でないのでしたら、お邪魔します」
  神妙な顔つきで獄寺が返してくる。
「大丈夫だよ。母さん、獄寺君のこと気に入ってるみたいだし」
  言葉にできない自分の気持ちを誤魔化すように、綱吉は言った。これぐらいの嘘は、許されるだろう。
「そしたら早く帰らないとダメっスね、十代目。三十分なんてとっくに過ぎてますよ」
  ふと思い出したように獄寺は腕時計に目をやった。
「えっ、本当?」
  マズい、怒られる! そう口にすると綱吉は、獄寺の手を取って走り出した。
  河川敷を走る綱吉の頬を、春の風が優しく撫でつけていく。
  風の中に混じる優しく甘い匂いは獄寺がつけているコロンのようにも思える。
  手を繋いだまま子犬のようにじゃれ合って走りながらも綱吉は、自分の頬が緩みっぱなしになっていることに気づいていた。



(2014.2.17)



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