夏の日

  気まぐれな梅雨が過ぎるとうだるような暑さの夏がやってくる。
  第一声を校庭の片隅で聞いたと思ったら、数日後には町のそこここで蝉の鳴き声が聞こえるようになった。
  額に吹き出す汗を腕でぐい、と拭うと獄寺は、口の中の唾をごくりと飲み込む。
  暑さで唾液すら乾きぎみなのに、汗だけは拭ってもぬぐっても止まる気配がしない。滝のように、という表現がピッタリなほど、次から次へと流れ出てくる。
「あぢぃ……」
  獄寺は小さく呟いて、空を見上げた。
  雲ひとつない空は目が痛くなるほど真っ青で、太陽は煌々と輝いている。
  眩しくて手庇を目の前に作り、顔をあげて風を待つ。
  昨日から風はほとんどなく、知らないうちに梅雨が明けたと思ったら、一気に真夏になっていたような感じがする。
  風が吹かないことを諦めると小さく肩を竦めて、獄寺は歩き出す。
  ジーンズのポケットに両手をつっこみ、財布を探すと小銭が出てきた。五百円玉が一枚だけ。足りるかなと口の中で唱える間に頭の中で吟味して、そのままコンビニへと足を向ける。
「新しいスナック菓子が出てたから、それとジュースでいっか」
  ぶらぶらと道を歩くと、背中から脇の下からじわじわと汗が滲み出てくる。
  額の汗を腕で何度も拭いながら獄寺は、コンビニまでの道のりを歩いた。



  期末テストは数日前に終わったばかりだから、あとは夏休みを待つばかりだった。
  答案用紙も大半が手元に戻りつつある。授業中に出てくる話ですら、夏休関連の話題が多くなっていく。教師からは主に課題のことやら補習のことやらだったが、獄寺にしてみれば大した話ではなかった。
  それよりも今、獄寺の頭を悩ましているのは綱吉のことだ。
  少し前から獄寺は、綱吉との距離感が縮まってきたような気がしていた。綱吉のそばにいると、なんとも居心地がいいのだ。
  少しでも長く綱吉と一緒にいたい、他愛のない言葉を交わして、おなじ空気を共に分かち合いたいと強く願うようになったのは、いつ頃からだろう。
  確か、去年の今ごろはまだ、そんなことは思いもしなかった。ボスと右腕という立場からくる、綱吉に対する尊敬の念のようなものはあったが、こんな……恋にも似たような気持ちは、なかったような気がする。
  いったいいつの間に、自分の気持ちはこんなふうに変わってしまっていたのだろう。   そんなことをぼんやりと考えながら獄寺は、コンビニのドアを潜る。
  新発売のスナック菓子と、夏季限定のジュースを買って、ついでに店内でたっぷりと涼んでから綱吉の家へと向かった。
  クーラーのない自分の部屋とは違い、綱吉の部屋にはクーラーがついている。涼みがてら綱吉のご機嫌うかがいに行くつもりで自宅を出たのだが、本当の目的は別にある。
  自分の気持ちを確かめたいと獄寺は、密かに思っていた。綱吉に対するこの気持ちの真意を知りたかった。自分は、好き……だと、思う。綱吉のことを、友人でもなく、ボスと右腕といった関係でもなく、もっと別の何か違った存在だと思っているその気持ちの本当のところを、確かめるのだ。
  とは言うものの、自分の気持ちを確かめる工程をすっ飛ばしていきなり「好きです」はないだろうと思う程度の分別は持っている。
  ここしばらくの綱吉の様子を見ている限りでは、彼のほうも獄寺に対してなんらかの好意を抱いているような節があった。嫌いなわけではないだろう。嫌いだったら家には呼ばないだろうし、声をかけてもくれないだろう。だからきっと自分は好かれているのだと思う。出会ったばかりの頃のおどおどとした態度は今はなりを潜めているから、友だちに対してや、仲間に対する好意は間違いなくあるはずだ。
  だが、それ以上の好意となると、確かめるにはあと少し時間が必要なのかもしれない。
「あぢーっ!」
  やけくそになって口にすると、胸の中のごちゃごちゃとした気持ちが少しだけ晴れたような気がした。



  綱吉の家に着くと、勝手知ったるなんとやらで獄寺は、キッチンにいるはずの綱吉の母に声をかけてから二階へとあがる。
「十代目ーっ!」
  ドアをノックすると同時にバン、と勢いよくドアを開けると、ベッドの上にゴロンと寝転がった綱吉が、昨日発売の漫画雑誌を読んでいるところだった。
「あれ、獄寺君……いらっしゃい」
  ベッドの上に雑誌を放り出した綱吉が、獄寺を迎えてくれる。
「どうかしたの?」
  声をかけられ獄寺は、すかさず手にしたコンビニのビニール袋を綱吉のほうへと差し出した。
「これ、土産です、十代目」
  差し出した勢いでスナック菓子とジュースが、ビニール袋の中でガサガサと音を立てている。
「あ、これ……新しいやつだ」
  袋の中をちらりと覗いて、綱吉が声をあげる。ひと目見ただけで新発売の菓子だということがわかるなんて、やっぱり十代目はすごいお方なんだ……などと獄寺が妙なところで感心している間に、綱吉はさっといつものちゃぶ台を出してきた。
「獄寺君、座って。せっかく買ってきてくれたんだから、一緒に食べようよ」
  早く、早く、と綱吉の眼差しが獄寺をせっついてくる。
「はあ……じゃあ、失礼します」
  そう断ってから畳の上で胡座をかくと、どこから出してきたのか、紙コップが獄寺の目の前に差し出される。
「はい、これ」
  以前はどうだったか知らないが、獄寺が知る限り、綱吉の部屋にはたいてい誰かが入れ替わり立ち替わりやってきて賑やかな様子だ。いつもいつも階下へ飲み物を取りに行くのも面倒だからと、気づいたら紙コップが常備されていた。
「このスナック菓子さ、ずっと気になってたんだよね」
  ふふっ、と笑って綱吉が言う。
「そうなんスか。だったら、ちょうどよかったっス」
  菓子袋を大きく広げて、二人で菓子を摘んだ。菓子を食べながらどうでもいいような会話を続け、ジュースを飲んだ。一緒に買ってきたジュースは炭酸系の爽やかな味がして、獄寺は今の自分たちにピッタリの味だと密かに思った。



  クーラーのきいた綱吉の部屋でひとしきり他愛のない話をした。
  買ってきた菓子もジュースもなくなった頃を見計らったように、階下の奈々が声をかけてくる。
「ツッくん、ドーナツ作ったから取りにいらっしゃい」
  スナック菓子だけでは物足りない気がしていた育ち盛りの二人には、嬉しい言葉だった。
「はーい」
  間延びした返事をしながら綱吉が立ち上がろうとするのを制して獄寺は、「自分が行ってきますよ、十代目」と立ち上がる。
  二人きりでいると、フワフワとした気持ちになってしまい、自分の胸の内を綱吉に打ち明けてしまいそうになる。それにはまだ早い。自分の心の準備すらまだできていないのに、告白なんてできるわけがない。
  なにより、綱吉だって困るだろう。いきなり男の自分から告白などされたりしたら、常識人の綱吉のことだからきっと、驚いてあたふたするに違いない。
  だから、まだ、告白はしない。できない。
  もっと二人の距離が縮まればいいのにと獄寺は思う。近づいて、近づいて……綱吉が油断するほどに気を許してくれるところまで近づいたら、一気に畳みかけてしまえばいい。そうしたら、押しに弱い綱吉のことだ、その場の雰囲気に流されてくれるかもしれない。あとはこちらの気持ちを誠心誠意伝えていけばいいだけだ。
  とは言うものの、頭の中で考えることと、実際が異なっていることを獄寺は知っている。
  相手が綱吉だから、楽観的な予測はできない。獄寺が思っていないようなところで予想外の方向へと転がってしまうこともあるだろう。
  この勝負の行方は、なんて難しいのだろうと獄寺は思う。
  力の配分がわからないのは、自分が恋愛初心者だからだろうか。それとも、綱吉が相手だからだろうか。
「ドーナツいただきに来ました、お母様!」
  勢いよくキッチンに駆け込むと、テーブルの上には既にドーナツと冷たいコーヒーが用意されていた。
「あら、獄寺君が取りにきてくれたのね、ありがとう」
  言いながら奈々は、トレーにドーナツとコーヒーの入ったグラスを乗せた。
「お二階まで持って行ってくれる?」
  甘くて優しいドーナツの香りが、獄寺の鼻をつく。微かに香るのはシナモンの香りだ。
「はい!」
「あ、それから……お夕飯、獄寺君の分も用意するから食べて帰ってね」
「はい!」
  つい、勢いで返事をしてしまった。
  大きく頷いてからはっと我に返った獄寺だが、奈々は既に揚げ物に取りかかっていた。
「男の子が多いと作りでがあって嬉しいわ」
  そんな独り言が聞こえてきて、獄寺は奈々の背中に「ありがとうございます」と告げ、キッチンを後にした。



  階段をあがって、綱吉の部屋へと向かう。
  クーラーのきいていない廊下はさすがに暑くて、思い出したように汗がじんわりと額や首筋ににじみ出てくる。トレーを手にしているから汗を拭くこともできなくて、獄寺は歯がゆくてたまらない。
  と、どこからか蝉の声が聞こえてきた。
  ごく近くで鳴いているのだろうアブラゼミの声に、獄寺の眉間に皺が寄る。
  あまり大きな声で鳴かれると、さらに暑さが増すような感じがする。
  綱吉の部屋の前まで行くと、獄寺が戻ってくることがわかっていたかのように中からドアがぱっと開いた。
「おかえり、獄寺君」
  ドアの向こうで綱吉が笑っている。
「さっきそこの網戸に蝉がとまってさ、うるさくてうるさくて」
  そう言って苦笑しながらも綱吉は、仕方ないよねとつけ足した。
  自分が告白してもこんなふうに綱吉は、仕方ないよねと笑ってくれるだろうか。男同士という特殊な恋愛感情に嫌悪感を見せることもなく、これまでどおり普通に接してくれるだろうか。
  蝉にまで嫉妬をして馬鹿だなと思いながらも、気になって仕方がない。
  トレーを手にしたまま入り口のところで突っ立っていると、綱吉が怪訝そうに獄寺の顔を覗き込んでくる。
「ドーナツ、食べるだろ?」
  綱吉の言葉で我に返った獄寺は、無邪気に笑い返した。
「もちろん、いただきます!」
  まだ、言わなくてもいい。心の中で獄寺は思った。
  もうしばらくだけ、綱吉と友だちでいたい。友人としての絆を深めたい。だからまだ、この気持ちは胸の奥にしまっておこう。
  ドアを閉めるとクーラーのきいた部屋はいっそうひんやりとして涼しく感じられる。
  すぐ目の前の窓に止まった蝉の声が、ひんやりとした部屋の中に響いてくる。
「うるさいっスね、あいつ」
  獄寺が言うと、綱吉は小さく苦笑した。
「そうだね」
  でも、どうしてだか憎めないんだよね。
  そう返されて、獄寺も苦笑した。



(2014.7.23)



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