「その唇が、形作るもの」

  眠れる人の唇に、指の腹で触れてみた。
  ふっくらとした感触に、獄寺は愛しそうに目を細める。
  くすぐったいのか、綱吉はあどけないしぐさで獄寺の指から逃れようと寝返りを打った。その様子に、獄寺は微かに笑った。
  恋人の眠りを妨げないように息を潜めて、こめかみにキスを落とす。
  明日の昼の帰還予定が早まったことを知らせていたなら、この人は、起きて自分の帰りを待っていてくれただろうか。アジトに戻ってきた自分を抱き締めて、「おかえり」と言ってくれただろうか。この唇は、その言葉を形作ってくれるだろうか。
  いや、忙しい人だから、もしかしたら自分を待ちながらうたた寝をしていたかもしれない。これでよかったのだと、獄寺は思う。
  そんなことを考えながら、額にかかる綱吉の髪を指でかきあげた。
  明け方のうすぼんやりとした光が、部屋の中に入り込んできて、綱吉の頬を照らしている。
  微かな溜息を吐き出して、獄寺は摘み上げた髪の房を指でよじる。
  きっとこの人は、自分の帰還が早まることを知ったなら、怒っていただろう。無理をして帰ってこなくてもいいと、きっぱりと言っていたはずだ。だから獄寺は、内緒で夜の間に車を飛ばし、アジトまで戻ってきた。もう明け方近くになっていたが、構わなかった。少しでも早く、綱吉の顔を見たかったのだ。
  こっそり自室に戻って着替えをすませた獄寺は、もらった合い鍵で綱吉の部屋に入り込んだ。
  綱吉が眠っているだろうことはわかっていた。
  このところ守護者だけでなく綱吉も、忙しい日々を送っている。皆、限界まであちこちを駆け回って、半年ほど前から勢力を増してきた新勢力のマフィアの対応に追われていた。
  誰もが今回のことを他人事としてではなく、自分のこととして考えている。
  ボンゴレを守るため、皆、必死なのだ。
  綱吉の顔を覗きこんだ獄寺は、規則的な寝息を立てる男をじっと見つめている。
  学生のころとかわることのない、あどけない表情。どことなく幼くて、子どもっぽくて、純粋だ。
  指先で、綱吉の唇をつついてみる。
「……ん」
  つつかれてこそばかったのか、綱吉は寝返りをうった。
  獄寺のほうに体ごとごろんと向き直ると、またしても寝入ってしまう。
「十代目」
  小さな声で、呼んでみる。
  目を開けて、自分がここにいることに気付いてほしいと思いながらも、起こしてはいけないとも思う。
  連日の激務で疲れているのだ。
  自分の我が儘で起こすのは、忍びない。
  ベッドの脇にひざまずいて、綱吉の顔を覗き込んだ。
  恋人の眠りを妨げないように、息を潜める。
  ふっくらとした綱吉の下唇を、舌先でペロリと舐めてみた。



  唇のラインにそって、舌を這わせる。
  上唇をペロリとなぞると、ついで下唇をなぞる。
  指でつついた時のようにくすぐったがって逃げていくかと思っていたら、今度は逃げなかった。
「ぅ……ん……」
  ごそごそとしたものの、獄寺のほうを向いたまま、綱吉はまた寝入ってしまう。
  うっすらと開いた綱吉の唇に、獄寺の視線は釘付けになる。
  帰ってきたら、この人の唇に触れたいと思っていた。
  キスをして、「おかえり」と労ってもらいたいと思っていた。
  この人のためになら、どんな苦労をしても構わないと獄寺は思っている。
「少しぐらい、いいよな」
  掠れた声で呟いて、獄寺はごくりと口の中に溜まった唾を飲み込んだ。
  両手で綱吉の顔を固定すると、ゆっくりと唇を合わせた。
  恋人の唇は、柔らかい。綱吉に言わせると、獄寺の唇のほうが柔らかいらしい。自分の唇がどうかなんて、気にしたこともなかった。ただ、綱吉に触れたい、綱吉の唇の感触を味わいたいと、それだけしか獄寺は思っていなかった。
  力無く微かに開いた唇の隙間に舌を差し込む。
  眠っている相手になんて失礼なことをと思いながらも、獄寺は自分を止めることができない。
  そっと差し込んだ舌で歯の裏をゆっくりとなぞる。
  恋人になる前の自分には決してできなかったことだ。綱吉に触れるのもこわごわだった。いや、触れるなど、おそれ多いと思っていた。
  あの頃の自分は、純粋だったと獄寺は思う。
  指先が微かに触れただけでも心臓がドキドキと脈打ち、一見したところ何もなかったかのように振る舞っていたものの、その実、胸の内ではまるで小娘のようにうろたえていた。
  今の自分がこんなにも大胆なことをしているのは、綱吉が眠っているからだ。
  でなければ、こんなことを自分がするはずがない。
  舌をキュッと吸い上げて、唾液を絡ませると、不意にぐい、と後頭部を抱え込まれた。
「んっ、ん……」
  慌てて綱吉から離れようとしたが、ベッドに引き寄せられ、転がされてしまった。
「あ……」
  上体を起こした綱吉が、どことなく嬉しそうに笑っていた。



「おはよう。それから、おかえり、獄寺君」
  人の良さそうな笑みを浮かべて、綱吉が言う。
「ただいま戻りました、十代目」
  しゃちこ張って獄寺が告げると、綱吉もすっと真面目な表情になって頷いた。ボンゴレ十代目としての顔だと、獄寺は思う。
「無事で何よりだよ」
  そう言うと綱吉は、どこか遠慮がちに獄寺の体を抱きしめる。
「怪我は?」
  与えられた任務にもよるが、守護者たちが怪我をして戻ってくることもある。獄寺などは野良猫のように気紛れに飛び出していったかと思うと、血まみれで戻ってくることも少なくはない。いったい何をしていたのだと尋ねると、たいていは任務遂行のために怪我をしたと言う。尋ねてもそれ以上のことは返ってはこないため、いつの間にか綱吉も詳しく尋ねることをやめてしまっていた。
「なに言ってんスか、十代目。俺が怪我をするわけがないじゃないですか」
  カラカラと笑うと、獄寺は綱吉の肩に額を軽く乗せた。
「でも……少し、疲れました」
  夜通し車を走らせて、ここまで戻ってきた。
  少しでも早く、綱吉の顔が見たかったから。
  この唇が「おかえり」と告げる瞬間を、目にしたかったから。
  だから、少々無理をしてでも、戻ってきたのだ。
「だろうね」
  不機嫌そうに綱吉は返す。
「今度からはちゃんと休んで、万全の状態で戻ってくるんだよ」
  自分に言い聞かせるように、綱吉は囁く。その穏やかな響きに、獄寺はうっとりと目を閉じた。
「……はい」
  くぐもった声で返事をする。唇が綱吉の肩に触れて、心地よい。
「顔、あげて」
  すっと綱吉の指が、獄寺の頬をなぞる。
  請われるままに獄寺は、顔をあげた。



  綱吉の指は、獄寺の唇をなぞった。
  いましがた獄寺がしていた仕草と同じように、指の腹で唇をなぞり、なぞった後をペロリと舌で舐める。
「んっ……」
  鼻にかかった声をあげると獄寺は、綱吉から距離を取ろうとした。
  綱吉と恋人同士になってもう数年になるのだが、いまだに獄寺は、あからさまな接触が恥ずかしいようだ。明るい場所でのキスの後には決まって、頬を赤らめている。そんな反応が面白くて、綱吉はつい、明るい場所で頻繁にスキンシップをとろうとする。
  拒絶の言葉を口にしないから、綱吉もつい、それに甘えてしまっているところがある。獄寺だって人間だ。綱吉の右腕とはいえ、感情だってちゃんと持っている。その感情を押し殺して綱吉の意に添わせることは、果たして正しいことなのだろうか。
  ゆっくりと唇を離すと、唾液が糸を引いた。
「あ……」
  獄寺は、ブルッと体を震わせ、困ったように俯いた。顔だけでなく首まで真っ赤にして、じっと固まっている。
「獄寺君、顔あげて」
  少しきつい口調で綱吉が言う。
  一瞬ためらったものの、獄寺は顔をあげた。のろのろとした動きに、綱吉の口元に微かな笑みが浮かぶ。
「起床時間までにまだ間があるから、ここで休んでいけばいいよ」
  ポン、ポン、と自分の隣を叩いて綱吉は、獄寺の顔をのぞきこんだ。
「ほら、もっとこっちに詰めて」
  獄寺の腕を掴んで、ぐい、と体ごと引き寄せた。
  微かなコロンの香りが綱吉の鼻をくすぐっていく。
「そばにいてあげるから」
  そう告げた綱吉の唇が、獄寺のこめかみを掠める。
  チュ、と音を立てて獄寺の目の下と唇に、綱吉はキスをした。



  唇が離れていくと、獄寺はごそごそと体を動かし、甘えるように綱吉の肩口に頭をもたせかけた。
「十代目……」
  小さく呟いてみた。
  綱吉の唇が動く。
  獄寺の好きな唇が、少し照れたような声で耳元に囁きかける。
「まさかこんな早くに隼人が戻ってきてくれるとは思ってなかったから……その、うまく言えないんだけど、俺、すごく嬉しいよ」
  隼人、と。綱吉はそう、言った。
  甘い甘い囁きに、獄寺は目眩を感じた。
  綱吉の唇が自分の名前を呼ぶ時の形が、愛おしく感じられる。
「十代目の右腕ですから、当然のことです」
  誇らしげに獄寺は返した。
  綱吉の唇が、もう一度動く。
「……隼人」
  綱吉の指先が獄寺の頬に触れ、唇をなぞって離れていく。
  優しい響きに、獄寺は満足そうに喉を鳴らした。



END
(2009.7.2)


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