執務室の椅子に腰掛けた綱吉は、くるりと後ろを向いて、嵌め殺しの窓から表の景色に目を馳せた。
このところ晴天続きだったというのに、今日はあいにくと雨が降っている。朝からしとしとと降り続いているものの、鬱陶しいほどではない。東の空が白んでいるところを見ると、もう一、二時間もしたらこの雨は上がるのだろう。
しばらくそうやって景色を眺めていると、ドアの開く気配がした。
「お疲れでないですか?」
穏やかな声がかかった。
執務室に入ってきたのは、獄寺だ。
「ちょっと気分転換をしてただけだよ」
そう言って綱吉は、デスクに向き直る。
新しい書類の山を抱えた獄寺は、ニコリと笑みを浮かべた。
「それはよかったです。ちょうど、気分転換になりそうな書類を持ってきたところですから」
ドサリとデスクに積み上げられた紙の山に、綱吉はわざとらしく溜息を零す。
「ねえ、この書類、多すぎやしない?」
特別に多いわけではないということは、わかっていた。いつもこのぐらいの量はこなしている。優秀な右腕と家庭教師によって、綱吉の仕事はしっかりと管理されている。
「そんなことないですよ」
さらりと返して獄寺は、デスクの片隅に置かれたマグカップを手に取った。
「コーヒーでいいですか?」
綱吉の返事を聞きもせずに獄寺は、執務室の一角に設置された流しでさっとカップを洗う。電気ポットのお湯を注ぐだけでできるインスタントコーヒーだが、それでも気分転換になるだろう。
獄寺がマグカップに砂糖とミルクを落とすのを、綱吉はじっと眺めていた。
「仕事、ちゃんとしてくださいよ、十代目」
マグカップを手にした獄寺が、綱吉の視線に気付いたのか顔をあげ、眉間に皺を寄せて言った。
「ああ……うん、ちょっと休憩」
そう言って綱吉が苦笑いを浮かべるのに、獄寺は眉をひそめる。
昔の獄寺ならきっと、こんな表情はしなかっただろう。この十年、一緒に過ごしてきたからだろうか、獄寺は自分をたしなめるのがずいぶんとうまくなったと綱吉は思う。
「これ飲んだら休憩はおしまいですよ、十代目」
優秀な右腕だから、しっかり釘を差しておくことも忘れない。
「うん、わかったよ」
頬杖をついて綱吉は、気のない返事をする。
マフィアになるつもりなんて、これっぽっちもなかったのにと、こっそり溜息をついてみる。獄寺は、ボンゴレファミリーの十代目である綱吉にぞっこんだ。今も、昔も、十代目一筋だ。
十代目一筋のこの一筋というのは、いったい何にかかっているのだろうと、綱吉は考えることがある。
ボンゴレファミリーの十代目であれば誰でもいいのか、それとも、十代目が綱吉だからこそ一筋でいてくれるのか、いったいどちらに重きを置いているのだろうか。
マグカップをデスクの隅にそっと置く獄寺の手つきは、優しい。
「あ……」
目の前で揺れる銀髪に、不意に綱吉が小さく声をあげた。
「獄寺くん、頭に糸くずがついてるよ」
そう言って、獄寺の髪を指さしてみせる。
「え、どこですか?」
尋ねる獄寺の肩を引き寄せ、綱吉は髪に触れた。さらりとした細い髪に指を絡めると、獄寺が小さく身を潜めるのが感じられた。
「ちょっと待って」
耳元で綱吉がそっと囁いてやると、躊躇いがちにではあったものの獄寺は素直に頷いた。
糸くずを取るふりをして、獄寺の髪に唇を落とした。
チュ、と音を立ててキスをすると、身を固くした獄寺が驚いたように体を揺らす。
「ちょっ…十だ……」
慌てて身を離そうとする獄寺の腰を引き寄せると、綱吉はぎゅっとその体を抱きしめた。見た目よりもほっそりとした獄寺の体から、ほんのりとコロンの香りがする。
「コーヒーを飲み終わらないうちは、休憩時間中だよね」
確信犯的に綱吉が告げる。
「じゃあ、さっさと飲んで、さっさと仕事に戻ってください、十代目」
幼い子どもに言い聞かせるように辛抱強く獄寺が言うと、綱吉は嬉しそうに笑う。
「はいはい」
それぐらいわかっているよ、と、小さく呟いて綱吉は、獄寺の耳たぶにキスをする。
わざとらしく音を立てて、髪や耳たぶやこめかみにキスを落としていく。嫌がって獄寺が身を捩るままにさせていると、いつの間にかデスクの上に押し倒していた。
「十代目……」
恨めしそうに見上げる獄寺の眼差しが、可愛いとさえ思えてしまう。
そのまま、獄寺の鼻先にキスをした。この男に唇で触れていいのは自分だけなのだと、綱吉は自分勝手な優越感を感じている。
そのまま、唇をゆっくりと塞いだ。コーヒーと煙草、それにコロンの入り交じった獄寺のにおいに、綱吉の口元に笑みが広がる。舌先で唇を湿らせてやると、渋々ながらも獄寺は口を開けた。あっさりと陥落した獄寺の意志の弱さに物足りなさを感じながらも、口の中に舌を差し込み、歯の裏をねっとりねぶりあげる。
獄寺の腕が縋りつくものを求めてデスクの上をさまよっている。
カタン、と音がして、綱吉が顔を上げると、マグカップがひっくり返ってデスクの向こうがわを焦げ茶色に染めていた。
「あ……?」
音のしたほうを見ようとする獄寺をやや強引に押し止めると綱吉は、その手をぐい、と引き寄せて、自分の体に縋りつかせた。
獄寺のネクタイを解くと、シュルリと衣擦れの音がする。
片手でシャツのボタンをひとつひとつ焦らすように外していくと、それだけで獄寺の吐息が甘くなっていくようだ。
シャツの前をはだけてしまうと、現れた白い肌には無数の戦いの痕が残っていた。大きな傷もあれば小さな傷もあるが、そのひとつひとつが綱吉には愛しい。
鎖骨のあたりに舌を這わせ、綱吉はゆっくりと獄寺の味を愉しんだ。
獄寺の肌は、どことなく甘い味がするように思える。こうして抱いている時は特に、そうだ。
いつだったかそれを正直に打ち明けたら、獄寺にそれは火薬のにおいだと素っ気なく返された。
その言葉が本当なのか嘘なのかは、綱吉にはわからない。しかしわからないなりに、なんとなく綱吉は、その言葉を信じている。
「十代目、コーヒーが……」
言いかけた獄寺の唇を指で押さえると、綱吉は笑いかけた。
「コーヒーが零れちゃったから、今日の仕事はもう終わりだよ」
そう言って鎖骨のラインを舌でペロリとなぞってやると、白い体がふるりと震える。見上げる瞳が濡れて、艶めかしい。
「……駄目です」
弱々しい抵抗を繰り返しながらもしかし、強い口調で獄寺は言い切った。
「駄目です、十代目」
瞳がこんなにも潤んでいるというのに、それでも獄寺は強い意志でもって綱吉を拒もうとする。
「あー……じゃあ、キスだけ……とか?」
弱々しく笑って綱吉が提案するのに、獄寺は小さく頷いた。照れ臭そうに、それでもまっすぐに綱吉を見つめるその素直さが可愛らしい。
チュ、と音を立てて鎖骨のすぐ下を吸い上げると、獄寺の体がピクンと震えた。
きつく吸い上げて、跡を残した。
「ツナ兄、なんでこんな染みになってるんだよ、まったく」
ブツブツと文句を言いながら、書類を取りに来たフゥ太がしゃがみこみ、毛足の長い絨毯を確かめている。デスクの向こう側、ちょうどマグカップが落ちたあたりに大きなコーヒー染みが出来てしまっていた。タイミングよく書類を取りにやってきたフゥ太にコーヒー染みを発見され、綱吉は散々文句を聞かされたばかりだ。
「ごめんね、フゥ太。よそ見してたらマグカップが落ちちゃったみたいで……」
困ったような笑みを浮かべて綱吉が告げるのを横目に、獄寺はいそいそと別の書類を手にして部屋を出ていこうとする。シャツのボタンは今は上まできっちりととめられており、ネクタイがきつく締められている。あのシャツの下にある朱色の跡のことを考えると、自然と綱吉の口元が緩んでくる。
「あ、獄寺くん!」
待って……と言いかけて、綱吉はふと口をつぐんだ。
「はい、まだ何か?」
入り口の手前で綱吉に呼び止められた獄寺は、綱吉を振り返り、数歩戻りかける。
「あの、さっきの話……なんだけど、さ。夕食の後に、もういちどいいかな。もう少し話し合いたいんだけど」
綱吉の言葉に、獄寺は意味深な視線をちらりと向けた。
「そうですね。今のところ夕食の後はスケジュールが空いてますから、また後でこちらに窺います」 いつもより素っ気ないぐらいにあっさりと告げると、獄寺は今度こそ本当に部屋から出ていった。
獄寺が出ていったドアを見つめて綱吉は、こっそりと笑った。
END
(2009.7.19)
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