「勝てるの? 俺に」
「へえぇぇ」
仁王立ちになったサンジはおもむろに腕組みをすると、畳の上に這いつくばるエースをギロリと睨み付けた。
「アンタ、そんなんで勝てるの? 俺に?」
高飛車にそう言い放つと、サンジは口の端をつり上げて笑う。鼻の先でフフン、と笑われ、エースは咄嗟に目を逸らした。
「無様だよな。それで俺より強いって、どーゆーことよ?」
ダン、とサンジは地団駄を踏んだ。いわれのない八つ当たりをうけた畳に、今にも足がめり込んでしまいそうだ。
「俺に勝ってみろよ。一度でもいいから、勝って、俺よりも強いとこ見せてみろ!」
低い、腹の底から絞り出したような声でサンジは声をあげた。
エースと喧嘩をすると、いつもこうだ。
肝心なところでエースは、するりと身を引いてしまう。
いつもいつも、そうなのだ。一度だって本気でサンジと喧嘩をしようとしないエースに対して、いつからだろうか、不信感ばかりが植え付けられてしまっている。
自分のことを恋人だなんだと言っておいて、実のところ、そんなふうに思ってもくれていないのではないかと、少し前からサンジは不安で不安でたまらない。
恋人なのにと、サンジは唇を噛み締める。
やることもやってるし、一部の仲間内には公認ですらあるというのに、いまだにエースはサンジに対して一歩退いたような感じで接してくることがあった。
サンジとしてはそれが納得いかず、常に不満がいっぱいだということに、エースはなかなか気付いてくれない。
いったい何が、エースに対してそんな遠慮をさせているのだろうと、サンジは思う。
考えてみると、ことの初めからそうだったような気もする。
好きだと言いだしたのはサンジのほうからだった。つきあおうと言ったのも、キスをせがんだのもサンジからだった。恋人同士の深いつきあいを求めて、我が儘放題好き放題をやらかして、今に至る。
たいていの場合、サンジが主導権を握ってきた。お膳立てをしてやって初めて、エースは行動に移る。石橋を叩いているうちに渡るタイミングを失ってしまうタイプだろう。
「……それとも、さ」
不意に我に返ったサンジは、ゼエゼエと息を切らしながら呟いた。
「エースは俺のこと、なんとも思ってねえんじゃないのか?」
声が震えていると、サンジは思った。
ポロリと洩らした本音の不安が、狭い部屋に吸い込まれ、消えていく。
エースは何も言わない。
いつもなら「そんなことはない」と言い切って、サンジの機嫌を取ってくれるエースは、今日はいない。
かわりに、無表情で冷たい眼差しをする男が一人、いるだけだ。
何か言いたそうな様子でじっとサンジを見つめる男は、いつものエースとは違ったよそよそしい雰囲気をまとっている。
恋人としてつきあうようになってから、なんども喧嘩を繰り返してきた。
ほとんどはサンジの身勝手からくるものだったが、それでもエースはいつも、笑ってサンジの言葉に耳を傾けてくれていた。
それが何故、今日に限って冷たいのだろう。
こんなふうに無関心を装って、サンジの言葉を無視しているようにも見えないでもない。 「そうだな……なんとも思っていないのは、俺よりもお前のほうだろ?」
淡々とした様子で紡ぎ出されるエースの言葉に、サンジの目の前が一瞬、真っ暗になった。
「はあ?」
何を言われたのか、考えたくもなかった。
エースに突きつけられた言葉から目を逸らし、耳を閉ざし、サンジはただ、その場に立ち尽くしていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろうと、ぼんやりと胸の底で考えた。
ゆっくりと体を起こしたエースは、大股に部屋を横切ってドアのほうへと向かっていく。 ──行ってしまう。
引き留めようとしたものの、サンジの喉から声は出なかった。
弱々しく手をさしのべようとしたところで、ドアがパタンと音を立てて閉まった。
まるで漬け物石のように重い腕は、ほとんど動いていなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろうと、サンジは考える。
サンジとエースは、幼馴染みだ。一年の隔たりはあるが、幼稚園から高校までをほぼ一緒に過ごし、大学に進学した。同じ地元の大学に通えると喜んだのもつかの間、サンジの入学式にエースの姿はどこにもなかった。勝手に黙って大学を中退したエースは、地元の町工場に就職をしていたのだ。
エースの就職を機にいちどは別れた二人だったが、夏祭りの夜を境に、よりを戻していた。
うだるような夏の暑さに包まれて、二人は初めて抱き合った。つきあいは長くとも、これまでそういった行為に及んだことがなかったのだ。エースからのおうかがいに後押しをしたのは、もちろんサンジだ。いつもいつも、そうだ。サンジのほうから行動を起こしてくれるのを、エースは待っている。
日頃から男は嫌いだ、レディがいちばんと口にしているサンジだが、エースの熱は怒濤のようにサンジを飲み込んで、色恋に溺れさせていく。ようやく深い仲になって、気がついたらエースのペースに巻き込まれていた。知らない間に、サンジのなけなしの理性やプライドまでも、この男は持っていってしまったのだ。
男は嫌いだと言っていた自分が、男のエースに甘い言葉を囁き、囁かれ、抱かれている。その事実をサンジは認めているし、自分なりに納得している。
しかし、何かが違うのだ。
エースの気持ちと自分の気持ち、どちらかにずれが生じている。
いったいいつから、こんなことになってしまっていたのだろうか。
夏祭りの後しばらくして、エースに抱かれた時にはまだ、そんなことにはなっていなかった。もし何かがかわったとするならば、それはサンジがエースに抱かれた後だ。
はあぁ、と溜息をつくと、サンジはジーンズの尻ポケットから煙草を取り出す。
苛々とライターで火をつけると、息を深く吸い込んだ。
何が悪かったのだろうかと思うまでもない。きっとエースは、自分の態度に愛想を尽かしたのだろう。
そう思うと、いっそう気持ちが沈み込んだ。
久々に大学の友人たちと飲みに出かけたサンジは、女の子たちがそれぞれにお相手を連れての参加だったことにひどく傷ついていた。
飲み会だ、合コンだ、と浮かれていた気分は、一瞬にしてしぼんでしまった。
エースと喧嘩をして一週間が過ぎている。
独り寝の寂しさを和らげてもらおうと思っていたのに、これは早々に退散したほうがよさそうだ。そう思ったサンジは、適当に飲んで、適当なところで店を抜け出した。
あまり酔うことができなかったのは、エースとの喧嘩が継続中だからだろうか。
暗がりを足早に通り抜ける。
駅からエースの部屋までの道のりは、植え込みが多く人通りの少ない道が続いている。
人通りの少ないのは薄気味悪かったが、恐いというほどでもない。
スタスタと歩いていると、後ろから誰かがついてくることにサンジはふと気付いた。引きずるような足音に、サンジはふと立ち止まり、耳を澄ました。足音がやんだ。歩き出すと、またしても足音がついてくる。
スニーカーの底を引きずるようなズルズルという音が微かに耳に届いてくる。
「うえ、気味悪りぃ」
呟いて、歩く速度を心持ち速めた。
ズルン、ズルッと口底を引きずりながら、背後の足音も心持ち歩くスピードを速めたようだ。
「恐くはないが、さすがにこれは嫌な感じだな」
小さく呟いて、サンジは尚も歩き続ける。
この先は高架下だ。薄暗く、物音だけがやたら反響する、人気の途絶えるエリアだ。女の子たちが時たま変質者に襲われるのはこのあたりだっただろうか。
神経が張り詰めて、瞼がピクピクとなった。
これがいわゆる武者震いとかいうやつだろうかと、サンジはぼんやりと考えた。
追いかけてくる足音は、もう少しだけスピードをあげたようだ。
サンジの目の前に高架下が迫ってくる。
「どーしよ」
呟いて、ふと口を噤んだ。
足音が、ズルン、ペタン、ズルッと変化をつけながら追いかけてくる。足音には水っぽい音も入り交じっており、なんとも気味が悪い。
いざとなったら蹴飛ばしてやろうと思いながらも、どことなく心細くもある。
こんな時にエースがいてくれたならと思わずにいられない。
エースがいなければサンジの時間は、途端に色褪せてしまう。
喧嘩ばかりしているようで、サンジばかりが我が儘を言ってエースに無理強いをしているように思われがちだが、実際はそうでもない。
好きだからこその我が儘、好きだからこその些細ないざこざだと、以前、エースとのつきあいがなかった期間に懇意にしていた彼女に言われたことがある。それはそれでいいのではないか、とも。 本当にそうなのだろうか?
自分が我が儘を言うと、エースはそこそこ甘やかしてくれる。しかし本当にエースは、サンジを甘やかすことを楽しんでいるのだろうか?
もしかしたら、サンジのことを疎んじているのではないだろうか。
もしかしたらそんなサンジに愛想を尽かして、別れたいと思っているのではないだろうか。
何よりも自分たちは男同士で、普通の恋人同士からはかけ離れている。エースが女の子に興味を持ったとしても、不思議はない。
そんなことを考え始めると、余計に頭の中がグルグルしてきた。
はあぁ、と溜息を零したところで、ふと、背後の足音が止んでいることに気付いた。
「あれ、いなくなってやんの」
ポツリと呟いて、それからもう一度、今度は安堵の溜息をつく。
ホッとして歩き出したところで、サンジはギョッとした。
高架下を抜け出した目の前に、黒い人影が立ち尽くしていた。
ぎくりと体を強張らせ、正面を見据える。
何も見なかったようなフリをして歩きだすと、影がユラリと揺らめいた。
ズルン、ペタン、ズルッと音を立てて、影はどうやら、サンジのほうへ近づこうとしているらしい。
──エース。
口の中で呟いて、サンジは身構えた。
足に少しは自信がある。逃げてよし、戦ってよしの自慢の足だ。
「よし、来い!」
半ばやけくそ気味にサンジは、吠えた。
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