「勝てるの? 俺に」
「来るなら来てみろ、ってんだ!」
叫んだ瞬間、影は立ち止まった。動きを止め、じっとサンジのほうを見つめている。
「──サン…ジ……?」
ガラガラにひび割れた声だったが、サンジが聞き間違えるはずがない。エースの声だ。
「あ?」
毒気を抜かれたようにサンジはその場に立ち尽くしていた。
何がなんだか、わからない。
エースらしき黒い影は、ズルン、ペタン、ズルッという足音を立てながら、サンジ目がけて突進してくる。
エースらしくないと、サンジは思った。
片足を引きずりながらのたのたと駆け寄ってくる人影は、やはりいつものエースと少し違うように思われた。
「サンジ、迎えにきてくれたのか?」
少し舌っ足らずの甘えたような声は、やはりエースの声だ。ひび割れているのは、酒のせいだろう。影が近寄ってくるにつれて、アルコールのきついにおいがサンジの鼻を刺激する。それに混じって、ヘドロのにおいだ。どこぞの溝さらいでもしてきたのだろうか。
「サンジ!!」
両手を大きく広げて、影が抱きついてこようとするのを、サンジは冷静に足蹴にした。
「寄るな、気色悪りぃ」
言った瞬間、影がヘナヘナとその場に座りこむ。
「なんだ、このにおい。臭せぇ」
生臭いヘドロのにおいに、サンジは顔をしかめた。胸がムカムカして、胃の底のあたりから吐き気がこみあげてきそうだ。
「ゾロと飲みに行ってたんだよ、さっきまで。ベロンベロンに酔うまでしこたま飲んでさ。そしたら帰りに、何もない道でこけるし、ゲロ吐くし、頭からドブ川にハマるしで、もうたいへんでな……」
言いながらエースは、楽しそうにケタケタと笑っている。
まだ酔いが醒めきっていないのだろう。
サンジは苛々とエースを見おろした。
結局、あの汚い物体を放置しておくわけにもいかず、サンジは二人の部屋までエースを連れ帰った。
灯りの下でよく見て、はじめてどんな状況だったのかが理解できた。
溝のヘドロを頭からひっかぶったエースのシャツの前は吐瀉物の残骸らしきものがしみこんでおり、スラックスの膝の部分には穴があき、ところどころうっすらと血がこべりついていた。こけた時に膝をすったのだろう。風呂場で服を脱がすと、血の滲んだ膝がジクジクして痛そうに見えた。
「ほら、頭から水でもひっかぶって、素面に戻れ」
そう言ってサンジは、シャワーを勢いよく流した。
エースが着ていた衣類は脱がして、すべて捨てた。あまりにも汚く、臭くて、どうしようもなかったのだ。後でエースが知ったら怒るかもしれない。
「全身しっかり洗えよ。アンタ、臭すぎだ」
喧嘩の最中だということも忘れて、サンジは甲斐甲斐しく酔っぱらいの面倒を見ている。 そうしなければエースは床に座り込んで今にも寝入ってしまいそうだった。
まったくとんでもないものを拾ってしまったと、サンジは溜息をつく。
こんなつもりではなかった。
喧嘩継続中の恋人を連れ帰って、こんなふうに面倒を見てやるつもりなどさらさらなかったのだから。
もうひとつ溜息をついたサンジは、ついでとばかり自分もシャワーを頭からかぶった。
部屋に戻ると、先に風呂から上がっていたエースが腰にタオルを巻き付けただけの格好で、ビールを飲んでいた。ふんぞり返って、そばかすだらけの顔を赤くしている。
「まだ飲むのか……」
せっかく抜けた酔いがまた戻ってくるのではないかと、サンジは眉間に皺を寄せた。この一週間、喧嘩をしていたことなど微塵も感じさせないほどエースは機嫌よくしている。
「ツマミ作ってくれ、サンジ」
ニコニコと笑みを浮かべながら、エースは言う。
喧嘩していたことが馬鹿馬鹿しくなるほどあっけらかんとした態度に、サンジは小さな苛立ちを感じた。
冷蔵庫から卵を取り出したサンジは、黙ってキッチンに立つ。刻んだネギと、海苔入りの二種類の卵焼きを手早く用意して部屋に戻った。
「ほら、ツマミ」
ブスッとした表情でサンジが告げると、エースは笑顔の大安売りをしてから卵焼きを口の中に放り込んだ。
「ネギのほうがうめぇ」
ポツリと呟いて、また楽しそうに笑う。
「なあ、サンジも飲めよ」
そう言ってビールをすすめてくるエースに、サンジはこっそりと溜息をついた。一週間も喧嘩をしている相手と、こうして酒盛りをすることになろうとは、思ってもいなかった。
視線を逸らすと、ふとエースの膝の怪我が目に入った。
洗ったばかりの傷口に、さっそく血が滲んでいる。
適当にエースがすすめてくるのを断ると、サンジは部屋の隅に置きっ放しになっていた救急箱を持ってきた。
「膝ンとこ、穴あいてたもんな」
捨てたスラックスの膝にあいた穴を思い出しながら、サンジはポツリと呟いた。
「ほら、消毒してやるからおとなしくしろ」
消毒液をかけると、エースは笑いながら痛い、痛いと身を捩った。怪我自体はたいしたことはないようだが、こうしてサンジに構ってもらうことが嬉しいのか、楽しんでいるように見える。質の悪いヤツだと、サンジはこっそり溜息をつく。
「はい、これでOKな」
最後に、救急箱の底にあった絆創膏をペタンと膝に貼り付けて、サンジは告げた。
エースがじっと、サンジを見つめていた。
「な…ん、だよ……?」
怪訝そうにサンジはエースを見返した。
「いや、別に。サンジが優しいなと思って」
そう言ってまた、エースはケタケタと笑う。酔っ払っているだけに、始末に悪い。
サンジはムッとした表情を作ると、絆創膏を貼ったばかりの膝をペシッと軽く叩いた。
喧嘩をして、もう一週間にもなる。
この一週間、寂しくなかったと言えば嘘になる。
たった今、叩いたばかりのエースの膝に手をあてて、サンジはそっとなでてやる。
「別に、俺より強くなくてもいいんだけどさ……」
呟いた言葉は、本心だ。
エースが強いのはサンジだってちゃんと理解している。おそらく、本気で喧嘩をしたなら自分よりも強いだろう。それがわかっているから余計に、本気の喧嘩をしてみたいとサンジは思うのだ。怖いもの知らずとはまた異なる、好奇心というやつだ。
「ごめんな」
口の中でボソボソと呟いて、絆創膏に唇を押し当てた。
消毒液のツンとするにおいに、サンジは顔をしかめる。
「──…本当に?」
不意に、エースの声がはっきりと頭の上で響いた。
酔っ払っているとばかり思いこんでいたが、見上げたエースの目は、酔ってなどいなかった。
正面から目を覗き込まれて、慌ててサンジは視線を伏せた。
「なあ、サンジ。本当にそう思ってる? 俺のほうがサンジより強いって、ちゃんと思ってるか?」
改めて尋ねられると返答に困ってしまう。サンジにしてみれば喧嘩の時のような勢いがなければおいそれと答えられないようなことを、この男は臆面もなく尋ねてくる。
どう答えたものかと口の中で言い訳をブツブツ呟いていると、髪に唇を落とされた。
二の腕をぐい、と強く引かれ、エースの太股の上に引きずり上げられる。向かい合わせの至近距離で見るエースの顔は久しぶりで、一週間ぶりに間近で見たからだろうか、どこか懐かしいような感じがする。
「別に、勝ってほしいって思ってるわけじゃねーんだけどさ」
唇を尖らせて、言い訳がましくサンジは言う。
「手加減されてる、ってわかるのが嫌なだけだよ」
なんどもサンジは、そのことを訴えていた。我が儘を言おうが、無理難題を口にしようが、最終的にエースが折れることで二人の関係はうまくいっているように見えていた。表面上は。それが嫌だったのだ、サンジは。
そうではなくて、口論になろうが喧嘩になろうが、本心をぶつけ合いたいと、そんなことを思っていた。それはもしかするとエースにしてみれば、子どもっぽい他愛のないことなのかもしれない。 しかしそういったつきあいをしたいと、サンジは思っている。
時折見せるエースの本心を、もっと見たいとサンジは思っているのだ。
向き合ったサンジの頬に唇を押しつけて、エースは囁いた。
「俺、サンジに勝ってると思ってるぜ? 負けてばっかだなんて、一度として思ったことないんだけどな」
そう言ってニヤリと笑うエースの膝を、サンジはしたたかにパシリと叩く。
「るせっ、んなことわかってら!」
そう言うと身をかがめ、絆創膏の上から舌を這わせる。膝から太股へとかけて、ゆっくりと唇で辿っていく。内側に近い肉の軟らかいところを唇で挟んで甘噛みする。
「それにしても、なんでマリモ頭と酒盛りしてんだよ、アンタは」
恨めしそうにサンジは、ちらりとエースの顔を見る。
「ああ。だってサンジ、いつも大学でゾロと仲良くしてるって言ってるから、ちょっと偵察に、な」
笑ってエースはそう言った。
だからサンジは勢いよく、エースの太股に歯を立てた。
「そんなんで俺に勝ってるって言うのかよ、アンタ」
エースが足を動かした途端、腰に巻いたタオルがめくれ上がって、その中の様子がちらりとサンジの目に飛び込んできた。
「あ……」
「あ、見えた?」
何でもないことのようにさらりと言って、エースは笑う。
目だけがやたらと真剣で、あまりにもまっすぐに見つめるものだから、サンジは目を伏せた。
「ほら、な。いつも俺のほうが勝ってるだろ」
そう言ってエースは、サンジの髪をくしゃくしゃと撫でつけた。
いつも、そうだ。この男には言葉では勝つことができない。肝心なところで身を引いて、のらりくらりと逃げていってしまう。
悔しさと怒りと、それからぐちゃぐちゃになった愛情とが入り交じって、サンジの頬がカッと熱くなった。
サンジが、エースに負けたと思った瞬間だった。
|