桜東風(さくらごち)3

  結局、加州の手入れも御手杵の時と同じく一日がかりに近いものになってしまった。
  翌日は燭台切と蜂須賀虎徹、それに堀川国広の三人が中心となって加州の快気祝いを兼ねた花見の料理を用意した。
  次郎太刀は相変わらずだったが、ちらりと見た感じでは、自分からすすんで春霞のところへ手入れを頼みに行く日もそう遠くはないような気がする。
  自分の本丸を奪われ、逃げ込んできた審神者にしてはなかなかやるじゃないかと同田貫はニヤニヤしながら春霞を眺めている。
「どうしたんだよ、正国。鼻の下が伸びてるぞ」
  からかうように御手杵に言われても、腹が立つことはない。
  人の姿となった自分の主は夏海一人だけだと思っていたが、今は春霞が審神者でも悪くはないと思っている。
  御手杵の手入れに続いて加州の手入れまでしてしまったのだ、春霞は。どこかぽやっとした雰囲気の小娘だとばかり思っていたが、案外そうではないのかもしれない。
  同田貫の目の端に、広間の準備を手伝っていた春霞と加州がふざけながら言葉を交わしている姿がちらちらと見える。
  ああしていると、二人ともずっと以前から仲が良かったように見えないでもない。
  広間のすぐ前に広がる中庭では、身軽な短刀たちが木々に提灯を吊り下げている。なんでも、暗くなってからも花見ができるようにとのことらしい。
「……こんなに楽しいのは久しぶりだな」
  すぐ隣で胡坐をかいて槍の手入れをしている御手杵に、同田貫は声をかけた。
「そうだな。俺たちの主は夏海しかいないけど……時々、春霞ちゃんが審神者でも構わないかな、って最近思うんだよな、俺は」
  のんびりとした口調で御手杵が返してくる。
「……だな」
  少し難しい顔をして同田貫は答えた。
  自分たちの主は、間違いなく夏海ただ一人だ。だが、名津の本丸を飛び出してきた自分たちには、どうあっても審神者が必要だ。この波留の本丸で世話になる以上は、それが建前だとしても誰かしら審神者として存在してもらわないことには、やっていけないのが刀剣男士だった。
「それに春霞ちゃん、初々しいしさ。俺のこと、御手杵さんって呼んでくれるんだぜ?」
  嬉しそうに告げる御手杵の鼻の下こそ、やに下がっている。
  同田貫はケッ、と悪態をついた。
  確かにあの小娘はおぼこに見える。だが、それにしてもなかなか強かなところも持ち合わせている。
  普段はどこか抜けたようなところがある風だったが、秘密会議を開いたり、加州にこっそりお守りを持たせたりと、気の回し方が手馴れているところが気にかからないでもない。もっともそれだからこそ、同田貫は春霞のことを好ましくも感じるのだが。
「ま、とりあえず今夜は食って飲んで楽しめばいいんじゃないのか?」
  昨日の戦でそこそこの戦果を挙げた御手杵は、いつも以上に機嫌がよさそうだ。
「そうだな」
  そう返すと同田貫は、中庭におりた。
  それからふらふらと短刀たちのほうへと近付いていく。
  御手杵が後をついてきていることは、振り返らなくてもわかっている。
「おい、お前ら。届かないところは御手杵に手伝ってもらえ」
  言いながら、必死に手を伸ばす秋田の手から提灯を取り上げ、目の前の枝にひょい、とひっかけてやる。
「おいおい。人任せかぁ?」
  ボリボリと頭を掻きながらも御手杵は、満更でもなさそうな顔をしている。
「あんた背が高いんだから、手伝いぐらいしろよな」
  そう言いながら同田貫は、さっさと広間のほうへと戻っていく。
  縁側に上がる時にちらりと背後を見ると、平野を肩車している御手杵の姿が目に入る。なかなか様になっているなと、同田貫は思う。
「手伝ってやるよ、春霞」
  広間に机を並べていた春霞に声をかけると、加州が横から口を挟んできた。
「あー……来なくていいよ、同田貫は。春霞の手伝いは俺がするから」
  しっ、しっ、と手をひらひらとさせて追い払われそうになる。
  ムッとして言い返そうと口を開きかけたところで、隙をつくようにして燭台切が春霞に声をかけてくる。思わぬところに伏兵がいたものだ。
「春霞ちゃん、さっきの草団子、餡子と黄粉、どっちにする?」
  尋ねられて春霞の気が逸れた。同田貫も加州のこともほっぽって、燭台切と何やら話し込み始める。
「もうっ……!」
  唇を尖らせて加州がギロリと同田貫を睨み付ける。
  俺のせいじゃないぞと同田貫は小さく肩を竦めて、また縁側へ戻った。
  隅のほうに腰を下ろした同田貫は、御手杵が短刀たちと提灯を下げるのをぼんやりと眺める。
  そよそよと吹いてくる風は東からのもので、春の匂いがそこここにちりばめられていた。
  時折、風の悪戯か桜のはなびらがひらひらと中庭に舞い降りる。
  少し前まで雪に覆われていたというのに、春の来るのは早いものだ。春霞が来るまでは寒くて冷たい場所だとばかり思っていたこの本丸が、いつの間にかこんなにもあたたかな場所になっていた。
  口元を緩ませた同田貫は、うつらうつらといつしかうたた寝を始めていた。



  気が付くと、宴会はもう始まっていた。
  桜を眺めながら思い思いに食べ物を口に運んだり、酒を飲んだり、言葉を交わしたりと忙しそうだ。
  不意に広間の中央のほうできゃははと笑い声があがった。次郎太刀だ。
  あんなに楽しそうな次郎太刀は久しぶりに見る。考えてみれば、この本丸に来てからあんなふうに楽しげな様子の次郎太刀を見るのは初めてではないだろうか。
「楽しそうだな……」
  手入れもしてもらっていないのに、呑気なものだと同田貫は思う。
  さっさと手入れをしてもらえばいいのだ、春霞に。
  そうすれば同田貫の憂いも片付いてくれるというのに。
「よ。飲んでるかい?」
  徳利を手に、薬研がやってきた。
「どうぞ」
  薬研が徳利を傾けてくるものだから、同田貫は手にした盃に酒を注いでもらう。
「夜桜見物ってのも、趣があっていいものだな」
  そうだな、と返して同田貫は盃の酒をぐい、とあおった。
  目の前のこの男が幼い顔立ちの割に、なかなかの食わせ物だということに同田貫はとうに気付いている。春霞と同じぐらいに思考や動きが読めないことがあるのだ。
「そうか。俺は夜桜は初めてだ」
  名津の本丸は、一年中ほとんど夏ではないかと思われるほど暑い場所だった。桜の木はあったが、まだ若すぎるのかほとんど花をつけることもなかった。夜になると皆で縁側に出て酒を酌み交わすことはあったが、こんなふうに夜桜を愛でるためというよりは、酒を飲むためだったような気がする。
  ここへ来て初めて、雪とは冷たいものだということを知った。冬の寒さを経て、春の穏やかさ、あたたかさを実感することができた。
「ここは……いいところだ」
  薬研がしんみりと呟く。
  頷いて同田貫は、薬研の杯に酒を満たしてやる。
「春霞のおかげで、これからはもっといいところになるさ」
  同田貫は返した。
  傷付き、今にも折れてしまいそうだった御手杵を春霞は手入れしてくれた。加州だって、命を救われた。これ以上を望むと罰が当たりそうな気がしないでもない。それでも、その先を望まずにはいられない。
  あまり欲をかくなと思いながらも同田貫は、その陰で夏海の無事を願っている。やはり、本来あるべき元の状態に戻りたがっている自分がいる。名津の本丸で夏海を主と仰ぎ、気心の知れた仲間たちと共に戦いたいと思っているのだ。
「そうなればいいな」
  くい、と盃の酒を飲むと薬研は微かに笑いながら広間のほうを向いた。
  薬研の視線の先を追いかけると、春霞がいた。いつの間にか次郎太刀と加州と一緒になって、酒を飲んでいる。
「おい……あれ、大丈夫なのか?」
  ぎょっとして同田貫は、薬研に声をかけた。
  春霞が手にしているのは、盃と言っても次郎太刀が持っているものだった。他の盃よりも一回りも二回りも大きく、器の底が深い。それだけたくさんの酒が入る盃だ。
「大丈夫だ。ああ見えて結構飲むほうだからな、春霞は。ちょっと酒癖は悪いかもしれないが、まあ、心配することはないさ」
  心配することはないと薬研は言うが、次郎太刀の酒好きは並大抵のものではない。春霞のような幼い娘が太刀打ちできるような相手ではないはずだ。慌てて次郎太刀を諫めに行こうとした同田貫だったが、薬研に止められてしまった。
  せっかく次郎太刀のほうから春霞に喋りかける気になったのだから、放っておけばいいと言うのだ、薬研は。
  そんなものなのかと思いながらも同田貫は春霞をちらちらと盗み見ている。
  やはり、心配なのだ。
  次郎太刀に注がれた酒を、春霞は二杯、三杯と杯を重ねていく。目元をほんのりと色付かせた春霞は、いつも以上に危なっかしく見える。
  すぐそばについている加州が、次郎太刀と一緒になって春霞にまた酒を注ぐ。いったいどれだけ飲ますのだととうとう同田貫が立ち上がったところで、薬研がくい、と同田貫の着ているものの裾を引いた。
「邪魔しねぇほうがいいぜ」
  広間の真ん中はいっそう賑やかになっていた。
  次郎太刀がなみなみと酒を注いだ盃を、春霞が両手で支えながらぐいぐいと飲み干していく。聞こえてくる声に耳を傾けると、今で五杯は飲んでいるらしい。どうやら、次郎太刀が飲み比べをしようと春霞に持ちかけたらしい。
  同田貫は眉をひそめた。
  薬研のほうは涼しい顔をして、酒を飲んでいる。
「まあ、そう焦るな。これでも今夜はおとなしいほうなんだぜ?」
  まだ猫被ってら、と薬研は意地の悪い笑みを浮かべた。
  春霞が盃に酒を注ぎ、次郎太刀に飲み干すように促す。次郎太刀の盃で交互に酒を飲んでいき、十杯飲み干せたほうが勝ちということらしい。もし二人とも十杯まで飲み干すことが出来たら、その時はどちらかが音を上げるまで飲み比べを続けるというものだ。
  七杯目、八杯目と盃を重ねたところで次郎太刀が「参った」と盃を押しやった。
  春霞はその盃を受け取り、九杯目どころかとうとう十杯目をも飲み干した。それこそ、まるで水のようにゴクゴクと飲み干していった。
  と、おもむろに春霞は広間の真ん中で仁王立ちになった。
「あたしのほうが先に十杯飲み干したわよ。明日、朝一番に手入れさせてもらいますからね!」
  次郎太刀へとびしっと指を突き付けて、高らかに春霞が宣言する。次郎太刀はと見ると、艶やかな顔を青褪めさせたまま、つん、とそっぽを向いた。
「わかってるわよ、アタシが負けたことぐらい。そんなに大きな声で言わなくてもいいじゃない」
  次郎太刀なりの精一杯の強がりだろうか。むくれた顔で、徳利を恨めしそうに睨み付けている。
「そのぐらいにしとけよ、春霞。猫が剥がれる」
  楽しそうに笑いながら薬研は声をかけた。
「まだだいじょーぶよ!」
  そう言って春霞は、次郎太刀の盃を手に、薬研のところへやってくる。
「同田貫くん、楽しんでる?」
  春霞のその言い方が夏海にどこか似ているような気がして、同田貫はドキリとする。
「春霞、そろそろそれぐらいにしておけよ。同田貫が心配してるぜ」
  薬研が横から口を挟んでくる。
  本当にまだ飲めるらしい。不服そうに盃を縁側の向こうに押しやってから春霞は、同田貫のほうへと向き直った。
「ここは、桜がこんなに綺麗なのね」
  羨ましそうに春霞は中庭の景色を眺めてる。提灯に火を灯してからは、桜はいっそう美しく艶やかな緋色に色付いて見える。
「……布由の本丸では、桜を見ることもできなかった。もう焼け落ちてしまったけれど、それでも戻りたいと思う時があるの」
  酔っているのだろうか。春霞の顔を見ようとすると、ふい、とそっぽを向かれた。
「明日、次郎太刀さんが手入れを受ければ、波留の本丸の刀剣男士は全員がいつでも戦に出られるようになるわね」
  本当は出陣させたくないのだけれど、と春霞は呟く。
  だが、出陣しないわけにはいかないのだ。
  歴史修正主義者しかり、検非違使しかり、戦わなことには政府の手がかりを掴むことができない今、刀剣男士たちは否が応でも出陣しなければならなくなっていた。
「俺たちは武器だからな。戦に出るのが本分だ」
  同田貫の言葉に、春霞は躊躇いがちに口を開いた。
「……そうね」
  夏海の、あっけらかんとした突き抜けた明るさが同田貫は好きだった。ああいう性格は、わかりやすい。だが春霞は夏海ではない。春霞の何を考えているのかわからないところが、同田貫はあまり好きではない。どちらかというと、苦手な部類に入るかもしれない。
「しばらく忙しくなるわよ」
  今も、春霞が何を考えているのか同田貫にはわからない。
  ただ自分たちが今後は頻繁に戦に出なければならないことだけは、はっきりとわかった。
「願ったりだな」
  フン、と鼻を鳴らすと、横を向いたままの春霞が顔をしかめるのがわかった。
「早く元に戻ればいいのに」
  微かな声には感情もなく、それなのに同田貫には春霞の怒りが感じられた。
  何に対して怒っているのだろう。
  怪訝そうな顔をした同田貫がもう少しだけ春霞に近寄ろうとすると、さーっと東からの風が吹き込んでくる。
  葉擦れの音があたりに響き渡り、緋色のびらがひらひらと舞い飛ぶ。
「うわぁ……綺麗ですねえ……」
  表の様子に目敏く気付いた今剣が縁側へと駆けてくる。
  灯りに照らされた鮮やかな緋色が、中庭で舞い踊っている。
「本当、綺麗……」
  一瞬、怒りを忘れたのか春霞が感極まったように呟いた。
  他の者もそれぞれ動きを止めて、じっと中庭の様子を眺めている。
「こんなに素敵なお花見ができてよかったですね」
  いつの間にやってきたのか、堀川国広が春霞のすぐそばに立っていた。
「……うん」
  春霞は頷いた。
  怒りは、収まっただろうか。それともまだ怒っているのだろうか。ちらちらと春霞のほうを見ていると、薬研が隣でクスッと笑った。
「あれは怒ってるんじゃなくて、気紛れなだけだ。いちいち気にしてっと禿げるぞ」
  やはり春霞の感情はわかりにくい。同田貫はフン、と鼻息を荒くした。手元の盃に酒を注ぐと、ぐい、と飲み干す。
  吹きつける風は少し強いぐらいで、酒を飲んだ同田貫には心地いいぐらいだった。
  その夜、やっぱりこの小娘は苦手だと、そんなふうに思いながらも同田貫は夜桜見物を心行くまで楽しんだ。



(2015.8.9)


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