早駆けの馬の背から、サンジは草原の向こうへと目を凝らした。
付き従う廷臣たちを遙か遠くにうち捨てて、随分と遠くへきてしまった。
すぐ左手の木立の向こうには、青の川が涼しげな様子でバラティエ公国と東のイースト国を分断している様が見られた。照りつける太陽の光が水面に反射して、青の川はまるで王子の金糸の髪のようにキラキラと輝いている。
馬からおりるとサンジは目をすがめ、川岸へと視線を向けた。
あたりは静けさに満ちていた。穏やかさに支配されているその中にしかし、微かではあったが血のにおいが混じっている。
顔を上げて、あたりをすきなく見渡してみる。
廷臣たちがここに到着するまでにはまだしばらく時間がかかるだろう。
この血のにおいを辿っていくと、何を見つけることになるのだろうか。
足音を消し、慎重に木立のほうへとサンジは足を向ける。川から上がってきた何かは、このすぐ近くを通って木立の中に入っていったはずだ。川岸の砂地についた小さな血痕と、靴跡をサンジははっきりと目にしている。地面が湿っていることから、それ……その人物は、王子がここにたどり着くほんの少し前に、木立の向こう側へ入り込んだようだった。
血のにおいが強くなるのを感じて、サンジは再び木立の奥に目を凝らした。
「どこだ?」
呟き、行き過ぎようとした繁みの影で、何かが蠢めくのが目の端に入り込む。
「あ──?」
人だ。男が、うずくまっている。
繁みの中に隠れるようにしてうずくまっていたのは、赤子のように体を丸めて、苦しそうに息をしている──緑の髪の、男だった。
「誰か……」
言いかけて、サンジは口をつぐんだ。
今は、駄目だ。廷臣たちを遠く引き離してきたばかりの今、王子のために動いてくれる者は一人もいない。
「み……ず……」
男の掠れた声が、サンジの耳に飛び込んでくる。
「水か? 待ってろ」
そう言うと、慌てて川岸へとサンジは駆けていく。男のために、水を持っていかなければならない。川岸に膝をつき、両手で水をすくいあげる。男の元へと駆け戻ろうと体の向きを変えた途端、両手の隙間から水が流れ落ちていった。
「ああっ……」
もう一度、水をすくう。今度は慎重に、手の中の水を零さないように足早に男のいる繁みへと戻っていく。
「持ってきたぞ、水を」
そう言って手を男の顔に近づけるが、男は意識が朦朧としているのか、顔を上げようともしない。
「ほら、水だ」
語調を強めてサンジが言った途端、またしても水は、王子の手を伝い落ちて男の喉元をしとどに濡らした。
「ちっ……」
鼻を鳴らしてサンジは立ち上がった。もう一度だ。もう一度、水を汲みに行こう。男の息は苦しそうで、見ていられない。繁みをかき分け、川岸に出た時、向こうの方で馬のいななきと蹄の音が聞こえてきた。ゼフ王が、王子のために教育係として任命したカルネとパティだ。
ホッとして振り返ると、二人の廷臣たちが何事かまくし立てながら馬を駆っている姿が見えてきた。
サンジは二人に向かって大きく手を振った。
「王子……王子!」
カルネもパティも怒っているのは、王子であるサンジを心配してのことだ。サンジのすぐ傍らまで馬を走らせた二人は、転がり落ちるようにして馬からおりた。
「王子、勝手に一人で城を飛び出して行ってはなりません」
きっぱりとした声でカルネが言う。
「ああ、わかってるよ」
ツン、と顔をそらし、王子は返した。
「わかっているが、その前にそこの繁みにいる男を助けてやってくれ」
男は、二人の廷臣によって助けられた。
宮廷付きの医師は、王子が彼を見つけるのがもう少し遅れていたなら、命はなかったかもしれないと告げた。男は酷く弱っており、胸を走る袈裟懸けの傷はざっくりと肉を切り裂いていた。
「しばらくは安静に寝かせておくのがよろしいかと思われます」
医師の言葉に、サンジはホッとした。名前も知らないあの男のことが、実のところ気になっていた。あの男が目を開けるところを見たいと思い、サンジは暇を見つけては男の部屋に立ち寄った。
意識は依然として戻らなかったが、それでも数日もすれば熱が下がってきた。医術に長けた女官の一人が昼夜を問わず付きっきりで看護をした甲斐もあって、男の容態はゆっくりではあったが、少しずつ快方へと向かっていた。
「……あら、王子様」
ドアをあけてそっと部屋に忍び込んでくる王子の姿に、ベッドの脇の椅子に腰掛けていたロビンは咎めるような視線を送る。それは男がこの部屋に運び込まれて以来、毎度のこととなっていた。
「まだ、気付かないのか?」
尋ねかけるサンジの声は低く穏やかだ。いまだ意識を取り戻さない男を、王子なりに気遣っているらしい。
「ええ……ですが、熱はもうほとんど下がりました」
意識が戻らないのは、高熱が続いたからかもしれない。そう、医師は言っていた。
「どうしたら目をあけるんだろうな」
ベッドの脇に寄るとサンジは、男の顔を見下ろして呟いた。
「そうねえ……」
フフ、とロビンは小さく笑った。この年上の女官は、博識で、度胸もある。いざとなるとそこいらの男共よりよほど頼りになる存在だ。そして何よりも、ゼフ王より信頼されている。サンジは彼女の言葉に耳を傾けた。
「おとぎ話の姫君なら、王子様の口づけで目が覚めると相場は決まっているものだけど……」
神妙な顔をして、ロビンは呟く。
「試してみない?」
にっこりと微笑みかけられ、サンジは慌てて目を逸らした。
「なっ……なんで俺が、男となんか……」
「あら、そう。残念ね」
小さく溜息を吐いて、ロビンは肩を竦める。そのまま椅子から立ち上がると、王子の手を取り自分が今まで座っていた椅子へと導いた。
「少し、ここにいていただけますか? 休憩をしてきます」
そう告げると彼女は、サンジが言葉を発するよりも素早く部屋を出ていってしまった。
後に残された王子は、呆然と閉められたドアを見つめることしかできなかった。
椅子に座ったままで男をじっと見ていることにも早々に飽きてしまったサンジは、低い声で一人喋り始めた。
「なあ……お前、どうして目を、開けない?」
男の瞳を、見てみたいと思った。
濃い若草のような色の髪をしているが、瞳も同じ色なのだろうか。それとも、違う色──黒か、茶色か。茶色なら、薄い茶色か、焦げ茶色か。
「早く、目を覚ませ」
サンジはこの男と喋りたくて仕方がなかった。
宮廷には、男も女も宦官もいたが、皆、サンジよりもずっと年上の者ばかりだった。サンジと年の近い者は、少し前から王の補佐官の命によって宮廷に上がることを禁じられている。
だから宮廷にはいつも、陰気くさい年より共の臭いが立ちこめていた。
不公平だと、サンジは呟いた。
独立国家フーシャの若い王子たちは、サンジと比較的年の近いこともあって、バラティエの宮廷で一緒に暮らしたこともあった。エースとルフィの兄弟は、今頃、どんな風に育っているのだろうか。あの二人のことだから、きっと、国の中だけでなく、国の外へも好きなように出かけて行くのだろう。サンジは、彼らのことを羨ましく思った。
自分は、この宮廷からですら自由に出ることができないでいる。
こんなにも監視され、縛り付けられた不自由な生活には、嫌気が差していた。
何よりも、補佐官の目が恐かった。
あの男の目を見てしまうと、言うことを聞かずにはいられなくなってしまう。
最初は自分のことを理解してくれる男だと思っていたのに、彼は、サンジの味方などではなかった。彼は彼なりのやり方で、サンジをいいように操る力を持っていた。
何故、こんなことになってしまったのかわからない。
ゼフ王とは異なる意見、サンジを大人として扱ってくれるような意見を出してくる補佐官は、人当たりもよく、宮廷では誰からも好意的に受け入れられていた。もちろんサンジにしてもそうだ。急に年の近い若者がいなくなった宮廷では、補佐官が自分にいちばん年の近い者となった。ちょうど、ルフィがシャンクスを年上の兄のように思い慕っていたのと同じように、サンジもまた補佐官を年の離れた兄のように慕うようになっていった。
そうして、気付いた時には手遅れになってしまっていたのだ──
ベッドに肘をついたサンジは、つまらなさそうに男の端正な顔を覗き込んだ。
ここしばらくの熱で、男の唇はかさかさに乾いている。水差しを手に取ると、サンジはロビンがしていたように、そっと男の唇を湿らせてやった。
休憩に出たロビンは、いつまで経っても戻ってくる気配がない。
もしかしてロビンが戻ってくるまで自分はここにいなければならないのだろうか? サンジはベッドの縁に頭を乗せると、恨めしそうに男のごつごつとした手を眺める。
自分の白くてほっそりとした弱々しい手とは違い、男の手は骨張っていて手のひらや指に皮膚が硬くなった部分があった。あまり綺麗な手ではないが、宮廷に仕える刀鍛冶や馬丁の手と似たような手をしているのはわかった。ならば、身分はそう高くはないのだろう。せいぜいが剣士がいいところだろうか。
それにしても、この傷はどこで負った傷なのだろうか。
あれから、パティとカルネがあたりを調べたところ、川向こうの岸辺に何人かの男の死体が転がっていたらしい。
この男が、殺したのだろうか。
もし、そうだとしたら、いったいなんのために?
ぼんやりと考えているうちに、サンジはいつしかうつらうつらと眠り込んでいた。
静かな部屋の中でサンジは、補佐官の目を逃れて久しぶりに穏やかな時間を手に入れることが出来たのだった。
to be continued
(H19.10.23)
(H26.9.23加筆)