その頃、継ぎの王子は病弱だと、そんな噂がバラティエ公国のそこここでまことしやかに囁かれるようになっていた。
ちょうど、王の補佐官が新たに任命された頃のことだ。
当時、公国には何の不安もなかった。
ゼフ王の統治の下、国は栄え、臣下たちは少々乱暴なところもあったが腕っ節が強く気のいい猛者揃いだった。継ぎの王子サンジはゼフ王の孫にあたったが、幼い頃から利発で、乗馬を得意としていた。王子と歳の近い子どもたちはこぞって宮廷へ呼び寄せられ、王子と共にゼフ王の庇護の下、大切に育てられていた。
憂うことのない公国が、未来へと真っ直ぐに続いている。
誰もが、そう思っていた。
そんな輝かしい未来が音を立てて崩れていくのに、日数はそうかかりはしなかった。
継ぎの王子は未熟だった。新しくやってきた補佐官の手玉にとられ、いいように操られるまではあっと言う間だった。
気付けば蜘蛛の糸に絡め取られた獲物のように、サンジは堕落しきった生活にまみれてしまっていた。
ジャラジャラと耳障りな金属音がした。
サンジはのろのろと目を開けると、腕を動かそうとする。
体の節々が重怠い痛みでいっぱいだった。
特に下半身から下は感覚がないほどで、足がどうなっているのかすらサンジにはわからないほどだった。
腕を動かそうとすると、また、金属の擦れ合わさる音が耳に響く。
ゆっくりと顔を上げると、なかなか開かない瞼をしっかり見開いて、正面を見据える。皺だらけのシーツの上には、血と精液の入り混じった染みが点々とついている。饐えた青臭いにおいが鼻を刺激し、サンジは胃の中から込み上げてくる酸っぱいものに顔をしかめた。
胃の中なら、夕べから何もないはずだ。
どうなってしまったのかわからないが、最近サンジは、自分の体が自分のものでないような妙な感覚を覚えることがよくあった。夢なのか、現実なのか、それすらもわからずに体にこもった熱をこらえて幾晩も夜を過ごし、気付けば補佐官の差し出す薬に頼るようになっていた。薬がない夜には、体の熱はいっそう高くなった。火照りを抑えるためにサンジは宮廷の中をさ迷い歩き、いつしか補佐官にその熱を処理してもらうまでになっていた。
思えばその時すでにサンジは、正しい判断ができなくなっていたのだろう。
自分の過ちに気付かずにサンジは、あっけなく補佐官の手に墜ちてしまった。誰も……サンジ自身ですら気付かないうちに。
「ぅ……」
喉の奥から干乾びた呻き声が洩れた。
腕から肩にかけての鈍い痛みに、サンジはぞくりと背中を震わせる。
いった自分は、どうなってしまったのだろう。
浅い息を繰り返し、吐き気がおさまったところでもう一度目を見開いた。
天蓋のついたベッドの柱から長く伸びた鎖が、自分の手首に絡みついている。痛みの原因はこれだったのかと、サンジは自由にならない腕を見た。
一糸纏わぬ姿のまま、鎖に繋がれた王子。血と、精液と吐瀉物にまみれ、なんと惨めな姿を晒しているのだろうか、自分は。
唇をきりりと噛み締め、サンジは自由にならない腕をくい、と引き寄せようとする。
ここが、住み慣れたバラティエの宮廷にある一室だとは思いたくもなかった。
信じたくなかった。
「だ…れ、か……」
喉の奥から必死になって声を絞り出したが、微かな囁きにしかならなかった。ほとんど何も言わないうちからサンジは咳き込み、そのため腕に巻き付いた鎖がきりきりと肉に食い込んだ。
鎖の痛みから逃げようと体を捩ると、膝立ちになっていた足がヨロヨロと崩れた。と、同時に鎖のジャリジャリという鈍い音がして、さらに腕を引っ張られる形になってしまう。
もがくとそれだけ、腕の痛みは増す。わかっているが、痛みから逃れたい一心でつい、もがいてしまう。
「ぅ……あ、あ、あ──」
ジャラ、と耳障りな鎖の音が、サンジの耳の奥で鳴り響く。
目の前が白くなったり黒くなったりして、意識が途切れ途切れになっていく。
腕の痛みを堪えながら咳き込むと、胃液がこみあがってきた。
「ぐっ……げ、えぇ……」
呼吸ができないほど息苦しくなり、唾液と胃液の入り混じったものが何度もこみ上げてきてサンジの口の回りを汚した。
どれほどのあいだ、自分は意識を失っていたのだろうか。
次にサンジが目を覚ますと、自室の清潔なシーツにくるまれて眠っていた。
目を開けて、サンジは何か言おうとした。
ベッドの脇には女官長のロビンがいた。あたりの薄暗さが気になったが、尋ねるだけの気力もない。
「まだ起きなくてもいいわ。さあ、これを飲んで」
サンジが口を開けると、ロビンは手にした水差しをサンジの唇にそっと押しあてて言った。
「お飲みなさい」
優しいが、ロビンの声には有無を言わせぬ響きが含まれていた。サンジは吸い口から水差しの液体を少しずつ喉の奥へと流し込んだ。
ドロリとした甘い蜂蜜のような液体が、口の中に流れ込んでくる。
「大丈夫。あなたは何も心配しないでいい。ゆっくり休むのよ」
穏やかな声で囁かれ、サンジは目を閉じた。
蜂蜜とほのかなブランデーの香りが、口の中に広がっていく。
ロビンの指が、サンジの髪を優しく梳いてくれた。もうずっと以前、まだサンジの母が生きていた頃に、よくこうして髪を梳いてもらった。恐い夢を見た夜は、穏やかな低い声で「大丈夫よ」と囁いてもらうと、何故だか安心することができた。
サンジが寝入ってしまうまで、ロビンは側についてくれていた。
今日、意識がないサンジの体を見て、ロビンはだいたいの大まかなことは理解したかもしれない。彼女は頭のいい女性だから滅多なことでは誰かに話すことはないだろうが、ゼフ王に対してはどうだろう。
それ以前に、いったい何人の者がこのことを知ったのだろうか。
目が覚めたら、ロビンに確認をしなければ。そう思ったものの、意識はどんどん暗闇の中へと落ちていってサンジは再び眠ってしまっていた。
目が覚めなければいいのにと、サンジは思った。
ベッドの中で、痛む体を抱えてサンジは丸くなっている。
部屋から一歩でも外に出ると、そこには補佐官がいた。
補佐官のことは、自分のことを理解してくれる年の離れた兄のような存在だと信じていた。
裏切られたのは、ほんの十日ほど前のことだ。
補佐官の部屋で書類整理の手伝いをしていたら、急に立ち眩みがした。くらりと傾いだ体を、補佐官の力強い腕に抱き留められたところまでは覚えている。が、そこから先の記憶は、飛んでしまっている。
意識を取り戻した時にはサンジの体は血と精液にまみれていた。
何があったのだろうかと思うよりも先に、痛みがやってきた。
補佐官はあの時、ゼフ王に何と言って立ち回ったのだろうか。
考え出したらキリがないことはわかっている。補佐官から逃げられそうにないことも、何とはなしにサンジは気付いていた。あの男は、駄目だ。あの男からはちょっとやそっとのことでは逃げられない。逃げるのなら、全力で逃げなければならないだろう。サンジの持てる全ての力で逃げたとしても、うまく逃げられるかどうかはわからない。すべてのものを犠牲にして、サンジが大切に思う人々をも巻き込んで、それでやっとどうにか逃げられるかもしれない。
だが、いったいどこへ?
ベッドの中でサンジは、唇を噛み締めた。
どうにもならない現実が、目の前に迫っている。
逃げられない現実は、もうすぐ、そこに。
ぎゅっと閉じた目尻の端から、思わず涙がポロリと零れ落ちた。
誰に頼ればいいのだろう。
王にこんなことを話したりしたら、それ見たことかと言われるに決まっている。自分が、とてつもなく浅はかで考えなしだったことが今、はっきりとわかった。ゼフに言われるまでもなく、自分は未熟だったのだ。補佐官の言葉に乗せられて、自分は何でもできると高を括っていた。
ゼフに頼ることはできない。パティもカルネも駄目だ。ロビンだって、何かとサンジの味方をしてはくれるものの、王に対する忠誠は人並みにあるだろう。彼女の心一つで、今回のことをゼフに進言するかもしれない。
自分が生まれ育った宮廷だというのに、ここには自分の味方になってくれる人間が一人としていないことが恐ろしかった。
自分は一人きりなのだ。
手を伸ばして、助けを求めることのできる人ひとり、ここにはいない。
なんて孤独で寂しい人間なのだろう、自分は。
溜息と共に微かな嗚咽が洩れた。
カーテン越しに差し込んでくる陽の光から顔を背け、その日一日、サンジは鬱々とした日を過ごした。
それ以来サンジの背後には、補佐官の影がちらつくことになる。
to be continued
(H19.11.25)
(H26.10.25加筆)