夕暮れの風は穏やかで、頬に心地よかった。
獄寺はぼんやりと眼下の景色を眺めている。
丘の上から見下ろした町並みはまるで宝石箱を引っくり返したようで、どことなくよそよそしいきらびやかさに煌めいている。
綱吉ならきっと、ただ綺麗だと一言、素直に口にするだけだろう。獄寺のように捻くれたものの見方はしないはずだ。
車の後部座席へと、獄寺はちらりと視線を馳せた。
このところ少し疲れているのではないだろうか。綱吉はいっそう華奢になった体に毛布を巻き付けて、座席で眠り込んでいる。あどけない寝顔をしているものの、どことなく顔色は悪い。
くわえていた煙草を足下に投げ捨てると、獄寺は深い溜息をついた。
綱吉には悪いが、そろそろ時間だ。
できることならもう少しゆっくりと休んでもらいたいところだが、そうもいかなかった。 大股で車に近付くと、ドアをそっと開ける。
「十代目……そろそろ時間です、十代目」
静かに声をかけると、のろのろと綱吉は目を開けた。
「ああ……獄寺君、今、何時頃かな?」
舌足らずな声で、綱吉が尋ねる。思っていたとおりの眠たげな声に、獄寺の眉間に皺が寄る。
「七時半です。そろそろ出発しなければ、八時からの会議に遅刻します」
獄寺が告げると、綱吉はうえぇ、と呻き声をあげた。
「オレ、まだここの景色ぜんぜん見てないよ」
上目遣いに綱吉は、獄寺を見つめた。
「もうちょっと……ダメかな?」
ねだるような眼差しに、獄寺はうっと言葉を詰まらせる。できることならこのまま綱吉を休ませてやりたかった。疲れがはっきりと出たままの状態で、この後の会議に出席させるのは酷なようにも思えた。
「そうですね……」
考えるふりをしながら獄寺は、ジャケットの内ポケットから煙草を一本、取り出す。
「ね? お願い、あと少しだけ」
と、上目使いに頼まれると、どうにも断ることができない獄寺だった。
「じゃあ……これを吸い終わるまででは、いかがですか?」
獄寺が尋ねると、綱吉は嬉しそうに頷き、車から飛び出してきた。
煙草をくわえたままの獄寺にしがみついたかと思うと背中に腕を回し、綱吉はぎゅっと煙草の香る体を抱き締めた。
「ありがとう、獄寺君」
ちょうどライターを探していた獄寺は両手を頭上に掲げると、驚いたように綱吉を見つめた。
抱きついてくる体から、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。
この香りがコロンではないことを獄寺は知っている。
子どもっぽくふんわりとにおう甘やかな香りは、綱吉が中学生のころからのものだ。きっと、彼の体臭なのだろうと獄寺は思っている。
鼻先をくすぐる猫毛からも甘い香りが仄かに匂ってくる。
「ありがとう」
しがみついて離れようとしない綱吉が、小さな声で告げる。
「これぐらいのことしか、俺には……」
言いかけた獄寺の唇をやんわりと指先で押さえると、綱吉は微かに笑った。
「そんなことないよ」
悪意のない笑みを浮かべた綱吉は、獄寺が口にくわえたままの煙草を指でつまんで取り上げた。
「これは、オレの休憩が終わるまでは没収しておくから」
そう言ったかと思うと綱吉は、素早い動きで取り上げた煙草を自分の上着のポケットに落としこむ。
「なっ……」
うろたえる獄寺の体を、綱吉はさらにぎゅっと抱き締めた。
「だって、獄寺君がこの煙草を吸い終えたらオレの休憩は終わりなんだろ?」
そう言われて獄寺は、ああ、と呻き声をあげた。
しがみつく綱吉の癖のある髪が、獄寺の鼻先でフワフワと揺れている。
顔をしかめると獄寺は、ふぅ、と溜め息をついた。
これはきっと、会議に出たくないに違いない。
綱吉の気持ちがわからないでもない。このところ、九代目の頼みとやらで綱吉は海外を飛び回っていた。できる限り獄寺も同行するようにしていたが、お互いに忙しく、思うように顔を合わせることのできない日もあった。疲れているのはここしばらく東奔西走していた者なら皆同じだったが、今日の会議には同盟マフィアのお偉方たちも出席することになっている。この時間からの会議のキャンセルは難しいだろう。
「十代目……」
恨めしそうに獄寺が呻くのに、綱吉は嬉しそうに声をあげて笑った。
二人で、夕暮れの景色を心ゆくまで眺めた。
そろそろ行かなければと獄寺が口を開きかけると、それよりも早く綱吉は車に乗り込んだ。
「本当は別の方法も考えてたんだけど……」
運転席に乗り込んできた獄寺の後ろ姿に、綱吉はポソリと呟いた。
「へえ。どんな方法っスか?」
何気なく獄寺は尋ねかける。
バックミラー越しに映る綱吉は、無邪気な笑みを口元に浮かべていた。
「獄寺君をシートに押し倒すとか、ホテルに誘うとか、いろいろ」
そうしたら、会議を欠席することは無理でも、遅刻して行くことができるからと綱吉は悪びれた様子もなくさらりと告げる。
咄嗟に獄寺は、自分の口元を手で覆っていた。
「な……じゅ、…それ……」
言うべき言葉が見つからない。
どうしたものかと頭の中を必死に探るが、ひとつとして気の利いた言葉が出てこないのだ。
「さ……誘ってくださってるんですか、もしかして?」
躊躇いがちに獄寺が尋ねると、綱吉はムッとして唇を尖らせた。
「もしかしなくても誘ってるんだけどね」
確信犯だと、獄寺は思った。自分が綱吉にめっぽう弱いことを理解した上でこの人は、こういうことをさらりと言ってくる。あんまりだと獄寺は思う。理性と欲望とに身を引き裂かれそうになっているというのに、綱吉は素知らぬ顔をして獄寺を煽り立てる。このままでは、いつか自分は憤死してしまうのではないだろうか。
「だけど獄寺君、そういう時になると気が付かないって言うか、仕事一徹になっちゃうって言うか……」
最後まで言わずに綱吉は、はぁ、とわざとらしく溜息をついた。
「……申し訳ありません、十代目。気がつきませんでした」
がくりと肩を落とした獄寺は、蚊の鳴くようなか細い声で返した。
「うん。いいよ、別に」
何となくそうだろうなと思っていたんだと、綱吉は言い足した。だからあまりあからさまに誘いかけることはしなかったのだ、と。もし綱吉のほうから誘っているのだということが獄寺にわかってしまったら、それはそれで恥ずかしくてたまらないのもまた事実だ。だから、獄寺君は鈍いくらいでちょうどいいんだよと綱吉は言った。
モヤモヤとした気持ちのまま、獄寺は車を走らせた。
少し飛ばし気味に車は走り、ギリギリ会議に間に合う時間に綱吉は、会場となっているホテルの一室に飛び込むことができた。
我ながらなかなかのハンドル捌きだったと獄寺は思う。
控え室で会議が終わるのを待ちながら、獄寺はぼんやりと周囲を見回した。他ファミリーとの情報交換に勤しんでいる者や、単に雑談で時間を紛らしている者もいる。
獄寺は一人で煙草をふかしている。情報交換の必要があれば、あらかじめ何らかの指示が綱吉から与えられるはずだが、今回はそういった指示はなかった。昔ならともかく、今の獄寺はそのあたりのことをわきまえるだけの余裕もある。もう、中学生の頃のような無知な子どもではないのだから。
それよりも──と、獄寺は勢いに任せてスパスパと煙草をふかした。
先ほどの車の中での綱吉の言葉が気にかかる。
会議に遅刻するため、そしてあわよくばすっぽかしてしまうために獄寺を利用しようとしていたのだ、綱吉は。
いいように利用されるところだったわけだが、それでも構わないと思う自分がいる。これでは守護者として失格だということはわかっているが、正直なところ、嬉しかったのだ、獄寺は。
そんな些細なことででも綱吉が自分を必要としてくれていることがわかって、それだけで獄寺は嬉しくて嬉しくて仕方がない。
ともすれば口元がだらしなく緩んでくるのをこらえるため、獄寺は眉間に大きな皺を寄せてスパスパと煙草を吸い続けた。
会議を終えた綱吉は、げっそりとした表情で会議室から出てきた。
「お疲れさまでした、十代目」
獄寺が声をかけると、綱吉は丸めていた背筋をピンと伸ばし、にこやかな笑みを浮かべた。
「待っててくれてありがとう、獄寺君」
足早に獄寺のほうへと近付きながら、綱吉は声をかけてくる。
安心したような綱吉の表情を目にすることができただけで、獄寺は満足だ。こうして待機していた甲斐があるというものだ。
「いえ、これぐらい当然っスよ、十代目」
そう獄寺が返すと、綱吉は控え目にそんなことはないと言った。
「それより、お腹すかない? オレ、さっきから……」
言いかけた綱吉の腕をぐい、と引いて獄寺は、ホテルの廊下を歩きはじめた。
「獄寺君?」
怪訝そうに綱吉が尋ねても、獄寺は何も答えない。ただぐいぐいと強い力で腕を引き、ホテルの廊下を大股に歩いていくだけだ。
「ねえ、獄寺君?」
綱吉の声が聞こえていないわけではない。ただ、夢中になっているだけだ。綱吉を一刻も早くこの場所から連れ去りたくて、聞こえないフリをしているだけなのだ。
「メシ、食いに行きましょう、十代目」
噛み締めた歯の間から、ようやく獄寺はそれだけを言葉にすることができたのだった。
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