執務室の窓を開けると、風に乗って甘い香りが漂ってきた。
懐かしくも甘い香りに、綱吉は目を閉じて、流れ込んでくる空気のほうへと顔を向けた。 爽やかな風に乗って流れてくるのは、甘い甘い香り、スイカズラの香りだ。
目を開けると綱吉は、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
「今日はもう終わりにしようかな」
リボーンもいないし──と、綱吉は小さく呟く。
スイカズラの甘い香りに誘われるようにして、綱吉はふらりと外に出た。
朝から失敗続きで散々リボーンに絞られた後だったからか、屋外の空気は特に澄んでいるように感じられる。
ボンゴレの屋敷の中庭をぐるりと回って、綱吉はスイカズラの花を探す。白くて小さなあの花は、どこに咲いているのだろうか?
小さくて白い花だ。甘ったるい濃い香りは、時にむせかえりそうになることもある。花には興味のない綱吉だが、それでも、この芳しい香りだけは絶対に間違わない自信がある。
屋敷の裏手へと続くアーチを横目に、綱吉は庭を散策する。
昨日も確か、このあたりでスイカズラの花を探して歩いたが見つからなかった。
「絶対にこのあたりだと思うんだけどな」
呟いて、小さく溜息をつく。
どうしても綱吉は、スイカズラの花を見つけたかった。
絶対にこのあたりに咲いているのだということは、あたりの空気からもはっきりと感じ取れる。ただ、どこで咲いているのかがわからないだけだ。
「絶対に、見つけてやる」
そう言うと綱吉は、アーチの向こう、少し奥まったところにある庭園へ続く石畳へと足を向ける。
綱吉がボンゴレの屋敷を受け継いで、守護者たちとともに生活をするようになってまだ日も浅い。屋敷のすべてを見て回ったわけではないし、どこになにがあるのか、綱吉にはいまだにわからないような状況だ。
もっとも、雲雀や獄寺はもうすっかり屋敷の配置を覚えているらしいのだが。
キョロキョロとあたりを見回しながら、綱吉は庭園へと歩いていく。
黄色い花が咲いている。小ぶりのバラの花で、花びらの外郭はオレンジがかった赤い色をしている。可愛らしい花だなと思いながらも目は、スイカズラを探している。
甘ったるいスイカズラのにおいは、バラの花によって薄められている。これではどこから香りが漂ってくるのかわからないと、綱吉は無意識のうちに唇を尖らせる。
早くしないと、獄寺が任務から戻ってくる。
朝から綱吉が失敗続きだったのは、恋人であり右腕である獄寺がいなかったからだ。もうあと数時間もしないうちに獄寺は任務から解放され、この屋敷に戻ってくる。
それまでになんとしてでも、スイカズラの花を見つけよう。
そう、綱吉は思った。
庭園の中央には、小さな東屋があった。
ベンチで眠っているのは、あれはきっと雲雀だ。すぐ近くの木陰にヒバードがいる。
こんな時にと思いながらも綱吉は、そっと東屋の周辺へと視線を向ける。
甘い香りはいったいどこから漂ってくるのだろうか。
スイカズラの花は、どこで咲いているのだろう?
気配を潜めて綱吉は、そっと東屋から離れた。腕時計にちらりと視線を落とすと、もうそろそろ獄寺の戻ってくる時間だ。
早く見つけなければと、綱吉の足取りも自然と速くなる。
庭園をぐるりと一回りし、垣根を眺め、アーチを潜った。スイカズラはどこだろう。
甘いにおいは近く、芳ばしい香りが風に乗って綱吉の元へとなんども届けられている。
今日が誕生日の獄寺にも、このスイカズラの花の香りを届けたかった。
甘くて濃厚な香りだが、綱吉はこの香りが大好きだった。
幼い日の想い出の花だと言ったら、獄寺はわかってくれるだろうか?
アーチを潜り抜け、綱吉は石畳を足早に進む。
スイカズラの香りがまた、綱吉の鼻先をくすぐっていく。
いったいどこで咲いているのだろう。
ふと目を凝らすと、垣根の向こうに噴水池が見えていた。そう言えばあちらのほうへはまだ、行っていない。
スイカズラは、咲いているだろうか?
今度は赤いミニバラのアーチを潜って綱吉は、噴水池へと駆けていく。
ここになかったら、もしかしたらスイカズラの香りは綱吉の間違いかもれない。だけど確かに、スイカズラの香りがしているのだ。夜も、昼も、風に乗って綱吉の周囲へとあの甘い香りを運んできている。
「ここになかったら、どうしよう……」
呟いた途端、怖くなってきた。
自分はもしかしらた勘違いをしていただけなのではないだろうか。
獄寺の誕生日プレゼントを用意すると言いながら、その実、面倒臭がって用意をしなかっただけなのではないだろうか。
息を潜めて綱吉は、そっと噴水池の周囲を歩いた。
甘いにおいがどんどん、どんどん、強くなっていく。
やっぱりスイカズラはこのあたりで咲いていたのだと思った時、すぐ背後で人の気配がした。
「ただいま戻りました、十代目」
かしこまった獄寺の声に、綱吉はドキリと体を竦めた。
と、同時に、なんでこんな時に戻ってくるのだという思いでいっぱいになる。
二週間ぶりに顔を合わせるのだから綱吉とて嬉しくないはずがない。とは言え、プレゼントが足りないのはなんだか愛情が不足しているような感じがして、悔しい。
無理に笑みを浮かべてくるりと振り返ると綱吉は、勢いをつけて獄寺の胸の中へと飛び込んでいく。
ぎゅっと背中を抱き締めようと腕を回しかけたところで、やんわりと肩を押しやられた。いつもなら、こちらが腕を伸ばすよりも先にぎゅっと抱き締めてくれる獄寺が、だ。怪訝そうに獄寺の顔を見上げると、悪戯っぽく彼は微笑んだ。
「お土産を持って帰ってきました」
「お土産?」
綱吉は首を傾げた。いったいなんだろう。
綱吉が黙っていると、獄寺は端正な顔を近づけ、尋ねてきた。
「見たいですか?」
少しだけ意地の悪い声に、綱吉は間を置かずして頷いた。
「うん。見たい」
綱吉がそう言うと、後ろ手にしていた左手を獄寺はすっと差し出してくる。
手には、真っ白なスイカズラの花が握られていた。
「あっ!」
綱吉は声をあげた。
「これを、十代目。屋敷の周囲の生け垣に咲いていたので、摘んできました」
ああ、そうかと綱吉は思う。
あの甘い香りは、てっきり中庭から漂ってくるものだとばかり思っていた。まさか屋敷の周囲の生け垣に咲いているとは、考えてもみなかった。
ハハ、と笑うと綱吉はスイカズラの花を受け取った。
その瞬間、幼い日の思い出がふわりと脳裏に蘇ってくる。
思い出の中の二人は下校の途中だった。
懐かしい制服に学校指定の鞄を持ち、歩いている。
夏休みが明けてすぐの学校だから、帰りは汗だくでダラダラ歩くのが常だった。
わざわざ遠回りをして公園の前を通りかかると、植え込みの向こうから甘い香りが漂ってくる。
スイカズラの甘い香りに誘われるようにして、二人は公園に立ち寄った。
垣根には、白い小さな花が点々と咲いていた。ほっそりとした花びらは清純な、白。濃く甘い香りは魅力的で、綱吉は手を伸ばすと花をひとつ、摘み取った。
がくを外して花びらの根本のほうに口をつけ、ジュッと勢いよく吸うと、甘い香りが口の中に広がっていく。
隣にいる獄寺をちらりと見ると、彼も綱吉と同じようにスイカズラの蜜を吸っているところだった。
「甘いね」
綱吉が言うと、獄寺は照れ臭そうに頷いた。
「甘いっスね」
日中の気温はまだ高く夏のように暑かったが、時折、爽やかな風が吹いてくる。
蜜を吸った後の花を投げると、一瞬、風にふわりと乗って、それからフラフラと落ちてくる。それが雲の欠片のように見えて、わけもなく嬉しかったことを綱吉は覚えている。
スイカズラの甘い香りは、綱吉にとって幼い日々の象徴でもあった。
「これ……」
言いかけた綱吉に、獄寺は笑いかける。
「昔、一緒に蜜を吸ったことを思い出したんです。学校の帰りに二人で、並盛公園に寄り道して……」 もしかしたら獄寺も、綱吉と同じ日のことを思い出していたのかもしれない。
どこか照れ臭そうに語る獄寺に、綱吉は手にしたスイカズラの花をひとつ、ちぎって渡す。
「はい、獄寺君」
自分の分の花をちぎると綱吉は、がくを指で剥いた。それから花びらの下のほうを口にくわえる。ちらりと獄寺を見ると、獄寺も同じように花を口にくわえていた。
視線が合うと、獄寺の淡い緑色の瞳がすっと細くなる。まるで猫のようだと綱吉は思う。 ニヤリと、子どものように笑ってから蜜を吸った。ジュッと勢いよく音を立てると、濃く甘い蜜が口の中いっぱいに広がっていく。
横目に見ると、獄寺も同じように蜜を吸っていた。
「やっぱり甘い……」
蜜を吸い終えた花を口からはなすと、綱吉は呟いた。
「そうっスね。甘すぎです」
だが、綱吉が獄寺にプレゼントしようとしていたものは、まさにこれだったのだ。
「もうひとつ、はい」
そう言って、獄寺の口元へと花を持っていく。
「や、もういいですよ、十代目」
甘すぎて……と、獄寺が言い訳をしようとするのも構わずに、綱吉はその唇に花をくわえさせた。
困ったように、獄寺は綱吉に視線を送る。
綱吉はニンマリと、悪戯が成功した子どものように嬉しそうに笑みを浮かべてから、素早く獄寺の唇に、自分の唇を近づけた。
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