出張で離れたまま夜を過ごすことなんて、しょっちゅうあることだ。
そう珍しいことではない。
溜息をつきながら綱吉は、そう自分に言い聞かせる。
獄寺の誕生日だというのに、当の本人は急な出張で出かけていてここにはいない。
なんてタイミングが悪いのだろうと、綱吉は足下のスリッパを軽く蹴飛ばす。コン、と乾いた音を立ててスリッパは、フローリングの床に転がった。
「なんで出張ばかり入れるんだよ」
ポツリと呟く。
出張の話を持ってきたのは、雲雀だ。
あれはきっと嫌がらせだったのだろうと綱吉は思う。このところ忙しくてディーノと会えないのを恨みに思って──少し前から雲雀は、ディーノと付き合っているとかいないとか、そんな噂話が綱吉の耳に入ってきている──、わざわざ獄寺の誕生日に出張をぶつけてきたのだ。
そんなことに気付かない獄寺ではないはずだが、綱吉のためならと、文句を言うこともなく出張に出かけたのが今日の昼過ぎのこと。
いつもならここまで綱吉が拗ねることはない。そんなに心の狭い人間ではないと自分でも思っているが、今朝方まで出張でいなかった人間に休む間も与えず別の出張を入れるなんて酷すぎやしないかと綱吉は密かに憤っていた。
正直なところ、独り寝が寂しい歳でもないというのに、獄寺のいないベッドは冷え冷えとして寒くて、夕べはなかなか寝付くことができなかった。
寝不足気味のボーっとした頭で出勤したらまず間違いなくリボーンにそこのところを指摘されるだろう。そう思って無理に笑顔を作って出勤していたというのに。
憂鬱なことこの上ない。
もうひとつ溜息をつくと、綱吉はのろのろと机の上の書類に目を通し始めた。
落ち着かない気分のまま一日を過ごした。
獄寺のいない一日は長くて、味気ない灰色の一日だった。
早く戻ってきてくれればいいのに。
獄寺が帰ってきて、「ただいま」と言ってくれたなら、それだけで綱吉の世界は色に満ちあふれたあたたかな世界にかわる。
「早く戻ってくればいいのに」
ぷう、と頬を膨らませ、綱吉は呟いた。
すぐに戻ってることができるような類の出張ではないことは、最初からわかっていた。わかっていて獄寺は、綱吉のためになることならと出かけて行った。
悔しかった。
自分はここにいて出かけて行くことはできないというのに、部下たちを送り出さなければならない自分の不甲斐なさが辛かった。
なんとも冷たい仕打ちではないかと雲雀を恨むこともできたが、綱吉はそうはしなかった。雲雀はと言うと、ボンゴレ基地の防衛網の強化懸案事項で多忙を極めている。そこへもってここ一ヶ月ほど、同盟マフィアの間でいくつかの小競り合いが続いている。その仲裁役を買って出たディーノも忙しいらしく、もしこの二人が付き合っているのだとしたら、私的な会話をする時間も取れているのかどうか怪しいところだ。
「獄寺君……」
呟き、ベッドに腰をおろす。
獄寺の声を聞けるだけ、自分はまだ恵まれている。
夕方、獄寺のほうから電話がかかってきたのだ。今夜中に戻れそうだと、そう報告をしてきてくれたのだ。ずっと離ればなれでいるのではない。たまの出張ぐらい、もっと大きな気持ちで受け止めないでどうするのだと、綱吉は自分に言い聞かせる。
こんなにも自分は、恵まれているのだから。
夕方、電話をしてきた獄寺を思い出して綱吉は、唇にそっと指で触れてみる。
電話中の獄寺の側には、きっと誰もいなかったのだろう。
いつもよりずっと優しくて、甘い声で、「今夜中に、必ず戻ります」と囁かれた。腰が砕けてしまいそうな声に、綱吉は年甲斐もなくドキドキしてしまった。
まだ明るい時間からあんな声で囁かれたら、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
たとえその時、その場に綱吉以外の誰もいなかったとしても、だ。
受話器を握る綱吉の手が震えたのは、今夜、獄寺に抱かれるだろう自分を思ってかもしれない。
「──遅くなっても待ってるから」
そう告げた声は微かに震えていた。誘っているように思われなかっただろうか?
獄寺は「わかりました」とだけ返してくれた。
それから、チュ、とキスの音を立ててから、獄寺からの電話は切れた。
あれは……やはり今夜のことを示唆しているのだろうか。獄寺も、綱吉と同じように抱き合いたいと思ってくれているのだろうか。
もしそうなら、嬉しいと綱吉は思う。
同じ気持ちでいられることは、幸せなことだ。
気持ちが通じているのだと、そんな些細なことで実感することができる。
あの、キス。
自分もキスを返したかった。
受話器越しでもいいから、気持ちを伝えたかった。
ベッドに転がったまま、ウトウトとしていたらしい。
目を開けると、もうすっかり夜も遅い時間になっていた。
ノロノロと起きあがるとキッチンに足を向ける。ホットミルクを作ってブランデーをほんの少し垂らした。獄寺のためにコーヒーの用意だけすると、リビングへ向かう。
帰りを待つなら、リビングのほうがいい。
ドアを潜ったところで時計に目をやると、ちょうど日付がかわったところだった。
「あ……お祝いの言葉、昨日中に言えなかったな」
ポツリと呟いた言葉が宙に浮き、不意に寂しさが込み上げてきた。
ソファに腰をおろすと、手にしたマグカップを両手で包み込む。
「獄寺君……」
あのキスのせいで、綱吉の体は夕方からずっと熱っぽい感じがしている。
獄寺に触れられたくてたまらなくて、体が疼いて仕方がない。
「早く帰ってきてくれないと、困るよ」
ホットミルクに口をつけると、甘い香りが鼻をくすぐる。気持ちが落ち着くような感じがして、綱吉は一口、ミルクを飲む。
甘くて優しいかおりがしている。
獄寺に側にいて欲しいと、体が疼いている。
マグカップをテーブルに置くと、綱吉は唇に指を当てた。
獄寺の唇が触れることはなかった唇が、キスを欲している。獄寺のキスを待ち望んでいる。
早く、早く、と、気持ちばかりが逸りそうになる。
まるで十代のヤりたい盛りの子どもみたいだと、少しだけ綱吉は笑った。
キスの代償は、キスで返してもらわなければ。
だけど。すぐそこのドアを開けて獄寺が帰ってくるまでは、ホットミルクで我慢しようと綱吉は思ったのだった。
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