唇を見ていた。
男の顔は見たくはなかったから、唇だけをじっと見つめていた。
男の唇が上下し、言葉を紡ぎだす。
穏やかな声に、ともすれば気持をさらわれそうになる。
唇が動く。言葉は、優しくて、甘い。
信じてしまってもいいのだろうか。この言葉を信じて、身を任せても大丈夫だろうか?
不意に唇の動きが止まり、ゆっくりと男の顔が近付いてくる。周囲の音という音が途絶えた。何も聞こえない。
静まり返った部屋でフゥ太は、男のキスを受ける。唇に軽く触れるだけのキスだ。
あたたかい。
男が生きた人間であることを示す、肌のぬくもり。唇をかすめていく吐息。産毛の生え際まではっきりと認識できるというのに、彼はここにはいない。
幻でしかないのだ。
「いつまで僕に触ってるんです」
ムッとした表情でフゥ太が言う。
押しのけた体は身長の割にほっそりとしているものの、力強さを感じさせた。まるで本当にこの場に存在しているかのようだ。
「おや。せっかくの逢瀬に無粋なことを言う子だね」
わずかにしかめた顔はしかし穏やかで、優しそうだ。
「誰が会いたいなんて言ったんです?」
軽く睨みつけるとフゥ太は、男の足を踏みつけた。
男の小さな呻き声に満足して、フゥ太は笑った。
踏みつけた足の感触も生々しい。
現実にここにいるのは自分一人なのだと思うと、寂しくてたまらなくなるのは何故だろう。
彼は、すぐ目の前にいるというのに。
「さあ、フゥ太。僕にキスをしてください」
請われても、むなしいだけだ。
「復讐者の牢獄へ帰る時間ですよ」
なに食わぬ顔をしてそう返してやると、彼は楽しそうにクフフと笑った。
「まだ、大丈夫です。夜が明けるまで一緒にいてあげますよ、フゥ太君」
そう言って骸は、喉を鳴らしてまた笑う。
一緒にいてくれだなんて、誰も言っていないのに。ムッとした表情を作るとフゥ太は、骸から逃げるようにして体を離す。
「お帰りはあちらです、六道骸」
ドアのほうを指さしてフゥ太が言うのに、骸は呆れたように肩を竦めてみせただけだった。
「僕には出入り口なんて必要ない」
骸はそう告げると、フゥ太の腕をとった。
「知っているくせに」
間近に顔を寄せられて、フゥ太は後退った。彼の唇は、目の前にある。
唇が上下して、言葉を形作る。
「何故、どうやってここに僕が存在するのか、君は知っているはずですよ」
男の言葉に、フゥ太は顔を背けるしかなかった。
骸がこの場には存在しない人であることを、フゥ太は知っている。
そう、現実には彼は、ここにはいないのだ。
「知っていても理解したくないね」
ぷい、と明後日のほうへと顔を向けて、フゥ太は呟く。
「つれないことを」
目の端に映る骸の姿がかき消えたかと思うと、次の瞬間、フゥ太の目の前に彼は現れた。 「恋人のことを知りたいと、君は思わないのですか?」
甘い言葉を耳元で囁かれ、フゥ太の腕に鳥肌が立った。
そんな言葉は聞きたくはない。そもそも骸のことを恋人とは思っていない。彼は、気紛れで我が儘で、自分勝手な幻でしかないのに。
「あなたのことはこれっぽっちも知りたくはないけれど、僕が消えろと念じたら消えてくれるってことは知ってますよ」
愛想のいい笑みを浮かべてフゥ太は返した。
骸は笑っていた。
意地の悪い言葉に嫌な顔ひとつすることなく、穏やかな笑みを浮かべてフゥ太を見つめている。
後退ろうとフゥ太が体を動かすと、ぐい、と腕を引かれた。
男の体はあたたかかった。
ひんやりとした冷たさを想像していたが、そうではなかった。
「……やわらかい」
呟くと骸は、フゥ太の首筋に唇を押しつける。
チュ、と音を立てて皮膚を吸い上げられた。ゾクリとフゥ太の背筋を微かな快感が走る。 「んっ……」
首を竦めて男の体から逃れようとするが、しっかりと腕の中に閉じこめられていて、逃げようにも逃げられない。
「時間はあるのですよ、売るほど」
優しく告げられ、フゥ太は体の力を抜いた。
唇が、首筋から耳たぶ、頬のラインを辿り、フゥ太の唇の端へと辿り着く。
「僕たちが朝まで愉しんだとして、文句を言う者がいるのですか?」
骸の言葉は、もっともらしいところをついてくる。
二人が朝まで愉しんだとしても、誰も文句を言う者はいないだろう。そもそも、二人の関係に気付いている者がどこにいるというのだろうか。
もしかしたら、ツナ兄は気付いているかもしれないけど──そう、フゥ太は思う。しかし気付かれているとしても、綱吉だけだろう。
「あなたと愉しむことが苦痛なんだ」
フゥ太は告げた。
優しい唇を思い出すから。肌を辿る指遣いや、甘い声、あたたかな体温を思い出すから、だから嫌なのだ。
この男に抱かれたいとは思わない。
彼がいない時間のことを考えると、気が狂いそうになるほど苦しくなることがある。
嫌なのだ、彼がこの場にいないという事実を突きつけられることが。
抱きしめる腕の力が、わずかに緩んだ。
体を捻るとフゥ太は男の腕の中から逃げ出した。
「僕は、あなたとは馴れ合いたくはない」
忘れてはいない。子どもの頃、彼にされたことを。それでも彼のことを許せる自分を、フゥ太は許すことができないでいる。
「馴れ合いではありませんよ、フゥ太君」
ねっとりとした甘い声で、骸は囁く。
近付いて、フゥ太の腕をとり、また抱きしめる。
今度は唇にキスがおりてくる。あたたかな唇の感触に、フゥ太は寒くもないのに寒気を感じた。
「好きじゃないと言ってる」
怒ったように呟くと、深く唇を合わされた。
唇の隙間から潜り込んでくる舌は熱くて、ざらりとしていた。
「ん、んっ……」
クチュ、と音がした。
口の中に溢れる唾液は、自分のものと、骸のものと。互いの唾液が混ざり合い、フゥ太の口の奥に流れ込んでいく。
「ぁ…ふ……」
しがみついた体は、思ったよりも逞しかった。ぐい、と体を抱きしめられる。大人の男だと、フゥ太は思った。
この場には存在しないのに、単なる幻でしかないのに、それなのにこの男は、成長した今の姿でフゥ太の前に現れる。
ズルいと思わずにいられない。
こんなことをされたら、気持ちが傾いてしまう。
今までずっと押さえ込んできた気持ちなのに、この男のほうへと気持ちが、どんどん傾いていくのを止められなくなりそうだ。
「あ……」
唇が離れた瞬間、フゥ太は溜息をついた。
目の前には、離れたばかりの骸の唇。唇の端に、唾液の雫が残っている。フゥ太は骸の肩に手をかけると顔を寄せ、舌で唇に触れてみた。
唾液は、生暖かかった。
「おや、珍しい」
嬉しそうに口の端に笑みを浮かべて、骸が呟く。
「気のせいだよ」
ふい、と顔を逸らしてフゥ太は返した。
夜はまだ、これからだ──
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