唇を見ていた 2

  髪に触れる手や唇に、体の奥がぞわりと震える。体じゅうの産毛が総毛立つような感じがしてフゥ太は思わずぎゅっと目を閉じた。
  耳元で男が笑う。
  うなじにかかる吐息はあたたかく、ねっとりとしている。
「素直になればいいのに」
  男が笑う。
  そんなこと、はなからわかっている。自分の胸の内側に潜む気持ちを素直に吐き出してしまえばどんなにか楽だろうかと、なんど思ったことだろう。
  胸の奥がキリキリと痛むのは、この男に対して、憎悪と愛情の相反する気持ちを持っているからだ。
  彼のことを思う時、フゥ太はいつも胸が痛んだ。
  自分をかえてしまうだろうこの男が怖くもあり、愛しくもある。
  好きだという自覚は、あった。
  初めて彼と出会った時から、胸の底にひっかかっていた。ちょうど魚の小骨が喉にひっかかったかのように、不快感を感じていた。
  この気持ちには、なんと名前をつけたらいいのだろう。
  裏切りや背徳といった言葉しか浮かんでこないところを見ると、どうやら自分がこの男に対して抱いている気持ちは、あまりオープンにできないものと思っているようだ。
  そもそも、好きかどうかすら、定かではない。
  自分の気持ちが信じられず、混乱してしまうこともある。
  それでも肌寂しい時には男のことを思い出したし、彼の手に触れられると体がカッと熱くなった。
  おそらく、心の奥底では自分は、彼のことをそんなに嫌っているわけではないはずだ。
  小さく首を横に振るとフゥ太は、男の骨張った手に自分の手を重ねた。



  肌寂しい夜は、こんな男でもいないよりはマシだ。
  抱きしめる男の腕の力は強い。この部屋に実在しないはずの男の腕に溺れそうになる自分に、フゥ太は吐き気を感じた。
  そんなにも自分は、この男がいいのか。しかも自分は男で、彼……骸も、男だ。
  この男に抱かれたがる自分は、頭がどうかしているのではないだろうか。
  抱きしめる腕の確かさに、フゥ太は溜息を零す。
  男の胸に顔を埋めると、微かに男の体臭がする。ひんやりとした体温に、なにかの花のような微かな甘く青いにおいがしている。
「このあいだは最後まで君を抱くことができませんでした」
  耳元で、男が囁く。
  フゥ太はゾクリと体を震わせた。
  男はいつもフゥ太の元へやてきてはキスをした。抱きしめて、肌に手や舌を這わすことはあったが、最後まで抱かれたことはまだ、ない。
  そのことを言っているのだと、すぐにフゥ太は気付いた。
「気にするようなことじゃないのに」
  男の視線から逃れるようにして、フゥ太は顔を逸らす。
  髪に触れる男の唇に、体が反応してしまいそうになる。唇を噛み締めたフゥ太は、男のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「気にしますよ。放っておいたら君は、僕のことを誤解するに決まっている」
  誤解なんてと、フゥ太は思う。
  この男になにもかもすべてを許したわけではない。ただ、この男に触れられるとそれだけで体が熱く火照りだすから、抱きしめてもらうだけだ。
  ただ、それだけだ──



  唇が離れていくのをフゥ太は、ボンヤリと見ていた。
  心から彼のことを好きなわけではない。
  どのみち彼は、この部屋に実在しているわけではない。彼の体は復讐者の牢獄の水牢に閉じこめられているはずだ。
  それにしても彼の唇はいい形をしている。見惚れてしまう。いつまでもキスをしていたいと思う形の唇だが、そう思うこと自体、すでに自分はおかしくなっているのだろうか。男相手にキスをしたいと思うなんて、どうかしている。
「もっと欲しいのでしょう?」
  尋ねかけてくる男の笑みが、いやらしい。
「もう結構」
  ムッとして言い返すと、クフフ、と男は笑った。
「意地っ張りな君は可愛いですよ」
  男の自分に可愛いなどと、失礼な。フゥ太はギロリと男を睨みつける。
「意地っ張りで強情で、可愛らしい」
  そう言いながら、男の手がするりとフゥ太の頬を撫でた。頬をなぞり、顎から喉にかけてを指先で辿る。その指のひんやりとした感触に、フゥ太は身を震わせた。
「おや。感じているのですか?」
「ちがっ……」
  言いかけた唇を、不意に奪われた。
  ひんやりとした唇が、フゥ太の唇に深く合わさる。硬く閉じていた唇は、彼の指によってあっさりとこじ開けられた。
「んっ……!」
  口の中に潜り込んできた舌が、フゥ太の舌を絡め取る。全身の産毛が総毛立つほどこの男のことを嫌っているというのに、体の奥深いところで、快楽の炎が燻り始める。
「んん、やめ…──」
  言いかけたところで、強く舌を吸い上げられた。
「ん、う……」
  背筋を駆け上がっていく快感に、フゥ太の足下がふらついた。



  キスだけでいいのに。唇だけでいいのにと、フゥ太は骸にしがみついた。
  この男から与えられるキスは、好きだ。
  全身の力が少しずつ抜けていく瞬間も、好きだ。頭がボーっとなって、なにも考えられなくなる。骸と、自分と。二人だけしか部屋の中にはいない。誰も邪魔することのできない空間に、フゥ太の胸は否が応でも高鳴っていく。
「最後まで抱いて欲しいのでしょう?」
  骸が尋ねた。
  彼とのつきあいはもう随分と長いはずだったが、フゥ太はこれまで一度として最後まで抱かれたことはない。そのことを悲しいとは、フゥ太は思ったこともない。
「必要ありません」
  すかさずフゥ太は返した。
  もっとも、最後まで抱かれてしまえば、胸のつかえが取れるのではないかと思うことはあったが。
  それでも一線を置いてしまうのは、警戒しているからだ。矛盾する気持ちを裏返せば、骸のことを信用していないからということになる。彼に裏切られたらと不安に思っているからということもあるが、それだけではない。自分自身が、誰か──綱吉をはじめとする、仲間たち──を裏切ることになるのではないかと、不安に思っているからだ。
  だからフゥ太は、いつまで経ってもこの男に抱かれようとしないのだ。
  確かに、少し前にはこの男に抱かれたいという気持ちになっていたかもしれない。
  しかし今は違う。
  この男に最後まで抱かれるなど、考えただけでも虫酸が走る。
  いいや、そうではない。違うと、フゥ太は思った。
  言葉通りではない。
  相反する気持ちは今もフゥ太の中に眠っている。
  今日こそ、最後まで──少しずつ服を脱がされ、くちづけを与えられながら、フゥ太は思った。



  ベッドに辿り着く前に、二人とも着ていたものは床に脱ぎ捨ててしまっていた。
  これは、現実だろうか?
  それとも骸が見せる幻覚だろうか?
  恐る恐るフゥ太は男の体に腕を回した。
  体温の低い唇が、フゥ太の肌を辿っていく。
  喉元に軽く歯を立てた男は、笑っていた。唇が上下して、皮膚を噛む。うっすらと開いた口元に見える白い歯と、赤い舌。あまりの艶めかしさにフゥ太は、体を震わせていた。
  指先がするりとフゥ太の体のラインを辿り、乳首をきゅっと摘み上げる。それだけでフゥ太の口からは、微かな声が洩れ出す。甘く、女のような悲鳴に耳を塞ぎたくなる。
  こんなのは自分ではないと胸の内で思いながらも、男に触れてもらうことを喜んでいる。
「なにを……」
  不意に、男が呟いた。
  その瞬間、フゥ太の体はベッドに倒れ込み、押さえ込まれていた。
「あ……!」
  見上げると、男の唇がすぐ目の前にある。
「なにを、躊躇っているのですか?」
  唇が言葉を発する。
  わけもなく、怖かった。
  ぎゅっと目をつむると、唇を噛み締める。
  男の穏やかな笑みが怖い。優しい言葉には耳を塞ぎたくなる。
  抱きしめられると……涙が出そうになる。
「……君にはまだこういうことは早すぎたのかもしれませんね」
  静かに男は、呟いた。
  それから額と唇に、キスをされた。



(2010.8.3)
END


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