ガリ、と音がした。
「痛っ」
獄寺が声をあげた途端、綱吉の手が止まる。
「あっ、ごめん……ごめんね、獄寺君……」
慌てて綱吉は獄寺から身を引いた。
「いえ、大丈夫ですから」
獄寺が返すのに、綱吉は申し訳なさそうに謝った。
「お気になさらないでください、十代目」
首の後ろに手をやり、獄寺はヒリヒリする箇所をなんども擦る。引っ掻かれたということはなんとはなしにわかったが、いったい綱吉はどうしてしまったのだろうか。
溜息をつく綱吉の顔を覗き込むと、獄寺は笑みを浮かべる。
「こんなのどってことないっスよ。ちょっと虫に刺されたとでも思えば……」
言いながら獄寺は、綱吉が眉をハの字に寄せて難しい顔をしていることに気付いた。
「なにかあったんですか、十代目? もしかして、俺のいない間に……」
離れていた時間は、半日ほどだろうか。その間になにがあったのだろうかと獄寺は思う。それと同時に獄寺は、二十四歳の綱吉と過ごした半日をふと思い出してしまった。自分はいったい、どんな時間をあの人と過ごしただろう。十四歳の綱吉を前にして、やましいことはなにひとつなかったと言い切れるだろうか。この人の目をまっすぐに見つめて、はっきりと言えるだろうか……?
「あの……十代目……」
言わなければと獄寺は思った。
この人に嘘をつきたくはない。
「──…オレたち、十年後には恋人同士なんだって知ってた?」
ひからびた声で、綱吉が呟いた。
「あ……」
恋人同士だとはっきり聞かされたわけではなかったが、獄寺も、薄々は気付いていた。
二十四歳の綱吉の様子から、十年後の二人がただのボスと右腕の関係ではないような気がしてならなかったのだ。
そして自分は、心の奥底でそんな二人を羨ましいと思って見ていた──
自分はいったい、どうしたいのだろう。
目の前にいるこの人が好きだという気持ちに嘘偽りはなかったが、正直に気持ちを伝えるとなると、戸惑ってしまう。
自分の気持ちを綱吉に押しつけることにならないだろうか。自分が気持ちを伝えることで、逆に綱吉は困らないだろうか。嫌われないだろうか。そんなことをぐだぐだと考えてしまう。
「俺、は…──」
すぐには言葉が出てこなかった。
呆然としていると、綱吉の手がくしゃり、と獄寺の髪を撫でつけた。
「驚いた?」
尋ねられ、首を横に振る。
「じゃあ、気持ち悪い? 男同士で恋人なんて、考えられない?」
もういちど獄寺は、首を横に振る。
「じゃあ……」
言いかけた綱吉の肩を両手でしっかと掴んで、獄寺は言った。
「気持ち悪くなんてありません」
十年後の二人が恋人同士だと聞いて喜んでいる自分がいる。
獄寺は綱吉の目を覗き込むと、肩を掴む両手に力を入れた。
「十代目とだったら、むしろ本望です」
恋人になりたいと、思っていた。口に出して告げてしまったなら、嫌われるかもしれないと思っていた。気持ちを伝えることができないのであれば、右腕としてこの人のそばにいることができればいいと思った。そのうちに自分が辛くなってくるだろうことがわかっていて尚、この人のそばにいようと思った。
自分はボンゴレ十代目が、好きなのだ。
右腕として認めてほしい。それと同時に、恋人として、そばに置いてほしい。そんなふうに思っているのだ。
「あ……ははっ」
乾いた笑い声をあげて綱吉は、獄寺を見つめ返した。
「ねえ、獄寺君。それって、本気?」
尋ねられ、獄寺は勢いよく綱吉をベッドの上に押し倒した。
「本気です!」
そうでなければ、こんなふうに綱吉と二人でいるだけでドキドキしたりはしないはずだ。 「オレ、男だよ?」
追い打ちをかけるように綱吉が言う。
「俺も男です」
そう返して、獄寺は笑った。
今の獄寺にできる、精一杯の虚勢だった。
獄寺の手をやんわりと払いのけると、綱吉はベッドの上に起きあがった。普段の綱吉からは想像できないほど難しい顔をしている。
「……ごめんね、獄寺君」
不意に綱吉は言った。
「オレ……さっき、十年後の獄寺君にキスされた……」
言いながら綱吉の頬が見る見る真っ赤に染まっていく。
「獄寺君だからと思って、油断してたかもしれない」
口元を手で覆い、綱吉は困ったように獄寺を上目遣いに見つめている。
「なっ……」
獄寺は絶句した。どことなく様子がおかしいと思っていたら、キスをされていたのだ。
「どこ……どこに? どこなんですか、十代目!」
あっという間に怒りが沸点に達し、手がプルプルと震え出す。獄寺は身を乗り出して、綱吉の鼻先に顔を近づけた。
「キスされたって、どこにですか?」
ぐっと顔を近づけると、綱吉はじりじりと後退る。
無防備だからキスなんかされてしまうのだと、獄寺はムッとして綱吉の顔を覗き込む。
「あー……ええと……」
わざとらしく視線を反らした綱吉は、明後日の方向へと目をやった。
「どこにキスされたんですか、十代目」
獄寺の勢いに飲まれたのか、綱吉は大きな溜息を吐き出した。
「……唇に、一瞬だけ」
掠れた小さな声が、獄寺の耳に届く。
俯いた綱吉がどことなく寂しそうに見えるのは、何故だろうか。
自分では駄目だということなのだろうか?
この人は、恋人にするなら十年後の自分のほうがいいと言い出すのではないだろうかと、獄寺は眉間に皺を寄せ、じっと綱吉を見つめ返した。
自分は、綱吉のものでありたいと獄寺は思う。十年後の綱吉ではなく、たった今、目の前にいる綱吉のものでありたいと願う。もちろん右腕であり、恋人でもある存在になることができたなら、それこそ本望だ。
しかし綱吉は、どうなのだろう。
綱吉は自分のことを、どう思っているのだろうか。
十年後の自分にキスをされたと言いながら、綱吉から否定的な言葉はまだ一言も出てきていない。
いったい綱吉は、自分のことをどう思っているのだろうか。
「キスされて、嫌でしたか?」
尋ねると、俯いたままではあったが綱吉は首を横に振った。
「嫌じゃ……なかったよ」
そう言うと小さく溜息を吐き出す。躊躇いがちにちらりと獄寺を見て、それから困ったように綱吉は微かに笑みを浮かべる。気弱そうな雰囲気が、獄寺には見ていてもどかしい。
いざというときには頼りになる存在だというのに、普段の綱吉はこんなにも控え目で、どちらかというと後ろ向きなことがある。そんな綱吉が自分を頼ってくれたなら、どんなにか嬉しいだろう。 嫌じゃないということは、まだ、自分にも希望はあるということだろう。
右腕として認められたい。必要とされたい。そして、恋人としても。期待していいだろうか? 恋人として、綱吉が自分を欲してくれていると信じても、いいのだろうか?
「──嫌じゃなかったけど、オレは、今、目の前にいる獄寺君とキスしたかったな」
ぽつりと綱吉が呟いた。
獄寺の頬に手をやり、両手ですっぽりと包み込む。
「十年後の獄寺君は大人で格好良くてなにをやっても様になってたけど、オレはやっぱり、こっちの獄寺君のほうが好きだな」
そう言って綱吉は、獄寺の唇に、ついばむようなキスをした。
「あ…──」
獄寺が唖然としていると、綱吉は笑ってもういちど、キスをする。
「ごめんね、獄寺君。オレ、十年後の君のことが好きなのかと思ってた」
大人で、格好良くて、なにをしても様になっている十年後の自分は、確かに自分自身が見てても悔しいぐらいに十年後の綱吉に似合っていた。いつか自分もあんなふうになって十代目のおそばにと、そんなことを今日一日、獄寺はずっと考えていた。
「けど、違ったんだ。オレ、君のことが好きなんだ」
キスをする直前、唇が触れるか触れないかの距離で、綱吉が囁いた。
目を閉じると、獄寺の頭の中は綱吉でいっぱいになった。
触れるだけのキスから、綱吉は次第に唇の角度をかえていき、いつの間にか獄寺の口の中に舌が差し込まれていた。
「ん……」
舌を絡めて、綱吉の唾液を受け取った。
喉の奥へと落ちていく唾液は、綱吉のものと自分のものとが入り混ざったものだ。
「ぁ……ふ……」
獄寺の口の中で声があがり、綱吉の口の中へと消えていく。
唇が離れると、綱吉は弱々しく笑っていた。
「獄寺君、キスうまいね。やっぱり帰国子女って、こういうスキンシップが得意なのかな」
綱吉の指が、獄寺の唇をちょん、とつつく。
「や、そんなことは……」
言いかけた獄寺の言葉を遮って、綱吉は言った。
「オレに、教えてくれる?」
なにを、と、獄寺は思う。もの問いたげに綱吉を見つめると、彼は安心したような穏やかな表情をしている。十年後の自分に触発された綱吉が、なんとなく流されているだけのような気がしていたが、どうやら杞憂だったらしい。
獄寺は、自分の頬に触れたままの綱吉の手を、そっと握った。
「俺は、最初からあなただけです」
言いながら、胸の奥がチクリと痛んだのは、きっと気のせいだ。
綱吉の手に頬を押しつけ、獄寺は笑った。
「もういちど、キスしてください、十代目」
唇だけでなく、十年後の綱吉に触れられた首の後ろにも、キスをしてほしい。
それから、抱いてほしい。
十年後のこの世界にいるあいだに、自分は綱吉のものだという証を手に入れたいと、獄寺は思った。
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