目を開けると、やはりなにもかわっていなかった。
はあぁ、と綱吉は深い溜息をつく。
なにもかわっていないのだと知ると同時にガッカリした。
ベッドに起きあがってちらりと隣を見ると、獄寺はまだ眠っていた。いったい何時頃だろうかとサイドボードの時計を見ると、まだ七時にもなっていない。
「もっかい寝直そ……」
呟いて、ごそごそとベッドに潜り込む。
「ぅ、ん……」
不意に、口の中でなにごとか呟いて、獄寺がもそもそと体を動かした。寝返りを打つ獄寺のうなじの白さに一瞬、綱吉の動きがはたと止まる。
いちど気になりだすと、もうダメだった。あまりよろしくない想像やら妄想やらが頭の中でグルグルと巡りだし、果ては一昨日の夜のことまで思い出してしまってどうにもおさまりがつかなくなってしまった。
「……ヤバイ」
腹の底に熱いものが集まりだし、体が勝手に反応し始める。
慌ててぐるりと体の向きをかえた綱吉は、獄寺に背を向ける格好で体を丸め、口元に手をあてた。
獄寺を意識したからだろうか、腹の底がジンジンと熱くなっていく。体中を熱が駆け巡り、暴れ出したくてウズウズしているような感じがする。
「ヤバイよ、こんなの……」
唇を噛み締め、綱吉はそっとベッドから抜け出そうとする。
今ならまだ大丈夫だ。獄寺は眠っている。今のうちにバスルームででも処理してしまえば、獄寺に気づかれることもないだろう。
そと床に足先から降りると、息を殺してベッドから抜け出す。
あとはもう、なにも考えずにバスルームまでもたもたと駆けていくばかりだった。
部屋に戻ると、獄寺は既に目を覚ましていた。
「おはようございます、十代目。あれ、シャワー浴びたんっスか?」
小首を傾げた獄寺に尋ねられ、綱吉は曖昧に笑みを返すことしかできなかった。
理由を話せばきっと、獄寺に軽蔑されるだろうと思ったのだ。わけもなく罪悪感がこみあげてくる。
そんな綱吉の様子には気づかずに、獄寺は喋りかけてくる。今日の予定はどうするのだの、朝食はなんだろうだの、今の綱吉にしてみればどうでもいいようなことばかりだ。適当に調子を合わせて相槌を打っていると、最後には獄寺もおかしいと思ったのだろう、怪訝そうな表情をしていた。
自分の様子が妙なことはわかっていた。それを獄寺に気づかれたと知った途端、綱吉は引きつるような笑みを浮かべたまま、言い訳を並べ立ててさっと部屋を後にした。自分でも馬鹿だと思うが、そうすることしかできなかった。
恥ずかしかったのと、獄寺に申し訳ないという思いでいっぱいで、他になにも考えることができなかったのだ。
仕方がないと、綱吉は自分で自分に言い訳をする。
そうすることで自分自身を無理矢理に納得させ、中庭へと飛び出した。
獄寺とは、今は顔を合わせ辛かった。どうしても一昨日の夜のことを思い出してしまう。滑らかな肌触りだった。じっとりと汗ばんだ肌に手を這わせると、ピタリと吸いつくような感じがした。唇を寄せると、清潔な石鹸の香りがしていた。
甘い声とが耳の中に蘇ってくるようで、慌てて綱吉は両手で耳を塞いだ。
背筋がゾクゾクとしてくる。体の中を駆け巡る熱は、行き場を探して綱吉の血管をものすごい勢いで暴れている。
立ち止まってはいけないと、綱吉は思った。
立ち止まったらこの体の熱はいったいどうなるのだろうか。
耳を塞いだまま庭の奥へと駆けていく。
頬にあたる風や、足下の草のにおい、小鳥のさえずりが感じられる。なんと穏やかな朝なのだろう。それに比べて自分は、なんと矮小で卑しい存在なのだろうか。
そのうちに走り疲れて、足がもつれてきた。
息を切らして、ノロノロと足を前へと出す。
耳の後ろがガンガンと鳴っていて、気持ちが悪かった。
気持ち悪いながらも綱吉は、それでも前へと進み続けた。首の後ろがピリピリとして、不快感を感じる。熱かった。鎖に通して首から下げたICタグが、いつの間にか熱を放っていた。だから熱いのだ。だからさっきから、不快感を感じているのだと綱吉は思い至る。
もしかしてICタグが、なにかに反応しているのだろうか?
その瞬間、綱吉はなにかに足を取られていた。
中庭のずっと奥、大木の根本で地べたに大の字に寝転がっていると、草を踏みしだく足音が聞こえてくる。転んだ時に膝を打ったのだろう、痺れるような痛みがしている。
──誰だろう?
首を巡らして足音のしたほうへと頭を向けると、二十四歳の獄寺がすぐそこに立っていた。
「獄寺君……?」
驚いたような表情の獄寺が綱吉をじっと見おろしている。
「じゅっ……十代目?」
慌てて飛び起きると、綱吉は、立ち上がる。くらりとめまいがした。
「どうしてこんなところに?」
ぐい、と腕を捕まれ、危うくへたり込みそうになるところを獄寺に助けられた。その手をやんわりと断り、綱吉は自分の両足で地面に立った。
「ちょっと、考えごとをしてたら頭の中がごっちゃになって」
嘘ではないが、獄寺本人を目の前にしてあまり理由を口にしたくはないような気がする。 「朝食はもう食べましたか、十代目?」
気遣わしげな獄寺に、綱吉は首を横に振った。
言われて初めて、自分の空腹感に気づいた。腹を押さえると同時に、ぐう、と腹の虫が騒ぎ出す。
「食堂へどうぞ、十代目。食堂で待ってるヤツがいるんスよ」
心底困ったというふうに微かに口元に笑みを浮かべて、獄寺は言う。十四歳の獄寺が、食堂でじっと綱吉が来るのを今か今かと待っているのだそうだ。
「早く戻ってやってください、十代目」
綱吉は頷いた。
言われなくても戻るつもりだった。正直なところ、腹が減ってどうにも仕方がなかった。人間、どんな時にも腹は減るものなのだ。
少しの罪悪感と、空腹感と、それから照れくさいような恥ずかしさを感じつつ、綱吉は食堂へと向かった。
食堂のドアは開いていた。
中からコーヒーの香りが漂ってきていて、いっそう空腹感を刺激する。テーブルにはすでに朝食が用意されていた。こってりと甘いホイップつきのクロワッサンと、ヨーグルトだ。
先に食堂に来ている獄寺は、ちょこんと席について綱吉が来るのを今か今かと待っていた。
「あの……ごめんね獄寺君、遅くなって」
顔を見るのが恥ずかしくて、綱吉はうつむき加減に声をかけた。
「朝の散歩はどうでしたか」
なんでもないことのような顔をして、獄寺が尋ねてくる。
席についた綱吉は、ちらりと獄寺のほうへと視線を向ける。どう返すべきだろうか。少し考えてから、困ったように笑みを浮かべた。
「後で一緒に中庭を散歩しようよ、獄寺君」
言葉にして説明することはできないと綱吉は思った。
あの、首の後ろに感じた不快感や、ICタグのことは、今ここで話すべきことではない。それに……中庭になにかあるような気がしたのは、きっと気のせいではないはずだ。
「いいっスよ、十代目」
嬉しそうに目を輝かせて、獄寺は言葉を返してくる。
さっき、中庭でICタグが反応を見せたのはどうしてだろうか。綱吉のICタグに反応したのか、それとも獄寺のICタグにも反応するのか。それを見極めてやろうと綱吉は思った。
食後の二人は、何気ない様子を装って、そっと屋敷を抜け出した。
食堂で散歩をしようと言葉を交わしていたからだろうか、誰も不審には思っていないらしい。それでもおそらく、監視の目はそこかしこにあるのだろう。綱吉が気づいていないだけで、きっとどこかから二人の様子をうかがっている者がいるはずだ。
ちらりと獄寺の様子を見ると、彼はなにも気づいていないようだった。
綱吉は小さく息を吐き出した。獄寺のいつもと変わらない態度にホッとする自分がいる。セックスまでしておいて、こんなふうにあれこれ考える自分は優柔不断だと自分でも思わずにいられない。だが、やはり自分に自信が足りないからだろうか、いろいろと考えてしまうのだ。
「どこまで行くんスか、十代目」
中庭の奥へと続く小道を一歩一歩進みながら、獄寺は尋ねてくる。
「もうちょっと先だよ。すぐこの先に、すごく大きな木があってさ」
と、綱吉は道の先を指差す。
「そこで座ってたら、なにかいい考えでも浮かぶかなと思ってさ」
元の世界へ戻るための、いい案がなにか浮かんではこないだろうか。それから、ICタグがもういちど反応を示すかどうかを確かめたいと綱吉は思っていた。
自分のICタグは、さっきと同じように反応するだろうか?
獄寺のICタグは、反応を示すだろうか?
一歩前へ進むごとに、心臓がドクン、ドクンと大きな音を立てているかのようだ。
横を歩く獄寺へとちらりと視線を走らせてから綱吉は、前を見た。
首の後ろがピリピリとして、痺れるような感覚を送り込んでくる。首から下げたICタグが、ほんのりと熱い。
口を一文字に引き結び、綱吉は歩き続ける。
ふと見ると、獄寺のほうのICタグはなんの反応も示してはいなかった。どうしてだろうか。怪訝そうに獄寺の顔を見る。
「どうかしましたか?」
尋ねられ、慌てて綱吉は首を横に振った。
獄寺は、なにも感じてはいないらしい。ICタグの熱も、中庭の奥へと足を進めた時の違和感のようなものも、獄寺はひとつとして気づかない。
なにが違うのだろうか?
獄寺と自分の違いとは、いったいなんだろう?
シャツの下にたくしこんだICタグが、今は肌に熱いほどだった。
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