昔から、月蝕に願いをかけると叶えられると言われている。
本当かどうかはわからない。
誰も、願いが本当に叶ったかどうかまで教えてくれるような人はいなかったから。
だから獄寺は、自分の部屋の窓から表を覗き、夜明け間近の月蝕に一心に祈った。
綱吉とずっと一緒にいられますように。この想いを打ち明けられなくてもいいから、敬愛する綱吉の……ボンゴレ十代目のお側に──と。
願いが叶ったかどうかは、神のみぞ知る、だ。
わずかに欠けていく月の光の下で獄寺は、ふっと意識が遠くなるのを感じていた。
睡眠不足からだろうか、地面に吸い込まれていくような感じがして、体がふわりと軽くなった。
視界が不意に真っ暗になって、ついで意識が途切れていく。
このまま倒れてしまったら、風邪をひいてしまいそうだ。そんなことをぼんやりと頭の隅で考える。いくら自室にいるとはいえ、暖房をつけてはいなかった。願い事をしたらすぐに暖かなベッドに戻るつもりをしていたから。
「十代目……──」
しわがれた声で、そう呟いた。
体が軽くなっていく。
まるで浮いているみたいだと、意識を失う直前に獄寺は思った。
目を覚ますと、いつもの朝だった。
今朝方のあれは夢だったのだ。月蝕を見ていて意識を失ったと思ったのは、あまりにも早朝すぎて眠たかったからだ。
そう思って獄寺は、伸びをした。
四肢を伸ばして背中をしならせ、大口を開けてあくびをする。
からだがむず痒いような感じがする。
腕の内側で顔をくい、とひと撫ですると、首の後ろをボリボリと掻いた。心地よい。目を細めてうっとりと獄寺は、喉を鳴らした。
いつもより体が軽いのはどうしてだろう。
それと同時に、いつもより少しだけ目線が低くなったような気がした。
まだ、寝ぼけているのだろうか。
首を傾げて眉間に皺を寄せて考え込んでいると、インターホンが鳴った。
こんな時間に誰だと獄寺は眉間の皺をさらに深くして無視を決め込んでいると、もういちどインターホンが鳴る。
控え目なノックの音がして、聞き間違えることのない声がした。
「獄寺君、起きてる?」
綱吉だ。待たせてはならないと慌てて玄関口へと飛び出して行ったものの、どうしたことかドアに手が届かない。
いや、急に身長が縮んでしまったのか、やはり視界が低く、目線がいつもより定位置にある。
「あぁ……?」
首を傾げて獄寺は、まじまじと自分の手を見た。
指を動かし、ぐっと丸めてみるが、どう見ても毛深いし、自分の手ではないように思える。
「なんだ、こりゃ……」
呆然として呟いてみる。
隙間のあいていた洗面所のドアを鼻先でぐい、と押しやり、獄寺は流し台の縁に飛び乗った。
ロシアンブルーのほっそりとした猫が一匹、高慢そうな顔をして鏡を覗き込んでいた。
カチャリと音がして、ドアの開く気配がした。
そうだ、綱吉が来ていたのだと思ったものの、表へ出ていく勇気が今の獄寺にはない。
「獄寺くーん、君にもらった合い鍵で、入らせてもらうよ……」
侘びるように言い置いて、綱吉が部屋に入ってくる。
綱吉のにおいが獄寺の鼻先を掠める。ゴロゴロと喉を鳴らしながら獄寺は、「あぉん!」と甘えるような鳴き声をあげた。
「あ……?」
洗面所を通り過ぎて獄寺の寝室へと向かった綱吉が、鳴き声に気付いたのか戻ってきた。ドアの隙間からひょいと顔を覗かせた綱吉は、すぐに鏡の前にどっしりと腰をおろした猫に気付いた。
「あれ……猫?」
獄寺は洗面台の上で、じっと綱吉を見つめている。
「獄寺君、猫なんて飼ってたんだ」
綱吉の呟きに、獄寺は抗議しようとした。
違いますよ、十代目。俺です、獄寺です──そう言いたかった。
しかし綱吉はこれっぽっちも気付く様子はない。
もちろん、獄寺が人間の言葉を話すこともできるはずがなく、言い訳をしようとすると惨めな声で「あぉん」と鳴くことしかできない。
このままでは綱吉は、一生、獄寺の存在に気付いてくれないかもしれない。
そんな危機感がふっと獄寺の頭の中を横切っていく。
必死になって喚き立てていると、綱吉の腕がそっと猫の体をした獄寺を抱き上げてくれた。
「お腹がすいてるのかな? おいで、ミルクぐらいはあるだろうから、温めてあげるね」
勝手知ったるなんとやらで、綱吉は慣れた様子で獄寺の部屋のキッチンに入った。冷蔵庫を開けると、牛乳パックを取り出す。底の深い小鉢に牛乳を入れると、綱吉はレンジで軽く温めた。
「ほら、朝ご飯だよ」
そう言って綱吉は、小鉢を獄寺のすぐ前の床にそっと置いた。
「にゃお!」
生ぬるい牛乳のにおいがしていたが、獄寺は小鉢に鼻先をつっこんだ。
綱吉が手ずから用意してくれた牛乳だ。ここで飲まなければ男が廃ると、獄寺は意を決して牛乳を舐めた。
「可哀想に、お腹がすいてたんだね」
そう言いながら綱吉は、獄寺の背中を優しく撫でてくれる。
生ぬるい牛乳はおいしくはなかったが、綱吉の手に撫でられているのだと思うと、自然と獄寺の喉がゴロゴロと鳴り出す。
「それよれもさ。獄寺君がどこに行ったか知らない?」
背中を撫でながら、綱吉が尋ねてくる。
自分はここだと獄寺は返そうとしたが、出てくる言葉は猫の鳴き声ばかりでどうにも人間の言葉にならない。
「にゃおん!」
尻尾をピンと立てて獄寺が必死になって喋ろうとしていると、綱吉の手がそっと体を抱きかかえた。
「初詣に一緒に行こうと思って誘いに来たんだけど、どうしよう……」
小さな溜息を吐き出して、綱吉は呟いた。
「せっかく皆、集まってんのに……獄寺君がいなかったら、寂しいじゃん。な、お前もそう思うだろ?」
綱吉の唇が、微かに獄寺の頭に触れる。
綱吉は気付いていないのか、それとも猫だから気にしていないのか、どちらだろうか。もしもこの猫が獄寺本人だと知ったら、綱吉はどうするだろうか。
獄寺は項垂れて、小さな声で鳴いた。
「にゃぅ」
このままでは綱吉に気付いてもらうことはできないと、ようやく獄寺は気付いたのだった。
獄寺の部屋にまだ、綱吉はいる。
あれからすぐに綱吉は、携帯で仲間に連絡をとり、初詣には集まった人だけで先に並盛神社へお参りに行ってほしいと声をかけた。
自分は獄寺の部屋に来たものの、肝心の獄寺が部屋にいないので戻ってきたらすぐに皆の後を追うからと告げることも忘れなかった。
携帯で連絡を取る綱吉の姿は、獄寺には手際いいボスの姿にしか見えない。自分はボスにこれほどまで想われているのだと思うと、それだけで歓喜で体が震えてくる。
ゴロゴロと雷のような音を立てて喉を鳴らすと、宥めるように綱吉の手が獄寺の背中を撫でる。
「それにしても獄寺君、どこに行ったんだろ」
綱吉の呟く声に、獄寺は「にゃお!」と鳴いた。
「お前も心配だよな、飼い主の獄寺君がいないと」
そんなことを言いながら、綱吉は獄寺の背中を撫でている。
自分はここにいるのにと、獄寺は歯痒い気持ちで喉を鳴らした。
自分なら、ずっとこの部屋にいる。綱吉の目の前にいて、彼の言葉を聞いている。
どうして綱吉は、自分に気付いてくれないのだろうか。どうして自分は、猫になんかになってしまったのだろうか。こんな近くにいるというのに、喋ることもままならない状態で、いったいどうすればいいのだろう。
ひとしきり綱吉の手の感触を楽しんでから獄寺は、ふといいことを思いついた。
綱吉に言葉を伝える方法を、思いついたのだ。
もぞもぞと体をくねらせて綱吉の腕の中からなんとか逃げ出した獄寺は、ピン、と尻尾を立てて綱吉を見つめた。
「にゃおん!」
甲高く一声鳴くと獄寺は、寝室へと駆け込んで行った。
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