綱吉だって、こんなことをするのは初めてだ。
「オレだってそうだよ」
囁くように言葉を口にすると、自然と獄寺のほうへと手が伸びた。
頬にかかっていた銀髪を指でそっと避けると、そのまま親指の腹で目の下をなぞった。綱吉に触られることは嫌ではないようで、獄寺はじっとおとなしくしている。
「恥ずかしくて……気絶しそうだ」
顔を近づけると、獄寺の目がすっと閉じた。近くで見ても、やっぱり獄寺の睫毛は長い。頬のライン、唇……柔らかいだろうか? それとも、獄寺の唇は硬いだろうか?
さらに顔を寄せていくと、唇と唇が微かに触れ合った。
咄嗟に綱吉は身を引いていた。
男同士でも、キスはできるのだ。獄寺の唇は柔らかいような気がする。ほんのりと暖かくて、微かにタバコのにおいがしている。
「……十代目?」
目を閉じたまま、獄寺が尋ねてきた。
このままもう一度、キスしてもいいのだろうか?
目を閉じてじっと立ち尽くす獄寺の唇に、綱吉はもう一度、自分の唇で触れてみた。
今度はゆっくりと、深く唇を重ねる。
綱吉も目を閉じた。心臓がバクバクいっている。自分の心臓が騒いでいるのだろうか、それとも獄寺も同じようにドキドキしてくれているのだろうか。
角度をかえて唇を合わせ、相手の唇を吸い上げると、クチュ、と湿った音が耳に聞こえてきた。恥ずかしい。だけど、もっと貪りたい。
深く、深く……何もかも奪い取るぐらいの勢いで、貪り尽くしてみたい。
「ん……っ」
鼻にかかった声が獄寺の喉の奥でした。
その声に煽られるようにして綱吉は、舌先で獄寺の唇を優しく割り開く。
どうすればいいのかなんてわからなかったが、自分がどうしたいかならわかっていた。
もっと、獄寺とくっついていたい。ピタリと体を寄せ合って、隙間もないぐらい抱きしめたい。
手を伸ばして獄寺の体をもっと引き寄せようとしたところで、不意にチャイムが鳴った。 その音で我に返った綱吉は慌てて獄寺から身を離すと、たった今、自分がしでかしたことを誤魔化すかのように手の甲で唇をごしごしと擦ったのだった。
「あ…──い、今の、ナシ!」
言った途端に獄寺の眉間にぎゅっ、と皺が寄る。不安そうな、困惑した獄寺の表情が綱吉の胸に突き刺さるような痛みを覚えさせた。
「や、そうじゃなくて……その、あの……」
慌てて言い直そうとしたが、そもそもなんと言えばいいのだろう。
こんなふうにいきなりキスをするつもりはなかったのだ。
もっとちゃんと告白をして、獄寺の気持ちを確かめてから、キスをしたいと思っていた。それこそ、校門前で握手をしてもらってから第二ボタンをくださいとお願いした奈々の思い出のように、もっとスマートに、後々まで記憶に残るようなやりかたをしたかったのに。
それに、だ。そろそろ体育館に行かないと、本当に卒業式が始まってしまう。
「ええと、その……ネ、ネクタイ、したほうがいいよね」
せっかく交換してもらった獄寺のネクタイは、まだ手にしたままだった。今のキスの時に、強く握りすぎたらしい。ところどころ皺が寄ってしまっている。
「……オレ、ネクタイ結ぶの苦手だから、早くしないと」
言い訳がましく口にすると綱吉は、もたもたとした手つきでネクタイを結び始める。
「俺に結ばせてください、十代目のネクタイ」
そう言って獄寺は、手を伸ばしてきた。ネクタイを手に取り、丁寧に素早く結んでいく。 喉元で動く獄寺の指はほっそりとして、器用だった。あっと言う間にネクタイを結び終え、まるで魔法の指先だと綱吉は思った。
「ありがとう、獄寺君」
「おやすいご用です」
ニコリと笑う獄寺の目元が、ほんのりと色づいている。キス……したことを、意識しているのだろうか。そう思うと綱吉のほうも意識せざるを得なくなってきてしまう。
一度はおさまりかけていた胸の鼓動が、またぞろうるさく騒ぎだそうとし始める。
「それよりも十代目。俺のネクタイ、結んでもらえませんか?」
自分の首回りに垂らしたネクタイを指さして、獄寺がねだる。ついさっきまで綱吉が首にしていたネクタイだ。
「あ……うん、そうだね」
お互いに相手にネクタイを結び合って、今日の思い出にすればいい。
獄寺が自分にしてくれたのと同じように、綱吉もネクタイを結んでやる。自分は獄寺のように器用ではないから、途中で少し手が震えた。指がもつれ、うまく結べない。
「あれ、おかしいなぁ」
何度か形を整えようとして、失敗をした。
「焦らないでください、十代目」
ゆっくりでいいっスよと告げる獄寺の声は、どことなく嬉しそうだ。
「でも早くしないと卒業式が始まるって」
校庭から聞こえてくるざわめきは、普段の登校景色とそうかわらなくなってきている。
在校生側として卒業式に出席する二年生や生徒会の役員たちが忙しく今日の準備を整えてくれた。去年、綱吉達も送り出す側として準備にあたったから知っているとこだ。卒業生と、その保護者たちもそろそろ体育館へと集まりだしている。
早いこと獄寺のネクタイを結んでしまって、自分たちも体育館と思うのに、気ばかりが焦って指が思うように動いてくれない。
「ごっ、ごめん……オレ、不器用で……」
何度も謝りながら綱吉は、なんとかネクタイを結び終えた。
よれっとしてあまり綺麗に形は整わなかったが、獄寺は満足気にネクタイに触れた。
「ありがとうございます、十代目」
その、嬉しそうな表情といったら。
少しぐらい形がいびつだろうが、よれていようが、獄寺には関係ないのだ。一生懸命、綱吉が結んでくれたことが嬉しくてならないのだろう。
「いや、こっちこそ本当にごめん、うまく結べなくて」
今はこんなみっともない結び方しかできないが、高校に入学したら、少しはマシになるだろうか。「本当、ゴメン」ともう一度だけ謝ってから綱吉は、獄寺に手を差し出した。
「三年間ありがとう、それから、高校に上がってもよろしくね」
綱吉の手に、獄寺が手を合わせてくる。
握手をすると、むず痒いような、気恥ずかしいような感じがした。
キスした時よりももっと、綱吉の心臓はドキドキしているようだった。
獄寺と二人して体育館に駆け込むと、もう既にほとんどの生徒が集まっていた。
「遅いぞ、ツナ、獄寺」
先に体育館に入っていた山本が、声をかけてくる。
野球部の部室を見に行くだなどと言っていたが、山本が自分たちのために気を利かせてくれたらしいことは何となく、綱吉にもわかっている。
「ごめん、ごめん」
話し込んでいたら、つい時間を忘れてしまったのだと言い訳がましく綱吉が言うと、山本は何も言わずに「並盛中も今日で見納めだもんな」と呟いた。
本当に今日で、終わりなのだ。
卒業したら、もうここへは来ない。
皆で一緒に集まった教室も、屋上でお弁当を食べたことも、校庭で騒いだことも、過去のことになってしまうのだ。
ずっと同じような日々が毎日、毎日、続いていくのだと思っていたが、そうではないのだ。
「なあ、後で皆で写真撮らねー?」
登校前に三人で写真を撮ったのとは別に、皆で撮ろうと山本は言った。
大切な思い出を、皆で共有できるように。
「いいね。あ、でもそれだったら、ハルも誘って、どっかで写真撮ったほうが……」
ハルも、大切な仲間だ。京子やクロームを誘うのなら、ハルにだって声をかけたほうがいいだろう。
「だったら骸たちも呼んでやるか?」
ツナの思惑に気づいたのか、それとも単に思いついただけなのか、山本はいつものように無邪気に返してくる。
こんなふうにして、皆でワイワイやるのが楽しくて、仕方がない。
皆で集まって、騒いで、少しぐらいは喧嘩をしたりもするけれど、ずっと一緒にいられたらいいと綱吉は思う。
「じゃあ、卒業式が終わったら皆で俺ン家に来いよ。寿司、食わしてやるから」
山本の言葉に綱吉は頷いた。
式が始まる前のざわめきの中でチラリと獄寺を見ると、彼も綱吉のほうを見つめていた。
卒業式も無事に終えたものの、何となく帰りがたい気持ちでいっぱいになった綱吉は、獄寺と二人して教室に居残っていた。
そろそろ家に帰って、着替えたほうがいいのはわかっている。
この後は、皆で山本の家に集まることになっている。山本のお父さんの握る寿司が美味しいことは皆知っているから、呼ばれてもいない輩までもが集まってくるだろうことは何となくだが予想できることだった。
「そろそろ帰らないとね」
呟くものの、綱吉は椅子に腰を下ろしたまま、じっと窓の外を見つめている。
獄寺はと言うと、綱吉の前の席の机に腰を乗せ、こちらも同じようにじっと窓の外を眺めている。
「明日から、寂しいね」
言いながら綱吉は、獄寺が結んでくれたネクタイに指を這わす。
卒業の思い出は、ひとつでも多いほうがいい。獄寺と一緒にいた思い出だ。大切にしたい。
しばらく綱吉がネクタイを弄っていると、獄寺が不意に机からおりた。
窓の下には、もうほとんど人影は見えない。
「そろそろ帰りましょう、十代目。山本ン家で、たらふく寿司食わせてもらわないと」
悪戯っぽく獄寺が笑った。
「そうだね」
綱吉も立ち上がる。カバンを手に、獄寺と並んで教室を後にする。
「……やっぱりよれてる」
廊下に出たところで綱吉は立ち止まった。
「え?」
同じように獄寺も立ち止まる。
「ネクタイよれてるよ、獄寺君」
怪訝そうな顔の獄寺の喉元へと手を伸ばし、捩れたネクタイの形を無理に整え、綱吉はなんとか真っ直ぐに伸ばそうとする。
「や、このままでいいっスよ、十代目。せっかく十代目に結んでもらったネクタイっスから、このままでいいんです」
よれたネクタイは締まりなくてあまり格好良くは見えなかったが、それでも獄寺は満足そうだった。
「じゃ、行こっか」
声をかけると、獄寺は大きく頷いた。
「はい、十代目」
そう言って、二人で肩を並べて廊下を歩き出す。
その時、開け放たれた廊下の窓から清々しい風が入ってきて、二人の背後に一枚の桜の花びらが舞い込んできた。
花びらは、まるで二人の卒業を祝っているかのようだった。
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