放課後少年 1

  放課後の学校で、キスをした。
  薬品くさい理科室の片隅で唇を合わせた。乾いた獄寺の唇はしかししっとりとしてて、やわらかだった。
  甘橘系のコロンのかおりと煙草と硝煙のにおいが入り混じったキスに、綱吉はドキドキした。
  唇が合わさっている間に壁のすぐ向こうの廊下をパタパタと駆けていく誰かの足音が聞こえてきたが、小心者の綱吉にしては珍しく、ぐっと獄寺の肩をつかんで離さなかった。シャツの下の獄寺の肩がピクリと動いたのを、綱吉のてのひらは覚えている。
  息を止めているのが苦しくなってうっすらと目を開けると、獄寺の顔が間近にあった。ややカールしかかった長い睫に、綱吉はドキッとする。整った顔立ちだ。眉間に皺を寄せていると恐くみえることもあったが、今は穏やかな顔をしている。
  掃除当番を押し付けられ、一人で掃除をしててよかったと、妙なところで綱吉は嬉しくなる。まさか校内で獄寺と二人きりになって、こんなことになるだろうとは予想もしていなかったのだ。
  息苦しさを感じて綱吉は、ようやく獄寺から唇を離した。
  唇の端に残った唾液が水滴となって獄寺の口からたらりとこぼれ落ちるのを、綱吉は人指し指でぬぐってやった。
「あの……」
  なにか言いかける獄寺の前髪をさっとかきあげてやる。
「ごちそうさま。さっき、パックのフルーツジュース飲んだでしょ」
  真面目そうな表情で問かけると、獄寺の顔が一瞬にして真っ赤になった。
「あのっ、そ、それは……」
  両手を大きくばたつかせて一生懸命に言い訳をしようとする獄寺がその途端、やけに可愛く見えた。



  自分と同じ男だというのに、獄寺を見ていると妙な気持ちになってくる。
  頭半分ほど自分よりも背が高くて、時々恐い獄寺のことを可愛いと思う自分はどうかしているのではないだろうか。綱吉自身、あまり突き詰めて考えることはしなかったが、どうやら自分は獄寺のことが好きなようだということに気付いたのがつい半月ほど前のことだ。
  相変わらず笹川京子には憧れていたし、彼女のことを好きな気持ちもまだほんのりと残ってはいるが、それ以上に獄寺を好きな気持ちを抑えることができない。
  たった今、キスを交わしたことで綱吉は理解した。自分は獄寺のことが好きだし、彼をそういった性的な対象としても見つめている。
  獄寺のほうがどんな気持ちなのかはわからなかった。しかしこうして男の自分とキスをしても平気だということは、おそらくはお互いに同じように相手のことを想っているのということなのではないだろうか。
「屋上のがよかったかな」
  ポツリと呟くと、怪訝そうに獄寺が見つめ返してくる。
「……ううん、なんでもないよ」
  そう言って綱吉は、小さく笑った。



  唇に残るキスの感触が、拭っても拭っても、拭いきれない。
  体が熱かった。
  全身に微熱が回るのは、あっという間だった。それから唇が、さらに熱く感じられた。
  何故、獄寺はキスに応じたのだろう。
  男同士だということに対する抵抗はなかったのだろうか? 嫌悪感は、感じなかったのだろうか。
  放課後の校内はひっそりとしていたが、廊下を二人が歩いていくのはなんだかドキドキした。これもキスの余韻だろうか?
  長い長い廊下を歩いていくうちに、綱吉はふといいことを思いついた。
  立ち止まり、獄寺が追いつくのを待つ。
「どうかしたんスか、十代目?」
  怪訝そうに獄寺が尋ねるのに、綱吉は邪気のない笑みを向けた。
「手、出して」
  そう言うと、獄寺が手を差し出すのを待つ。
「こう…ですか?」
  ほっそりとした手が差し出され、綱吉はきゅっとその手を握りしめた。
「わっ、ちょ、十代目……」
  驚いた獄寺が声をあげる。
  唇の前に人差し指を立てて、シーッと綱吉は言った。
「静かにしないと、気付かれちゃうよ」
  本当は、気付かれても構わないと思っていた。手を握ったまま、綱吉は前を向き、昇降口へと続く渡り廊下を目指して歩きだす。
「じゅ、十代目ぇ……」
  珍しく困ったような獄寺の声が、なんだか可愛らしく思えてくる。
「大丈夫だって」
  そう返すと綱吉は、握った手にわずかに力を入れた。獄寺の手も、同じように握り返してくる。
  唇だけでなく、繋がった手も、今は熱っぽかった。



  じっとりと湿った手の中で、獄寺の手がもぞもぞと動いている。
「どうかした?」
  汗ばんでいるのが気になるのだろうか。綱吉だってそれは、気になっていた。獄寺と手を繋いでいるのだと思うと、自然と汗ばんできて、手が湿ってしまったのだ。やっぱり嫌だったのだろうか? 不安そうに獄寺のほうを見ると、彼は困ったように視線を逸らした。
「すっ…スンマセン、十代目」
  ボソボソと獄寺が呟く。
「俺、手が汗で……」
  そう言いながらも手を離そうとしないのは、どうしてだろう。
  綱吉だって、自分の手が汗ばんでいるということはわかっていたが、手を離すことができなかった。このまま、人目のない限りずっと手を繋いでいたいと思うのはどうしてだろう。
「いいよ。オレ、気にしてないから」
  いいや、本当は気にしているくせにと、心の中で綱吉は思う。汗ばんだ手を獄寺が嫌がらないだろうかと、そればかりがさっきから気になっていたのだ、綱吉は。
  それよりも、と、綱吉は呟いた。
「どこまで手を繋いで行けるかな」
  その言葉に獄寺は、ハッと顔を上げた。
「どこまで……?」
「昇降口まで手を繋いでられたらいいのにね」
  そう言って綱吉は、ニッと笑った。
  獄寺は、恥ずかしそうにそっと目を伏せた。



  キスがしたい。
  獄寺と、キスをしたい。
  放課後の教室で、廊下で、屋上で。人目がなければどこでだってキスをするのにと綱吉は思う。
  キスをして、獄寺のあのサラサラとした銀髪や白い指に触れてみたい。
  抱きしめたら、きっとコロンと煙草のにおいがするはずだ。
「獄寺君は……」
  言いかけて、ふと綱吉は口を噤んだ。
「なんですか、十代目?」
  尋ねかける獄寺に首を横に振ると、綱吉はさっと手を引いた。汗ばんだ手が離ればなれになり、頼りなげに獄寺の指先が宙をひらりと掴もうとした。
「誰か、来る」
  残念、と、綱吉は呟いた。
  もう少しだけ、手を繋いでいたいと思った。汗ばんだ手でも構わなかった。獄寺と手を繋いでいたいと思う気持ちは、いったいなにがしたかったのだろうか。
「……キス、してくれる?」
  靴箱の影に隠れて、綱吉は掠れる声で囁いた。
「え……」
  なにを言われたのだろうかと、怪訝そうに獄寺は綱吉の顔を見つめ返してくる。
  聞こえなかったのだろうかと思い、綱吉は口を開いた。
「だから、キス…──」
  言いかけた綱吉の唇に、獄寺の唇が覆い被さった。
  一瞬にして綱吉の体中の血という血が沸騰したような感じがした。



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(2010.6.29)


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