夜の学校に忍び込むのが恐いわけではない。
ただ、風の音がうるさくざわめいているのが気にかかるだけだ。
自分で言っておいてビビってしまうなんてと獄寺は思う。
ビュウ、ビュウと風の音が耳元で響いている。
空は赤黒く、雨のにおいをたっぷりと含んでいる。湿度が高いからだろうか、じわりと伝い落ちる汗で肌がベタベタして気持ち悪い。
ちらりと空を見上げてから獄寺は、眉間に皺を寄せる。ゴクリと唾を飲み込んで硬く閉ざされた学校の門扉に手をかけた。鍵がかかっているのは最初からわかっていたことだから、門扉を乗り越え、教室へと向かった。
十代目をお待たせすることになっちゃ、申し訳ないからな──口の中で小さく呟いて、獄寺は薄暗い廊下を歩いていく。
リノリウムの床が時折、キュッ、キュと小気味のよい音を立てる。
教室のドアは、開いていた。
ちらりと中を覗き込むと、先に来ていた綱吉が、ゴロゴロと稲光の走る空を熱心に見上げているところだった。
「十代目……」
そっと教室へと足を踏み入れると、気配を感じてか綱吉が振り返った。
「獄寺君……早かったね」
どこかホッとしたような表情で、綱吉が声をかけてくる。学校とは言え、夜の十一時を過ぎた頃だ。しかも台風が近づいてきているこんな時に、一人で待たされるのはあまりいい気分がしないだろう。
「スンマセンでした、こんな時間に呼び出してしまって」
獄寺が言うと、綱吉は気にしてないよとニコリと微かな笑みを浮かべる。その向こうで、空を引き裂くかのように稲妻が光った。
台風が近づいてきていると聞いたのは、昼休みのことだった。
低い気温の割に湿度は高く、少し動いただけでも肌がじわりと汗ばむ不快感を獄寺は朝から感じていた。
コンビニで買ってきた菓子パンをもそもそと食べていると、一緒に昼を食べていた綱吉と山本が台風の話をし始めた。新聞を取っていない獄寺は、台風が近づいてきていることすら気づいていなかった。家にはテレビがあったが、それも朝の忙しい時間は時計代わりに見る程度で、流れている放送の内容までは頭の中には残らない。台風か、と、獄寺は思う。
今日は九月九日、獄寺の誕生日だ。
せっかくの誕生日に台風がくるのかと思うと、少しばかりムッとなる。
仲間の誰にも誕生日のことは話していないが、せめて綱吉には知っていて欲しいと思わずにはいられない。
いつ切りだそう、どんなふうに伝えようかと思っている間に時間はどんどん過ぎていき、気づくと午後からの授業が始まっていた。
「あぁ……」
小さく呟いて、獄寺は項垂れる。
誕生日だから、恋人と一緒に過ごしたいと思うのは我が儘なのだろうか。
「どうしたの?」
怪訝そうに綱吉は、獄寺の顔を覗き込んでくる。ずい、と間近に顔を寄せられ、獄寺はドキドキする。
「あ……」
誕生日を一緒に祝って欲しい。その一言をさらりと口にすることができたらいいのに。ただそれだけのことなのに、一言も言葉にできないというのは、珍しく獄寺のどこかに遠慮があるからだろうか。
「や、あの……」
言い淀んだ獄寺の手元を見ていた山本が、不意に声をあげた。
「わかった! 獄寺、パンだけじゃ足んねーのな」
へらっと笑って山本が指摘するのを、「ちげーよ」と獄寺は睨みつける。そんな獄寺と山本の様子を眺めていた綱吉が、やんわりと笑みを浮かべる。
「じゃあ、これ、どうぞ」
そう言って綱吉が、箸でつまんだウィンナーを獄寺の口元へと持っていく。
「はい、あーん」
その言葉につられて、獄寺はあーん、と雛鳥の如く口を開けた。
結局、終礼のチャイムが鳴っても獄寺は自分の誕生日のことを綱吉に告げられずにいた。 放課後は野球部の活動がある山本は、チャイムが鳴ると同時にいそいそと部室があるクラブハウスへと足を向ける。
「じゃあな、ツナ、獄寺」
教室を飛び出していく山本はいつも楽しそうだ。台風が来ようが、雨が降ろうが、野球の二文字の前にはそんなことは関係ないらしい。
「気楽でいいよな、野球馬鹿は」
ほんの少し、憎らしいと思わずにいられない。自分もあんなふうに明け透けにものを言ってみたいと獄寺は思う。
「……帰ろっか、獄寺君」
綱吉の言葉に促されて、獄寺も教室を後にした。
まだ少しざわついている廊下を、綱吉と並んで歩いていく。校門を出る頃には生徒の影も少なくなり、少しは会話を交わしやすくもなるだろうかと期待していたのに、そうはならなかった。
歩きながら獄寺は軽い緊張を覚えていた。
誕生日なのだと告げるのが、こんなにも緊張することだとは思わなかった。
いつ、話そう。どうやって話そうと考えているうちにまたしてもタイミングを逃してしまったらしい。
通学路をダラダラと歩いていると、京子とハルの二人が少し後ろを歩いてくるのに獄寺は気づいた。ハルは別の学校に通っているから、わざわざ京子と待ち合わせて一緒に帰っているのだろう。
二人はお喋りに夢中で、綱吉たちには気づくこともなく商店街のほうへと道を曲がっていった。おそらく、商店街をぶらついてから帰るのだろう。
「雨、降りそうで降らないな」
不意に呟いた綱吉は、本当に京子とハルの姿には気づいていなかったのだろうか?
なにも気づかなかったふりをして獄寺は、綱吉と共に歩き続けた。
握りしめた手の中で、じわりと汗が滲んでいた。
いつもの四叉路が近づいてくる。
獄寺は、ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「あのっ……」
言いかけて、口を噤む。
誕生日なんです。そう告げたら、綱吉はなんと言うだろうか。
立ち止まった獄寺は、恐々と綱吉の顔を覗き込む。
「えっ、なに?」
首を傾げて綱吉は、獄寺を見つめ返す。綺麗な淡い茶色の瞳に、吸い込まれそうだと獄寺は思う。
「今、夜……」
ポソリと獄寺は洩らした。
「その……今夜、教室で会ってもらえませんか、十代目」
誰にも内緒でつきあうようになって、初めての我が儘だ。しかし綱吉は黙りこくったまま獄寺をじっと見つめるばかりだ。駄目でしょうかと諦めて訊こうとした時、ようやく綱吉が口を開けた。
「いい……けど」
綱吉がなにか言いたそうにしていることはすぐにわかったから、獄寺は素早く口を閉ざした。
「いいけど、本当に今夜? 台風が最接近するって、獄寺君、知ってる?」
昼休みに綱吉と山本が言葉を交わしていたのはこのことだったのかと、獄寺は思う。あの時は自分のことで頭の中がいっぱいで、台風のことなど右の耳から入っても左の耳から抜け出てしまうような状態だったのだ。
「今夜じゃないと駄目なんス」
口の端をつりあげて笑おうとした途端、獄寺の鼻の奥がツンとした。
「わかった。じゃあ今夜、何時頃に教室に来ればいい?」
尋ねられて、獄寺は一瞬、躊躇った。
実のところ獄寺は、綱吉が応じてくれるだろうとは思ってもいなかったのだ。
「スンマセンでした、こんな時間に呼び出してしまって」
獄寺が告げる。声が少し掠れているのは、緊張しているからだ。
教室にやって来た獄寺を、綱吉はやさしい眼差しで迎えてくれた。
「大丈夫だよ。オレもさっき来たばかりだから」
そう言った綱吉の声に、雷音が重なる。
「うわ、すごい音」
耳が痛いと、綱吉が悪戯っぽく笑う。その様子に獄寺もホッとして、笑みを返す。
もしかしたら来てくれないかもしれないと、心の底で獄寺は思っていたのかもしれない。よくよく考えたら、仲間を大切にする綱吉が、獄寺との約束を違うようなことをするはずがないのに。
ぎゅっと両の拳を握りしめて、獄寺は綱吉のほうへと近づいていく。
喉がカラカラに乾いていた。それなのに、強く握りしめた拳の中は、廊下を歩いている時からずっと汗ばんでいる。
「それで……用ってなに、獄寺君」
ああ、と獄寺は思う。綱吉は知らないのだ、獄寺の誕生日を。いっそ、綱吉には言わずにすませたほうがいいかもしれない。こんなところで誕生日なのだと言われても、綱吉も困るだろう。
「ええと、ですね……」
言いかけたものの、獄寺の口は重い。
もたもたしていると、綱吉が近づいてくる。両手を取って、ずい、と獄寺の顔を覗き込んできた。
「──…誕生日おめでとう、獄寺君」
照れているのか、どこかしら綱吉の顔が赤いように見える。
「えっ、あの、なんで誕生日……」
言いかけた獄寺の指に、綱吉はそっと唇を押し当てた。
「知ってるよ、そんなこと。てか、好きなコの誕生日ぐらい知ってて当然だろ」
どこか誇らしげに綱吉は胸を張る。
獄寺は、鼻の奥がツンとするのを感じた。喉がヒリヒリとして、目の裏側が熱くなってくる。泣いてしまいそうなのは、綱吉の気持ちが嬉しくて、だ。
「十代目、俺……」
言いかけた獄寺の唇に、さっと手を解いた綱吉の指が触れる。
「獄寺君。お祝いの言葉、遅くなってごめんね」
間近で顔を覗き込まれて、獄寺はドギマギした。こんなに近くで見つめられたら、いくら暗がりとは言え、顔が赤いのがわかってしまうかもしれない。
パクパクと口を開けたり閉じたりしていると、チュ、と唇に綱吉の唇が重なった。
窓の外では雷が鳴り響いている。いつの間にか降り出した雨が、激しい風に煽られて窓に叩きつけられていた。台風が接近してきていると言っていたあの話は、嘘ではなかったのだ。
稲光が走り、綱吉と獄寺の姿が一瞬、暗闇の中に浮かびあがったように見える。
「嵐の守護者の誕生日にピッタリだね」
腹にゴロゴロと響く雷の音に負けないように、綱吉が声をあげた。
「あ……ありがとうございます、十代目!」
獄寺も、雷の音に負けないように叫び返す。
夜のこんな時間に呼び出されて怒っていてもおかしくはないのに、綱吉は笑っている。心の底から獄寺の誕生日を喜んでくれているようだ。
「ありがとうございます」
そう呟いて獄寺は、綱吉の首にしがみついていった。
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