Un bacio della felicita 1

  初めてキスをした時から、二人だけの暗黙の了解がある。
  ──その唇は、誰にも触れさせないで。
  どちらが口にした言葉だったか、今はもうおぼろげな記憶の彼方だが、確かに二人のうちのどちらかがそう言ったのだ。
  口づけを交わす回数が増えていくと、相手の体に触れたくなった。手を握るところからはじめて、腕を辿り、肩をするりとなで、喉から顎を伝い頬の輪郭、耳たぶを辿って髪に指を差し込む。
  キスの後の唇が離れていく感触が、獄寺は苦手だった。
  物欲しそうにうっすらと開いた自分の唇を閉じようとすると、すぐに綱吉の指が唇に触れてくる。
  そうしておいて綱吉は、言うのだ。
「この唇は、誰にも触らせちゃダメだよ」
  やさしい、歌うような綱吉の声に、獄寺は胸の奥に痛みを感じる。
  触らせはしない。
  綱吉以外の誰に、自分の唇を触れさせるというのだろうか。
  自分はそんなにも信用されていないのだろうかと思うと、いつも胸の奥がチリチリと痛んだ。
  だからキスは、苦手なのだと獄寺は思う。
  もうずっと昔からそうだ。
  なにも気にせず、不安にならずにキスすることができたならと思うこともある。
  せめて綱吉が、キスの後にあの言葉を口にしなかったら。
  そうしたら自分は、こんなにも不安になることはないのにと思わずにはいられない。
  だけど綱吉は、なにかというと獄寺にすぐキスをしようとする。
  互いの思いを伝え合うのにキスをするのだと言って、ところ構わず獄寺に触れてくる。
  触れて欲しくない。
  これ以上は、綱吉の好きにされたくない。
  このところ獄寺は、そんなふうに思うようになった。
  キスの後の綱吉が嫌でたまらない──



  軽い夕食会を兼ねた打ち合わせが終わると、ようやくその日の綱吉の予定が終了する。
  いつもより少し遅くなったからだろうか、綱吉は後ろのシートでうとうとと眠そうにしている。
  運転席でハンドルを握りながら獄寺は、小さく溜息をついた。
  ここしばらく忙しいのは、同盟ファミリーのひとつに小さな動きがあったからだ。全体から見ると些細なことのように思えたが、綱吉にとってはそうは思えなかったらしい。本部に連絡が入った時から綱吉は、各地の同盟ファミリーと連絡をいつもにも増して密に取るようになった。
  何が綱吉の気にかかっているのかわからないが、ボスとして気にかかるのであればどこかに問題が潜んでいるということなのだろう。
  獄寺をはじめとする守護者たちはいつもとかわりない日々を過ごしているが、どことなく緊張した空気に皆、気付きはじめているようだ。
  ハンドルを切りながら獄寺は、ちらりと後部シートの綱吉に視線を馳せた。
  いつの間にか本格的に眠り込んでしまった綱吉のために、獄寺はいったん車を路肩に停めた。
  ボンネットに積んでいる毛布を取り出すと、眠っている綱吉を起こさないように、肩口を包み込むようにそっとかける。疲れの見える顔はこのところ血色があまりよくない。ゆっくり休める時間が限られているのだから、当然のことだろう。薄暗い灯りの下でも、綱吉の目の下に隈ができているのがわかった。
  こんな時、自分は何と言えばいいのだろうか。
  十代目のために守護者である自分ができることは、限られている。一緒にいる時間がいちばん長い自分だからこそ、なんとかしたいと思う。しかし綱吉は、そんな自分の想いや気遣いをどのように感じているのだろう。
  眠る綱吉をしばらくじっと見つめていた獄寺だったが、最後に眠る綱吉の唇に指で触れた。それまで押し殺していた息をゆっくりと吐き出しす。
  車のドアをそっと閉めると、獄寺は運転席に戻った。
  屋敷に戻って、綱吉にベッドの中でゆっくりと休んでもらうことが、今の自分にできることだ。
  眠り続ける綱吉にもういちど視線を馳せてから、獄寺は車を発進させた。



  ボンゴレの屋敷に戻ると、獄寺は玄関前に車を停めた。
  待機していた部下たちの気配を感じてか、綱吉は毛布の下でもぞもぞと身じろぎをしている。
「ついたの?」
  眠そうな綱吉の声に、獄寺は頷いた。
「はい。屋敷についたところです。部屋まで一人で歩けますか?」
  尋ねると、綱吉は目を開けて、毛布をシートに無造作に置いた。
「運転してくれてありがとう、獄寺君」
  綱吉の言葉で獄寺は、運転席を降りた。
  部下たちの一人が後部ドアを開ける。綱吉が車から出てくると、厳つい顔をした男たちが一斉に頭を下げた。
「ああ、喉が渇いた」
  そう言うと綱吉は、悪びれもせずに、獄寺に笑みを向ける。
「酔い覚ましに、ちょっとだけつきあってくれる?」
  玄関を潜り、綱吉は足早に屋敷の中に入ると綱吉は言った。後について獄寺も屋敷に入る。何人かの部下たちに綱吉は軽く手を振ると、下がらせた。会食も無事に終えた今、仕事をする気などないらしい。
「お部屋になにかお持ちしましょうか?」
  獄寺が尋ねるのに、綱吉は「任せる」とだけ、告げた。
  よほど疲れているのか、階段をのぼる肩が下がり気味だ。
「わかりました」
  答えて獄寺は、厨房へと向かった。



  綱吉の世話をすることは、獄寺にとって苦にはならない。
  ボンゴレ十代目の世話を焼きたい人間は年々増えてきているが、綱吉のそばには信用できる者しか置かないようにしている。放っておくと綱吉は、誰彼構わず手元に置いてしまうことがあった。相手がどういう人間なのかわかりもしないうちから独自の判断で手元に置いてしまうことがあるため、守護者たちだけでなく部下までもが振り回されることが多々あった。
  往々にして綱吉の判断は間違っていなかったが、絶対ということはあり得ない。網の目を潜って妙な輩が紛れ込んでしまったなら、その時こそ守護者の出番だと獄寺は思っている。本当はそうなってしまう前になんとかしたいと思っているのだが、綱吉の気持ちを重んじようとすると、なかなかそうもいかないのが現実だ。脳天気な山本などは、きりがないからといって、たいして気にもとめていないようだったが。
  きりがなくても、やはり守護者として、そして十代目の右腕としては、わずかでも危険と判断したものは排除しておきたいものだし、少しでも快適に過ごしてほしいと思わずにはいられない。
  それが自分の務めとばかりに、獄寺はついつい張り切ってしまう。やりすぎだとリボーンから窘められることもあったが、十代目のためだと思えば、決してやりすぎというわけでもないだろう。
  厨房で軽く飲み物と軽食を見繕ってもらうと、獄寺はそれらを手に綱吉の部屋を訪れた。
  綱吉の護衛で疲れていないわけではなかったが、これしきのことで音を上げるわけにはいかないと、獄寺は目の前のドアをノックする。
  綱吉の返事を待ってドアを開けた時には、疲れなど感じさせない笑みを浮かべた獄寺が立っていた。



「失礼します、十代目」
  かしこまって獄寺が言うのに、綱吉は乾いた笑い声をあげる。
「いいよ、獄寺君。そんなに堅苦しいことしなくても」
  どうせ部屋には二人しかいないのだからと、綱吉はいつも言う。
  後ろ手にドアを閉めると獄寺は、トレーを部屋の中央に置かれたテーブルにのせた。
  ルームウェアに着替えた綱吉はソファの上で膝を抱えて獄寺の一挙一動をじっと見つめている。
「なんですか?」
  怪訝そうに獄寺が尋ねると、綱吉は子どものように唇を尖らせて呟いた。
「一緒に食べてくれるんだと思ってたのに」
  テーブルの上の一人分の食事に、綱吉は恨めしそうな目を向ける。
「おいしそうなんだけどさ、獄寺君が一緒に食べてくれないと、味気ないんだよな……」
  ちらりと上目遣いに獄寺を見上げ、綱吉が言う。
「すみません。さっき厨房で摘んできたんで……」
  困ったように獄寺は返す。
  本当は、食べるほどの気力もないほどに疲れていた。
  連日の会食に、獄寺の神経は綱吉以上に張り詰めていた。もちろん獄寺以外のボディガードも綱吉にはついていたし、他の守護者も交代でついている。しかしだからといって獄寺の気持ちまで軽くなるわけではないのだ。
「ああ……そうなんだ」
  それ以上は何も言わず綱吉は、獄寺が持ってきてくれた食事に箸をつける。
  それを見て獄寺は、二人の気持ちがどことなく遠く離れつつあるように感じた。
  自分は綱吉のために動いているつもりだが、どこか気持ちが通じていないのだ。
  このままではいけないと思いながらも、どうすればいいのかがわからない。
  ぼんやりと立ち尽くしていると、綱吉に名前を呼ばれた。
「獄寺君……獄寺君って!」
  綱吉の様子から、何度か名前を呼ばれていたらしい。
「君だって疲れてるんだから、そこに座るなり、シャワーを使うなりすればいいのに」
  その間に、自分は獄寺が持ってきてくれた食事を平らげてしまうからと、綱吉は言う。獄寺が口の中でうだうだ言っているの見た綱吉は、最後には少し怒っていたようだった。
「獄寺君、俺の仕事の時間はもう終わってるよ。そろそろプライベートな恋人同士に戻らない?」
  そう言われて、獄寺はそれもそうだと思い当たったようだ。
  綱吉に言われるがままに、シャワーを使うことにした。



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(2009.10.18)


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