Un bacio della felicita 4

  唇を押さえた手が、震えている。
  横になったまま体を縮こめて、獄寺はぎり、と唇を噛み締めた。
  鼻の奥がつんとすると、涙が出てきそうになる。慌てて奥歯を噛み締めると、押し殺した嗚咽が喉の奥でひくつくのが感じられた。焼けるように喉が、熱い。
「獄寺君?」
  怪訝そうに綱吉が声をかけてくる。
「す……みません、十代目。疲れてるみたいで、俺……」
  それだけ言うのがやっとだった。
  あとはただひたすら、唇を噛み締めてじっと息を殺すしか他はなかった。
「そう。疲れているのに無理言って悪かったね」
  そう言って綱吉は、獄寺のうなじに軽く唇で触れた。それからごそごそと体の向きをかえると、獄寺と背中合わせになるような格好で寝入ってしまった。
  余計なことはなにも言わなかった綱吉だが、きっと獄寺の様子に気付いていただろう。
  そう思うと、素直に不安な気持ちを口にすることのできなかった自分の不甲斐なさに獄寺は、いっそう悔しいような悲しいような気持ちになる。
  こんなにも好きなのに。
  この人のそばにいるためなら、自分はなんだってするだろう。
  それなのに今の自分は、彼を裏切っている。
  ただ一言、不安なのだと、何故、口にすることができないのだろうか。
  正直に告げてしまえばいいのに。
  暗闇の中で唇を噛み締め、獄寺はじっと壁を睨み付けていた。
  見開いた眼から涙がポロポロと零れ落ちてくる。
  口を塞いだ手を、零れ落ちた涙が濡らしていく──



  朝方、まだ早い時間に起き出すと獄寺は、そっとベッドを抜け出した。
  綱吉はよく眠っていた。
  きっと自分はひどい顔をしているはずだ。獄寺はシャワーを使って顔の腫れぼったい感じを少しでもなくそうとした。冷たいままの水を頭からかぶる。ザアザアというシャワーの水音の中に立っていると、またしても涙が出てきた。
  しばらくシャワーにあたっていたが、今回は綱吉がやってくることはなかった。
  ひとしきり泣いたところでシャワーの栓を捻り、お湯に切り替えた。
  浴槽に湯を張り、目についたバスキューブを放り込む。熱めのお湯にゆっくりと浸かると、湯船の中で膝を抱えた。
  この不安な気持ちを、いったいどう伝えたらいいのだろうか。
  綱吉が悪いわけではない。
  自分が、神経質すぎるのだろう、きっと。
  浴槽の中でじっとしていると、バスルームのドアがノックされた。
「獄寺君? 大丈夫?」
  綱吉の声だ。
  咄嗟に獄寺は顔をあげると、なんでもないふうを装った。
「はい、大丈夫です」
  いつものように明るく返すと、さっさと上がり支度を始める。バスキューブのラベンダーの香りが獄寺の白い肌からほんのりと立ち上た。
  夕べ着ていた服に袖を通すのは躊躇われたが、これしかないのだから仕方がない。素早く衣服を身につけると、獄寺はバスルームを後にした。不安な表情は微塵も残っていない。
  守護者であり、ボンゴレ十代目の右腕たる者に相応しい表情でもって獄寺は、綱吉に笑みを向けた。
「おはようございます、十代目。夕べはよくお休みになれましたか?」
  綱吉はやさしく笑い返した。
  穏やかな表情の下はしかし、怒っているのだろうか。いつもはやさしげな瞳が笑っていないことに、獄寺は気付いていた。



  不安な気持ちが高じてだろうか、このところ獄寺は、綱吉に唇を触れさせようとしない。
  指で触れることも、キスをすることも、拒み続けている。
  この唇は、間違いなく綱吉のものだと獄寺は思っている。
  ただ、嫌なだけだ。
  あの言葉は、してもいない不実を責められているような感じがして、たまらなく辛くなる。
  自分はそんなにも尻軽に見えているのだろうか。綱吉にとって自分は、どんな恋人として目に映っているのだろうか。
  そんな疑問が獄寺の頭の中に沸いてくる。
  時間とスケジュールが許す限り、獄寺は綱吉のそばについていた。これまでは。しかしそれも、自粛しなければならないかもしれない。
  綱吉はもしかしたら、獄寺のことを恋人とは思っていないのかもしれない。
  確かに自分たちは、世間一般で言うような恋人の定義からは少しばかり外れているかもしれない。男同士という意味では。しかしそれを除けば、二人はごくごく一般的な恋人とたいしてかわりはない。マフィアのボスと右腕という立場ではあったが、普通に恋をして、手を繋ぎ、デートを重ね想いを交わし合った。世間一般で言うところの大半の恋人たちと似たり寄ったりの道を歩んでいるはずだ。
  だが、綱吉はどう思っているのだろうか。
  そう思うと、ふつふつと不安が押し寄せてくる。
  そうこうするうちに獄寺は、綱吉の顔を見ることができなくなっていた。真っ直ぐすぎる目を見ると、胸の内の不安を見透かされてしまいそうな気がして、こわくなるのだ。
  どうしたらいいのだろうか。
  どうしたらこの不安を、取り除くことができるのだろうか。



  綱吉のいない夜を過ごすのは、こわくはない。
  一週間ほどの海外出張に自ら志願したのは、綱吉から離れて、一人で考える時間を持ちたかったからだ。
  出張が決まると獄寺は、綱吉に顔を合わすこともせず、イタリアへと出かけていった。
  出張前に顔を合わせてしまうと、なにかと詮索されそうな気がしたからだ。それだけではない。顔を合わせて言葉を交わしたなら後ろ髪を引かれそうな気がして、綱吉を避けるような態度を取ってしまった。
  だから獄寺がイタリア出張に出かけたと綱吉が知るのは、半日か一日後のことになる。
  常々、自分は十代目の右腕だと豪語している獄寺にとっては苦渋の決断でもあった。
  苛々となる自分を押さえながら獄寺は、空の時間を過ごした。空港に到着するころには少しどころではなくむしゃくしゃしており、誰彼構わず喧嘩を吹っかけたい気分になっていた。
  このままではいけないと思ったものの、なかなか気持ちは収まらない。
  そんなささくれた気持ちのまま、一週間をイタリアで過ごした。
  途中、綱吉から宿泊先のホテルに連絡があった。宿泊先は誰にも言わずに出かけたはずだった──いや、一人、いた。イタリア出張を持ちかけた雲雀にだけは宿泊先を教えていたと、獄寺はそこでまたげんなりとした。
  とにかく、自分にとってはあまり実りのない出張になったことだけは確かだ。
  綱吉と顔を合わさないことが逆に、獄寺を苛々とさせてしまったのだ。
  これでは逆効果だと、一週間の出張を終えた獄寺は不満だらけで帰国した。
  自分が不安に思っていたことなど、獄寺はすっかり忘れてしまっていた。



  空港には雲雀が気を利かせて迎えの車を待機させていた。
  部下の運転する車に乗って獄寺は、屋敷へと戻る。
  もう、逃げることはできない。
  一週間という猶予を手に入れ、綱吉から逃げ回っていたが、それももう終わりだ。
  綱吉と……そして現実と、向き合う時が来たのだ。
  溜息をつくと、運転手が怪訝そうにちらりと獄寺の気配をうかがうのが感じられた。あまりいい気分はしない。バックミラー越しに運転手をギロリと睨み付けると獄寺は、目を閉じた。
  舗装されたなだらかな道の終わりに、ボンゴレの屋敷がある。
  ぐるりとカーブを描いて屋敷の玄関先に車が停まるのを感じ、獄寺は目を開けた。
「お疲れさまでした」
  知らせを受けた獄寺直属の部下たちが迎えに出てきている。
「ああ」
  ぶっきらぼうに応えると、獄寺は荷物もそのままに執務室へと向かった。
  綱吉には会いたいような気もしたし、会いたくないような気もする。
  自分の不安をどうやって伝えようかと、結局はそのことばかりが頭の中をぐるぐると巡りだし、結論が出ないまま今に至っている。
  ──どうしよう。
  溜息をついて獄寺は、執務室のドアを睨み付けた。
  手を伸ばすのも躊躇われるのは、綱吉に黙って出張に出かけてしまったからだ。
  まるで逃げ出すようにして綱吉の元を離れてしまった自分が、何食わぬ顔をしてまた綱吉の元に戻るのは、気が引ける。
  頭が痛くなりそうな不安に、獄寺はゴクリと唾を飲み込んだ。
  綱吉はきっと、怒っているだろう。
  出張中に綱吉は何度か連絡を取ってきたが、そのどれもに獄寺は素っ気ない対応をしている。なにかと言い訳をして、綱吉に余計な話をさせないようにしてきたのだ。もしかしたら今頃は、怒り心頭に発しているかもしれない。
  どうしようかとドアの前で躊躇っていると、不意に背後からぎゅっと体を抱きしめられた。
「お帰り、隼人」
  耳元でやさしい声がしたかと思うと、うなじから耳のあたりに何度も唇で触れられた。
「──寂しかった」
  ストレートな綱吉の言葉に、獄寺の気持ちが挫けそうになる。
  その場に立ち尽くしたまま獄寺は、なにひとつとして言葉を口にすることができないでいた。



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(2009.10.28)


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