「十代目」
耳元に、吐息がかかる。
甘い甘い吐息に、綱吉は照れ臭そうに微笑んだ。
「なに、獄寺くん」
ベッドの中で、二人して裸で横たわっている。獄寺の白い肌に、朱色の跡が見えて綱吉は視線を明後日の方向に逸らした。
さっきまでドキドキとうるさかった心臓の鼓動が静かになってくると、どことからともなく恥ずかしさがこみあげてきて、恋人の顔をまっすぐに見ることもできない。
こんなにも好きなのに、と、綱吉は思わずにいられない。
「喉、渇きませんか?」
尋ねられ、綱吉はどう返そうか考える。
ここで自分が喉が渇いたと言えば、きっと獄寺は、何か飲み物を持ってくるだろう。気だるい体を無理に動かして、綱吉のために飲み物を持ってきてくれるはずだ。
さすがにそんなことを今の獄寺には頼めやしないと、綱吉は小さく笑った。
「俺は大丈夫。何か持ってきてあげるよ、獄寺くん」
そう言って綱吉は、ベッドから起きあがる。
こんな時、部屋に冷蔵庫を置いててよかったと思わずにはいられない。ツードアの冷蔵庫は少し小振りで、単身者用に見える。部屋の隅に置かれた冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターとスポーツドリンクが無造作に並んでいる。そのうちの一本を手に取り、綱吉はベッドに戻った。
「スポーツドリンクでもいい?」
尋ねる綱吉に、獄寺は笑顔を返す。
獄寺にしてみれば、綱吉からもらえるものなら何でもいいのだ。心底崇拝している綱吉の選んでくれるものなら、それが何であろうと構わない。それぐらい心酔しきっている。
「はい。ありがとうございます、十代目」
そう言って獄寺は上体を起こすと、綱吉の差し出したペットボトルを受け取る。
「冷たくてウマいです。十代目もどうっスか?」
獄寺の言葉に、綱吉は頷いた。
「うん。一口もらおうかな」
獄寺から受け取ったペットボトルに口をつけて、冷たい飲料水を飲み下していく。
ごくごくと飲み下した味はほんのり甘くて、口当たりも優しい。
「ありがとう、獄寺くん」
そう言って、ペットボトルを獄寺に手渡す。
これって間接キスだよなと、冷静な頭のどこかで綱吉は考えていた。
抱き合った後の時間が、綱吉は好きだ。
ベッドにゴロリと寝転がって他愛のない言葉をポツリポツリと交わし合う時間は、セックスの延長線上にあるような気がする。いつだったか、これもセックスの一部なんだと、ロマンチストな獄寺が言い張っていた。そうなのかもしれない。
気怠さが抜けていくのをじっと待ちながら、互いに相手の言葉に耳を傾ける。
いつも綱吉のほうが先に寝入ってしまうのだが、獄寺は文句ひとつ言うでもなく、気怠い時間を彼なりに楽しんでいるようだ。
好きという気持ちだけでは、一緒にいることはできない。
果たさなければならない責任や義務は山積しており、いつまで経っても気が安まらない。 こんなにも、好きなのに。
小さく溜息をついて綱吉は、ベッドにゴロリと転がった。
キングサイズのベッドは、獄寺と二人で横になっても広々と使うことができる。
こういう自堕落なことができるのであれば、マフィアのボスというのも悪くはないかもしれない。そんなことを考えてしまう自分が、時々、いる。
あんなになりたくなかったマフィアのボスになって、獄寺をはじめとする守護者たちと共にいる。
こんな生活はしたくないと思いながらも、獄寺と体を重ね続けている。
こんな自分では駄目だ。
自分が目指しているものは、マフィアのボスではないはずだ。
染みひとつない天井をじっと眺めながら、綱吉はぼんやりと考える。
隣でうつ伏せになった獄寺が、煙草を吸っている。漂ってくる紫煙のかおりに綱吉は、何故だか泣きたくなった。
目が覚めた時、獄寺はいなかった。
時計を見ると、十八時だった。結局、一日中ベッドの中でゴロゴロして過ごしてしまったようだ。
外は暗く、それと同時に空腹を感じた。朝も昼も食べていないのだから、当然だろう。
ノロノロと体を起こすと、ベッドから離れた。冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出し、その場でぐいぐいと飲んだ。フローリングの床を歩くと、裸足の足がペタペタと音を立てる。
獄寺はどこに行ったのだろう。
何か任務が入ったのだろうかと考えかけて、軽く頭を横に振った。
獄寺がいようがいまいが、自分は自分のすべきことをしなければならないはずだ。
起きて、顔を洗って、着替えるべきだ。
こんな時間に着替えても仕方がないと、心の片隅でもう一人の自分が囁いている。いまごろ起き出して、どうしようというのだ、と。
綱吉は頭を横に振ると、服に着替えた。
食堂へ足を運ぶのも億劫だったが、部屋へ食事を持ってきてもらうのも億劫だ。
誰にも会いたくないし、言葉を交わすことも面倒で、ただ一人でいたかった。
溜息を吐き出して、部屋を後にする。部屋を出る時はまだしも、アジトを出る時には誰かに声をかけるように言われていたが、それを無視して綱吉はアジトを出た。
行く宛などなかった。
表へ……自分の責任の及ばないどこかへ、逃げ出したかっただけだ。
フラフラと歩いていると、誰かに肩を強く引かれた。
なんだと思って振り返ったら、獄寺がひどく驚いたような顔をして立っていた。
「十代目……?」
なんでこんなところにと言いかける唇を、綱吉は人差し指で押し止める。
「俺がここにいるの、内緒にしてね」
悪びれもせずににこりと笑って綱吉が言うと、獄寺は困ったように目を逸らした。
「しかし……」
ボンゴレのボスがボディガードの一人もつけずにフラフラと出歩いているのはあまりよろしくないのではないかと、獄寺は尚も言い募る。
それぐらい、本心ではわかっていた。そういった煩わしいことは理解しているが、それではあまりにも息が詰まって仕方がない。たまにはこうして一人で、あてもなくフラフラとしてみたい時もあるのだ。
「頼むよ、獄寺くん」
そう言って綱吉が小首を傾げると、獄寺もとうとう折れてしまった。
「わかりました。そのかわり、今から俺が一緒に行動させていただきますから」
きっぱりと獄寺が返すのに、綱吉はこっそりと溜息をついた。
獄寺のことが嫌いだというわけではない。恋人として彼のことは大切にしているし、彼もまた綱吉のことを大事に想ってくれている。
ただ、一人になりたかっただけだ。
一人になって、子どものころのようにぼんやりと何も考えずに空を眺めたかった。
ひとつひとつの星を眺め、つまらない義務や責任や自分が背負っていかなければならない諸々のことなどを忘れたかった。
それだけのことだ。
「仕方ないなあ、獄寺くんは」
軽い調子でぽそりと呟いて、綱吉は暗がりの道を歩いていく。
どこに行こうかと歩きながら考えて、公園への道を辿った。
公園には誰もいなかった。
街灯の灯りに照らされて、薄ぼんやりとブランコが闇の中に浮かび上がっている。
「ちょっと休んでいってもいいかな?」
綱吉が尋ねると、気に入らないというふうに獄寺は眉間に皺を寄せながらも、黙って綱吉の後をついてくる。
どうせまた、この場所が危険だとかなんとか、そういったことを獄寺は口にしたいのだろう。
ブランコの座り木に綱吉は腰をおろした。大人になった今では足が地面について、うまく漕ぐことができなくなってしまった。もどかしさに、溜息を零す。
従順な獄寺は、そんな綱吉の胸の内など知るはずもなく、黙ってじっとブランコの脇に立ち尽くしている。
「……ねえ、獄寺くん」
綱吉が月のない真っ暗な空を見上げると、小さな白い点のような星が散らばって見えた。 「たまには、さ。泣きごと言ってもいいよね」
ぽつりと呟くと、獄寺が身じろぎをする気配が感じられた。
「時々、疲れちゃうことがあるんだ。今の俺って、何やってんだろ、って。ちゃんとできてるのかな? 俺、自分の目指しているものもわからない時があって……って、こんなこと言ってたら駄目だよな」
あははと空笑いをして綱吉は、獄寺を見上げた。
紺色の空の中に、柔らかな銀髪が浮き上がって見える。
「子どもの頃に戻りたいよ」
小さな声で、そう告げた。
ただただ自分は疲れているだけなのだということは、理解している。ここしばらく、忙しい日々が続いていた。昔と違うのは、そういった時にまず行動を起こすのは守護者の面々になってしまったということだ。自分はボスだから、じっと事態を静観していなければならないことが増えてきた。
正直に言うと、そういった状況が辛いのだ。
「ボス」というお決まりの枠の中から踏み出して、自分も皆と同じように動きたいのだ。 そういった綱吉の心境を理解してくれる人は、ここにはいない。
恋人である獄寺ですら、綱吉の胸の内まで理解しているとは言い難い。
もしかしたらディーノであれば、そういった綱吉の胸の内を理解してくれるかもしれない。同じボス同士、ままならない思いを理解し合えることもできるかもしれない。
すぐ近くに立ち尽くした獄寺の拳が、ぎゅっと握りしめられ、それからゆっくりと開いた。だらりとさげられた手は、弱々しくて、どこか頼りなさげだった。
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