暗がりのにおい 2

  何とか三人がかりで宿題を終わらせることができた。
  ついさっき、山本と獄寺は家へと帰っていった。
  二人がいなくなった綱吉の部屋はシンとしていて、何故だか寂しかった。
  ミニテーブルを片付けて、パジャマに着替えた綱吉はベッドに潜り込んだ。
  何気なく唇に指をあてると、そっと輪郭をなぞってみる。
  この唇に触れたのは、獄寺の……唇、だろうか?
  確かめてみたい。
  映画館の暗がりの中で自分の唇に触れたものが獄寺の唇なのか、それとも何か別のものなのかを知りたいと、綱吉は思った。
「やっぱ、本人に直接訊くのがいちばん手っ取り早いんだろうな……」
  ポツリと呟いて、それからふと綱吉は口を閉じた。
  いったいどうやって尋ねればいいというのだろう。
  考えれば考えるほど、恥ずかしさが増してくる。
  顔を真っ赤にして枕に顔を埋めると、ベッドの上をゴロゴロと何度も横転した。
  映画館で、唇があたったよね──とでも、尋ねればいいのだろうか? どう訊くのがいちばんいいのだろうか。あれこれ悩みながら綱吉は、ぐっと枕を腕に抱えた。
  どう考えても恥ずかしくてたまらない。
「やっぱりダメだ、恥ずかしい」
  最後にそう呟くと綱吉は、頭からケットをかぶってベッドの中に潜り込んだ。
  その夜は、ぎゅっと目を閉じても、心臓がドキドキとしていつまでも寝付くことができなかった。



  翌朝、寝不足気味の顔で綱吉は登校した。
  映画館でのことを考えていて眠れなかったのだ。
  いくら考えても、自分のほうから尋ねるのは恥ずかしい。もしも獄寺のほうからなにか言ってきたらどうしよう。自分は、なんと返せばいいのだろう。
  暗がりだったとはいえ、唇と唇が触れたかもしれないのだ。いや、たぶんあれは、唇の感触だ。しっかりと唇と唇が、触れていたと綱吉は思う。
  自分の唇が偶然とはいえ、気になっている相手の唇に触れたのだと思うと、それだけで綱吉の体がカッと火照りだす。きっと顔も赤くなっているはずだ。
  どうしよう。会った時にどんな顔をしたらいいのだろうと不安に思っていると、通学路の向こうのほうから山本がやってきた。
「おはよう、ツナ」
  いつもとかわらない山本の態度に、綱吉はホッとした。万が一、獄寺と二人だけになったりでもしたら、今の綱吉にはどうにも対処することができない。
  困ったなと思いながらも、しかし獄寺に会いたいと思う自分がいる。
  気まずいことにかわりはないが、山本がいるならなんとかなるだろう。
  当たり障りのないいつもの会話をしているうちに、獄寺の姿が道の向こうに見えた。獄寺が来るのを待つ。
「十代目ー、おはようございます!」
  いつもとかわらない獄寺の様子に、綱吉はどこかホッとしたのだろうか、無意識のうちに胸をなで下ろしていた。



  もういちど、あの暗がりで二人きりになりたいと、綱吉は思う。
  もういちどだけ。
  そうしたら、なにかがわかるかもしれない。
  あの時の獄寺がなにを考えていて、どう思っていたのかが、理解できそうな気がする。
  しかし映画館に行くのは気が引けた。
  まるでああなることを……偶然とはいえ、唇と唇が触れ合う瞬間を期待して、獄寺を映画に誘うのは狡いのではないかと思えて、なかなか言い出すことができないでいる。
  どうしたらいいのだろう。
  自分は、獄寺になにを、どのようにして伝えたらいいのだろう。
  どうしたらいいのだろうかと悶々と悩んでいると、時間だけが無駄に過ぎていく。
  かといって、山本やリボーンや、ハル、京子に相談できるような内容でもない。いや、山本ならもしかしたら親身に相談に乗ってくれるかもしれないが、期待しているような答が返ってくるとは思わないほうがいいだろう。
  やはり自分でなんとかするしかないのだろうかと溜息をつく。
  ふと顔をあげて獄寺のほうをちらりと見ると、視線が合った。
  迷いのない眼差しがまっすぐに、綱吉を見つめていた。



  四時間目の授業が終わると、昼休みだ。
  天気がいいから屋上で昼食をとろうと、山本も交えて三人で教室を後にした。
  綱吉の態度が朝からぎこちないことに気づいているのか、山本も獄寺も借りてきた猫のようにおとなしくしている。
  弁当を持って屋上のドアを開けると、さぁっ、と風が頬にあたった。
  心地よい秋の風を、綱吉は深く吸い込んだ。
「一番乗りだよ、二人とも!」
  声をあげて綱吉は屋上へ飛び出していく。
  誰もいない屋上は広々としていて、静かだ。端のほうに寄ってフェンス越しに中庭を見おろすと、これから弁当を食べようとしている者や、早々と昼食を食べ終えた生徒が何人か、思い思いにくつろいでいる姿が見える。
「俺たちも食おうぜ、ツナ」
  山本が声をかけるのに、綱吉は振り返り、頷いた。
  中庭を見下ろすことのできる場所に陣取って、三人で弁当を広げた。母に持たせてもらった弁当は少し大きめのものだ。山本や獄寺と一緒にお昼を食べるようになって、おかずを交換しても困らないようにと母が気を利かせてくれたのだ。
  三人でいると、気が楽だった。
  今日は特に、獄寺との会話に集中できないでいる。
  意識しすぎているのだということは、自分でも理解していた。
  もしかしたら、獄寺にとっては映画館でのことなど、たいしたことではないのかもしれない。そう思うと、少しだけ綱吉の胸のあたりがチクリと痛んだ。
  それに、はっきりと言葉にして「好き」だと伝えたわけでもない。日常的に獄寺が示してくる好意と自分の『好き』という気持ちが同じものなのか別のものなのかも、綱吉には今ひとつ判別がつかないでいる。
  いったい自分は、獄寺のことが本当に好きなのだろうか?
  考えれば考えるほど、きりがなくなってくる。



  『好き』という気持ちを分類するのは、難しい。
  気持ちに優劣などつけることはできないし、そんなことはしてはいけないと思う。
  暗がりの中を手探りで進む自分は、ひとつひとつの『好き』を確かめていかなければならない。
  山本への『好き』は、親友としての気持ちだ。京子に対する『好き』が淡い憧れだということも、綱吉は知っている。
  しかし獄寺に対する『好き』は、どう表現すればいいのだろうか。親友とも違う、憧れともどこか違うこの気持ちは、いったいなんと呼べばいいのだろうか。
  右腕としても親友としても認めているが、そのどちらも、『好き』で表現で表現しようとすると、微妙に違ってくる。
  この気持ちを、どう表現すればいいのだろうか。
  友達の獄寺も、右腕の獄寺も、どちらも大切に思っている。どちらの立場であっても獄寺に対する気持ちがかわることはないと思っているが、最近、それだけではすまなくなってきた。
  少し前に喧嘩をした時に気づいたのだが、自分は獄寺のことを好いている。
  ただ純粋に、『好き』なのだ。
  あの時の自分は、友達の獄寺と右腕の獄寺、どちらも手に入れたいと思っていた。自分はなんと欲張りなのだろうとあの時は思ったものだ。
  それ以上に欲張りだと思うのは、友達でも右腕でもない獄寺を今は、手に入れたいと思っていることだ。
  どうすれば手に入れることができるだろうか。友達であり右腕でもある獄寺にもうひとつ、恋人という名の枷を与えるには、どうしたらいいのだろうか。
  いいや、そもそも誰かを手に入れたいだとか、枷を与えて縛り付けようと思うことのほうが間違っているのではないだろうか。
  自分はいったい、どうしたいのだろう。
  獄寺と、どうなりたいのだろうか。
  綱吉は深く息を吐き出した。
  自分の気持ちを探ることは、暗がりの中で目を開き、耳を澄まし、じっと感覚を研ぎ澄ますこととどこか似ている。
  映画館の中で、わずかに触れた獄寺の肘を感じたあの瞬間、緊張しながらも自分は何を思っていただろう。
  そして獄寺は、自分のことをどう思っているのだろうか──?



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(2009.9.14)


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