『恋をした日』



  あの唇に、触れてみたい。
  触れたらどうなるのだろうかと純粋に興味を持ったことがある。
  別に、相手は誰でもよかったのかもしれない。
  目に付いたのがサンジだったから、手を伸ばしてみた。
  たまたま……そう、たまたま、サンジが目の前にいたから。だから、あの唇に触れてみただけだ。
  サンジの唇は柔らかかった。他のヤツの唇もこんな感じなのだろうかと、少し気になった。指先で唇に触れると、輪郭をなぞっていく。下唇を軽く押すと、舌先でペロンと指を舐められた。ゾロが手を引っ込めるよりも先に、サンジの手に手首を掴まれていた。
  ポカンと、サンジの顔を見つめた。
  気付かれるとは思っていなかった。
  こんな風に捕らえられてしまうだろうとは、思ってもいなかった。
  サンジの顔を見て、不思議そうにゾロは首を傾げる。
「おかしいな……」
  呟くと、もう一方の手でまた、サンジの唇に触れた。
  弾力のある厚い唇は、少し乾いていた。柔らかくてすべすべとしている女の唇とは違ったし、商売女のベッタリと紅のついて化粧のにおいだらけの気持ち悪い唇とも違った。
「何がおかしいんだ?」
  尋ねられ、ゾロはサンジの顔を見つめた。
「……違うんだ」
  何が、とは、言わなかった。
  ゾロの言葉をサンジがどうとらえたかはわからない。
  サンジはふぅん、とだけ返して、ゾロの指にそっと口づけた。
「っ……」
  ピクン、と、ゾロの手が震えたが、逃げる素振りは見せなかった。
  だからサンジは、そのままゾロの唇に口づけた。
  それが、すべての始まりだった──



  お互いに男で、同い年で、同じぐらいの身長で。
  それなのに二人は対照的だった。
  だから、互いに相手のことが気になった。
  悪くはない関係だと、二人ともがそれぞれに思っていた。
  その均衡を崩したのは、どちらのほうからだったのだろう。
  互いに意識していたから、もしかしたら、どちらからということはないのかもしれない。
  ゾロは、サンジに。
  サンジは、ゾロに。
  お互い、気になっていた。気持ちを奪われていた。
  最初に動いたのは、ゾロだった。サンジの唇に指先で触れた、あの瞬間が、すべての動き始めた瞬間だった。
  キスの合間にゾロは、息継ぎをした。
  サンジの唇は優しくて、舌は滑らかだった。
  何事も経験と、昔、何度か連れて行かれたその手の店で買ったどの女よりも優しい舌で、舌を吸い上げられ、歯の裏を舐めあげられた。
  キスだけで頭の芯が熱くなり、クラクラとした。
「ぅ……んっ……」
  ゾロが鼻にかかった甘えるような声を洩らすと、サンジの舌はいっそう深く、ゾロの舌を吸い、縋り付くような動きをした。
  いつの間にか、ゾロの手は、サンジのシャツを掴んでいた。パリッと糊のきいたシャツが皺になるぐらい強く握り締め、必死になってサンジの舌の動きに応えていた。
  唇が離れると、ゾロは、唇の端の涎が糸を引いてサンジの唇で光っているのに気がついた。サンジの唇はキラキラと光っている。
「あ……」
  言葉は出てこなかった。
  ゾロの目の焦点はなかなか合わず、ぼんやりとした眼差しでサンジを見つめていた。
「──気持ちよかったか?」
  そう尋ねられ、不意に我に返ったゾロは怒ったようにサンジを睨み付けた。
「なっ……あ……おまっ……」
  言葉の出てこないゾロに、サンジは笑いかける。
「無理すんな。気持ちよかったんだろ?」
  ニヤニヤと笑われ、ゾロはますます頭の中がグルグルしだす。いくつもの言葉が頭の中に同時に浮かび上がっては、どれから言葉にすべきなのかがわからず、パクパクと口を開けたり閉じたりした。



「──それで、何が違うのか、わかったか?」
  しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したゾロに、サンジは声をかける。
  さきほどの言葉のことを指しているのだということに気付き、ゾロはサンジをギロリと睨み付けた。
「別に……」
  それだけ言うとゾロは、サンジに背を向けた。
  何がおかしいのか、何が違うのか、サンジにうまく説明することはできないかもしれない。
  おかしいと思ったのは、自分がサンジにあんなに簡単に捕まえられてしまうだろうとは思っていなかったからだ。違うと思ったのは、商売女のけばけばしい唇と、サンジの柔らかい唇の違いを思い、呟いたのだ。
  そのキスの優しさに、ゾロは、陥落させられそうになった。
  サンジは知らなくてもいいことだ。こういったことは知られると恥ずかしさが募るものだから、サンジは知らなくてもいいだろう──そんな風にゾロは思い、それ以上は何も言わなかった。
  ゾロは溜息をひとつ、吐いた。
  胸の内を知られるというのは、怖いことだ。
  やましいことは何もないはずなのに、サンジに、自分の気持ちを知られることが怖ろしく思える。
  これは……この気持ちは、いったい何と名付ければいいのだろうか。
  甲板の隅に置いた鍛錬の道具類を片っ端から試しながら、ゾロはその日の残りを過ごした。



  昼間のことを考えると、なかなか寝付くことができない。
  あれこれと考えているうちに、わけがわからなくなってくる。
  ゾロは苛々と爪を噛み、男部屋を抜け出す。甲板へと出ていくと、夜中を少し過ぎた頃の海は真っ暗で、潮の濃いにおいがあたりにたちこめていた。
  爪を噛みながらゾロは、暗い海を見下ろす。時折、魚が跳ね上がって海面を叩きつけるような音がそこここで響いていた。
  ──触りたいと思っただけなのに。あの唇に、触れてみたいと思っただけなのに。
  ぼんやりとそんなことを思いながら、ゾロはまた爪を噛んだ。
  爪を噛むのは幼い頃からの癖のひとつだ。幼い日に、くいなと勝負をして負けるとは一人でひっそりと爪を噛んでいた。爪の形がかわるからやめるよう、何度もくいなに注意されたことがあったが、この癖がなおることはついぞなかった。
  いつだったかナミに、口寂しいから爪を噛むのだろうと言われたことがある。それも一理あるかもしれない。
  とにかく、爪を噛まなければ気持ちが落ち着かないのだから仕方がない。
  甲板の手摺りに寄りかかり、ゾロは親指の爪を噛む。誰か、この癖をとめてくれないだろうか、注意してくれないだろうかと、そんな淡い期待を抱いて、一心にゾロは爪を噛み続けた。
  勢いよくカシ、と爪を噛むと、端の方が噛み切れた。慌てて指を離し、口の中に残った爪のかけらをゾロは海へと吐き捨てた。
  爪の形がかわるというのは、噛み切れてガタガタになってしまうということなのだろうかと、そんなことを思いながらゾロは爪を眺める。暗がりではよくわからないが、指で爪をなぞると、その部分だけデコボコしているのが感じられた。
  溜息を吐いた。
  自分は、サンジのことが好きなのだろうか。嫌いではないということはわかっているが、その先となるとよくわからない。
  唇に触れたいと思った──それだけでは、駄目なのだろうか。
  唇に触れたことの理由が必要だというのなら、サンジのことが好きだからそうしたのかもしれない。
  その時、その時の気持ちに名前をつけていこうとすると、どうしても思考がこんがらがっていき、わけがわからなくなってしまう。
  好き──なの、だろうか?
  自分の唇にそっと、指で触れてみた。
  サンジが触れた唇は、乾いてカサカサの男の唇だとゾロは思う。自分の唇は、サンジのような、優しい唇ではない。
  指の腹で唇をなぞると、昼間のサンジの唇を思い出し、ゾロは小さく身震いをした。
  そうだ。昼間、ゾロは、サンジとキスをしたのだ。男同士なのに。
  思い出した途端、頬がかっと熱くなった。





To be continued
(2007.8.27)



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