『Dare 5』
(作:篠宮 めえ)



  心臓の鼓動がドクン、とひとつ、大きく脈打つ。
  ゾロの一挙一動に怯える自分が情けなくて、サンジは唇を噛み締める。
  こんな臆病な自分は、知らない。こんなに人の目を気にして、心の底から怯える自分は……これは、自分ではない。ぎりり、と唇を噛み締めると、無造作にゾロの手があがり、サンジの顎を捕らえた。
  目を、合わせられなかった。
  顔を背けようとすると、強い力でぐい、とゾロの方に引き寄せられた。
「はな……せ……」
  歯を剥き出してサンジが唸ると、ゾロは喉の奥で微かに笑った。
  必死に抵抗しようとするサンジはいつもより幼く見えた。普段のサンジとは違って、駄々をこねる子供のようなどこか傷ついた瞳でゾロの手を睨み付けている。まっすぐに目を見ようとしないのは、サンジ自身、きまりが悪いからだろう。
「はなすかよ」
  そっと囁きかけてやると、サンジの抵抗がピタリと止んだ。
  信じられないといった眼差しが、ゾロの目をまっすぐに覗き込んでいる。
「誰がはなすかよ」
  掠れた声でゾロがもういちど言うと、サンジはふっと目を逸らした。力強い腕が、しっかりとサンジの身体を抱きしめている。ほんのりと香る汗のにおいと男の体臭に、サンジは逸らした目をきつく閉じた。
「──…ずっと……」
  唇の動きだけでゾロがひっそりと囁くと、サンジは身体の力をそっと抜いた。



  結局その夜、ゾロがサンジを抱くことはなかった。
  セックスになだれ込むにはどうも具合が悪いと、ゾロはその夜、サンジの身体に腕を回して眠った。
  ただ隣にいるだけのことなのに、サンジの胸は酷く痛んだ。
  格納庫で夜を過ごすことが気に食わないのではない。ゾロが、サンジ以外の男のことを考えているかもしれないから、胸が痛むのだ。
  薄汚れた毛布の上に起きあがって膝を抱えたサンジは、高鼾をかきながら眠る男の横顔をじっと眺めていた。
  あかり取りの窓から入ってくる月の光が、ゾロの頬を照らしている。
  横顔のラインは厳つく、男性的だ。呼吸をするたびに喉仏が上下している。時折、眠っているのに眉間に皺が寄るのがどこか可愛らしく、サンジは小さく笑ってしまった。
  こんなにも好きなのに。
  なのに何故、この男はサンジではなく別の男と唇を合わせるのだろう。サンジの知らないところでサンジの知らない表情を見せ、肌を合わせ、自分ではない男と抱き合っているのだと考えると、それだけでサンジの胸はキリキリと締め付けられるようだった。
  色恋とは無縁の人間だと思っていた。いつからゾロが船長との秘密の逢瀬を重ねていたのかを考える時、この男にもそんなことを続けるだけの一面があったのかとある意味、感心すらする。しかしサンジには、それがこの男には似つかわしくないようにも思えてならなかった。
  あれこれと考えて、その考えがまとまらずに悪い方へと向かいだしたところでサンジは煙草に手を伸ばした。
  後ろ向きの考えは、人を卑屈にさせる。つまらないことで思い悩むのは時間の無駄だと、サンジは頭を軽く横に振る。
  煙草に火をつけるかどうか考えあぐねていると、それまで眠っているとばかり思っていたゾロの手が不意に足首を鷲掴みにしてきた。
「眠らないのか」
  低い声だったが、優しかった。
  手のひらのあたたかさが、サンジの足首をじわじわとぬくめていく。
「今から寝る」
  そう返した途端、ぐい、と足首を引っ張られ、サンジの足がピン、と伸びた。
  ゾロが何と返したのかはわからない。ただ、次の瞬間、ゾロはサンジの足の指をパクリと口に入れ、舌を絡ませてきただけだ。
  くちゅり、と湿った音がする。足の指の股を舌で舐められ、指を吸い上げられた。ざらざらとした舌が指の付け根を這い回ると、それだけでサンジの身体の奥が疼きそうになる。足を引っ込めようとすると、さらに強い力で足首を捕まれた。
  逃げられない。
  サンジは、この男の手から逃げたくないと、頭の隅で微かに思った。



「言えよ。何が、お前を縛り付けているのか」
  野生動物の勘かと思うほど、ゾロの言葉は的確に今のサンジを表していた。
  ペロリと足の親指を舐め上げられて、サンジの喉の奥が低く鳴った。気持ちいい。もっと舐めてほしいと思って足をさしのべると、ゾロの口が離れていく。
「ちゃんと話したら続きをしてやるよ」
  意地の悪い薄ら笑いを浮かべ、ゾロが告げた。
  唾液でてかる足先が、外気に触れてひやりとする。サンジは足を身体のほうへと引き寄せると、膝を抱えて座り直した。
「縛り付けられてるわけじゃ……」
  縛っているのは、たった一度目にした光景。語尾が弱々しく消えていくのを、サンジ自身、不思議な気持ちで聞いていた。
「なら、言えるだろう?」
  落ち着いたゾロの声は、サンジの心の中の臆病な部分をちくちくとつつき回しているかのようだ。
  細く鋭く尖った針が、胸の奥の弱い部分を突き刺してくるのに、甘苦い痛みを感じている。いや、もうすでに甘さを通り越してしまっており、痛みだけしか残っていないのかもしれない。
「……絶対に、言わねぇ」
  そう言って、サンジはにやりと口元を歪めた。
  暗がりの中で大きな溜息が聞こえてきた。ゾロは、怒っていない。サンジの言葉を持て余しているようではあったが、怒る気はないらしい。いつものゾロなら、このまま喧嘩に持ち込んでしまうこともできたはずなのに、今夜はいったいどうしてしまったのだろうか。
「……言うもんか」
  ──絶対に。
  ぽつりと、それが最後の砦であるかのように呟くと、それきりサンジは唇を噛み締める。
  男の自分が、同じ男のゾロに、性的な気持ちを抱いている。それだけではなく、好きな男が別の男と口づけを交わしたことに対して嫉妬している自分があまりにも滑稽で、あまりにも悲しくて、どうにかなってしまいそうだった。自己嫌悪すら感じてしまいそうだ。
  じっと膝を抱えていると、指先からじわりじわりと痺れのようなものが腕を這い上がってくる。痺れはそのまま、サンジの身体を冷たく包み込み、心のじくじくとした部分に凍えるような冷ややかな風を送り込んでくる。
  このまま凍り付いてしまうことができるなら、いっそ、すっきりするかもしれない。
  一人きりの閉ざされた世界の中、ただひたすらに愛しい男の夢だけを見ていればいいのだから。



  膝を抱えたサンジはまるで拗ねた子供のようだった。
  あかりとりの窓から入り込んでくる月明かりが、サンジの頬を青白く照らしている。
「──何も言わなくていいから」
  ぽそりと、掠れた声でゾロが呟いた。
  黙ってサンジは頷くと、膝頭に顔を埋める。月の光を受けて青白く光る項が、酷く艶めかしい。ゾロはごくりと唾を飲み込んで、手を伸ばした。
  髪に触れると、子猫の毛のようにさらさらとしていた。昼間、太陽の光を受けて金色に輝いているサンジの髪は、今は月の光を受けてプラチナブロンドの光を放っている。そっと指で梳いてやると、んん、と小さく鼻にかかった声が聞こえてきた。甘えるようなその仕草に、ゾロは色気を感じていた。
  もういちど指を動かして髪を梳いてやると、サンジの首筋がさらに露わになった。そのまま唇を寄せてキスを落とす。ピクン、とサンジの身体がおののくのが感じられたが、構わず舌でペロリと肌を舐めあげる。
「今まで通りのお前でいろ。そのほうが、見ていて安心する」
  やわらかな髪に鼻を突っ込んで、ゾロは囁きかけた。
  ごつごつとした筋肉質な腕が、いつの間にかサンジの肩を抱き寄せていた。



  ──……ジジイ、ジジイ。
  顔を伏せたまま、サンジは口の中で呟いた。
  ゾロのにおいが鼻腔を満たし、見せかけの幸せがサンジを包み込もうとしている。
  このままゾロの言うとおりにしてもいいのだろうか。ゾロの言葉を信じても、いいのだろうか。
  身じろぎをすると、ゾロが身体を少しずらした。サンジは顔をあげ、月明かりの中でゾロをじっと見つめた。
  頭の中にまた、お決まりの光景が蘇ってくる。ルフィと、ゾロ。甲板で唇を合わせ、幸せそうに寄り添う二人の姿。この光景がサンジの脳裏にある限り、彼の心に平穏が訪れることはないだろう。
「……俺のものになれ。そうしたら俺は、俺が縛られている全てのものから解き放される。今まで通りの自分に戻ることが出来るんだ」
  そう言ったサンジの声は、どこか自嘲めいて軽薄に聞こえた。
  じっとサンジを見つめたまま、ゾロは考えた。自分はどう答えればいいのかを。自分の返答如何では、サンジはどうにでもなってしまうだろう。投げやりさや諦めのようなものが今のサンジの声音に交じっていることに気付いたゾロは、ゆっくりと首を縦に振った。
「ああ、いいぜ。それでお前が今まで通り振る舞うことが出来るのなら、それぐらい、どう、ってこたぁない」
  何かに縛られるのは誰だって嫌なはずだ。それを敢えてゾロは、背負っていこうというのだ。サンジの分のしがらみを肩代わりして、どうなるというのだろうか。誰かのしがらみを肩代わりすることなど出来るはずがない。それぐらいゾロはよくわかっている。くいなという自分のしがらみすら、未だ断ち切れていないというのに。
「馬鹿だなぁ、お前は…──」
  ゆっくりとサンジは、ゾロの頭を腕に抱きこんだ。



  薄ぼんやりとした夜明けの靄が、ゴーイング・メリー号を取り囲んでいる。海面を滑るようにゆらゆらと漂う靄は、その日いちばんはじめの太陽の光があたるときらきらと反射しながら空気中へと消えていった。
  サンジは、胸にゾロの頭を抱えたまま目を閉じていた。ゾロの穏やかな寝息と胸の鼓動が、サンジの耳に届いてくる。
  これは……この男は俺のものだと誰彼構わず言って回りたいような、そんな幸せな高揚した気分に包まれた。
  短い緑色の髪に唇を寄せると男のまぶたがピクンと動いて、眠たそうな眼差しで見つめ返してくる。唇が微かに蠢いて、掠れた声がサンジの耳に届いた。
「俺は、お前のものになったんだぞ? どんな気分だ?」






END
(H17.6.3)



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