キスを、してしまった。
自分は、まだ獄寺になにも言っていない。好きと普通の間をフラフラと行き来している中途半端な気持ちを持て余して困っているというのに、二十四歳の獄寺にほだされでもしたのだろうか、その場の雰囲気に流されて、ついキスをしてしまった。
困ったと、綱吉は思う。
同い年の獄寺のことは気にかかっていたが、自分の気持ちが定まらないままに二十四歳の獄寺とキスしてしまったことは問題だ。
どうしたらいいのだろうか。
慌てて部屋から逃げ出そうとして廊下に出たところで、十四歳の獄寺と鉢合わせしたのは偶然だろうか。
獄寺も、二十四歳の綱吉から逃げてきたと言っていた。
やましいことがあるのは自分だけではなさそうだと思うと、心のどこかでホッとすることができた。
それにしても、困った。
二十四歳の綱吉は、どうやら十四歳の獄寺のことが気になって仕方ないらしい。綱吉と獄寺の二人を別々の部屋に案内して、顔を合わせることもできないようにするつもりだったのだと、二十四歳の獄寺から聞かされた。
それを聞いた途端に綱吉の頭の中に、二十四歳の獄寺との先ほどの会話が蘇ってくる。
あの人は、我が儘で欲張りで、狡い人なんです。俺だけでなく、十四歳の俺までも、自分のものにしたいと思っているんです──そう、二十四歳の獄寺は言った。
何故、十四歳の獄寺を自分のものにしたいのだろうと、綱吉は思った。
二十四歳の獄寺とは恋人同士だと聞いている。
と、言うことは、だ。別に十四歳の獄寺を手に入れなくても問題はないということなのではないだろうか。
そんなことを考えていると、獄寺が声をかけてきた。
「十代目、お休みになられないのですか?」
綱吉と一緒にいるからだろうか、もうすっかりくつろいでベッドに潜り込んだ獄寺が尋ねかける。
「ああ……うん、そうだね。そろそろ寝たいんだけど、服が、ね……」
小さく空笑いをして綱吉は着ていた服を脱ぎ始める。二十四歳の獄寺が用意してくれたスーツを脱いで、ひとつひとつ丁寧にソファの上に畳んで置いていく。シャツ姿になる直前で獄寺が慌ててベッドから飛び出してきた。
「なにか着るものを探しますね、十代目」
そう言って獄寺は、部屋の中をぐるりと見渡す。
結局、二十四歳の獄寺のクロゼットからスウェットを見つけだした獄寺は、それを綱吉に押しつけた。
「大丈夫です。俺のもんですから、お気になさらずに着てください」
そう言われて綱吉は、おとなしく獄寺の言葉に従った。
二十四歳の獄寺の着ているものは十四歳の綱吉には大きすぎた。片っ端から袖を折ることで、なんとかするしかなかった。
今夜はこの部屋で休むようにと二十四歳の獄寺からは言われていたが、今、この部屋に十四歳の獄寺と二人きりなのだと思うと、妙に意識してしまう。
ベッドに潜り込んだものの、二人とも互いを妙に意識してしまい、背中合わせに横になっているような状態だ。
もぞもぞと片方が動くたびに、互いの体の一部が触れあわないかと、ドキドキしながら息を潜めている。
相手のことが嫌いなわけではなく、ただ単に気になるというだけだ。
寝返りをうつことも思うようにできず、片方がもぞもぞと動くと、もう片方はじっと息を止める。そんなことを何度か繰り返した。
「今日……なにしてた?」
とうとう静けさに耐えられなくなった綱吉が、ぽつりと尋ねかけた。
背中越しに、獄寺がもぞもぞと動くのが感じられる。
「……この時代の十代目に、屋敷の中を案内してもらいました」
「それから? それだけじゃないよね?」
綱吉が先を促す。抑え気味の獄寺の溜息が聞こえてくる。
「外部の関連施設をいくつか回って……それからレストランで食事をして帰ってきたら、ホールの階段のところに十代目が……」
あの時かと、綱吉は思う。
ちょうど同じようなタイミングで自分も、屋敷を案内してもらった。外部施設までは行かなかったが、屋敷の中は一通り見て回ったはずだ。
「オレも、屋敷の中を案内してもらったよ」
ポソリと綱吉は告げた。
「オレたちの居るべき場所じゃないと思ったら、途中からしんどくなってきて……そしたら、ホールで獄寺君と会えたからホッとしたんだよ」
ここは、自分たちの居るべき場所ではない。それがわかっていてなお、ここから立ち去ることができないというのは、なんと辛いことなのだろう。
「……オレたち、早く元の時代に戻れたらいいね」
くぐもった声で綱吉が呟くと、急に獄寺の気配が変化するのが感じられた。どことなくよそよそしくて、なのに不安そうな気配だ。
ごそごそとケットを捲り上げ、獄寺は上体を起こした。
寝返りを打って綱吉は、獄寺のほうへ視線を向ける。
暗がりの中ではよく見えない。窓から入ってくる薄ぼんやりとした光の中で、どうにか獄寺の影を認識することができる程度だ。
「俺……」
獄寺の声は掠れていた。
なにか、話したいことがあるのだろうか。
綱吉はベッドに起きあがると、獄寺と向かい合った。
「あかり、つけようか?」
尋ねると、いらないと声が返ってきた。
「このままでいいですから、俺の話、聞いてくれますか?」
なにかに怯えているような獄寺の声に、綱吉は頷いた。
この暗がりの中では獄寺の表情がわからなかったが、声の様子であまりいいことではないのだろうと想像することができる。
「なにかあったんだ?」
自然と、綱吉の声も低くなる。
「はい……いえ、なにもなかった、って言うか……」
やけに歯切れの悪いものの言い方を獄寺はする。なにを隠そうとしているのだろうかと訝しんでいたら、ぼんやり形作っていた獄寺の影が、綱吉に縋りついてきた。
「実は俺、この時代の十代目に……」
肩にかけられた獄寺の手が、微かに震えている。
ふと先ほどの、二十四歳の獄寺の言葉が綱吉の耳の中に蘇ってくる。我が儘で欲張り。狡い人。俺だけでなく。十四歳の俺までも。自分のものにしたい。それらの言葉がいっせいに綱吉の耳の中で反響し始める。
「ごっ……獄寺君、まさか君、十年後のオレになにかされたとか言わないよね?」
しがみついてくる体をわずかに押しやり、綱吉は尋ねた。
十年後の自分がいったいどんな人間なのか、綱吉自身、よくわからないでいる。しかし二十四歳の獄寺から聞いた二十四歳の綱吉は、我が儘で欲張りだと聞いている。もしかしたら、とんでもない人間に育っているのかもしれない。
「いえ、あの、そんなことは……」
しどろもどろになりながら獄寺が答える。
「そんなんじゃなくて……あの、ちょっとだけ……キス……とかじゃ、ないんですけど……」
影が俯いて、もたもたと喋っている。どことなく恥ずかしそうなその様子に、綱吉は何故だかムッとした。
胸の中のモヤモヤとした感じが不快で、綱吉は喋り続ける獄寺の肩をぐい、と押した。
不意打ちを食らった獄寺の体が、ベッドに倒れ込む。
「十年後のオレってば、獄寺君になにしたの?」
今現在、この場にいる自分は、獄寺にまだなにも言っていない。少し気になる存在としてしか認識はしていなかったし、好きだとかどうのこうのといったことは、当然ながら一度だって獄寺に言ったことはない。もちろんその素振りを見せたこともないはずだ。それなのに、二十四歳の自分は、十四歳の獄寺になにをしようとしたのだろうか。
「なにって……なにも……十代目はなにもしてません」
弱々しい声で、しかしきっぱりと、獄寺は言った。
嘘だと、綱吉は思った。
なにもされていないのなら、獄寺がこんなふうに自分の気持ちをぼやかしてものを言おうとするだろうか。
「本当に?」
自分だってまだ告白すらしていないというのに、十年の利を活かして二十四歳の自分は獄寺にモーションをかけているのではないだろうか。そんなふうに思うと、ふつふつと怒りが沸き上がってくる。
「嘘じゃないだろうね」
尋ねると、獄寺は決まり悪そうに口ごもる。おおかた、嘘ではないが真実でもないというところだろうか。
一瞬、間が空いた。躊躇うように獄寺が手を伸ばして、綱吉の肩を軽く引き寄せる。
「キス、されました」
掠れた声が、綱吉の耳元に真実を告げた。
「えっ?」
「──…首の後ろにキスされたんです」
まだなにひとつとして、獄寺には自分の気持ちを告げてはいない。
好きだということ。できたら恋人としてつきあってほしいということ。そういったことをなにひとつとして言葉にしていないというのに、二十四歳の自分は、獄寺にキスを──それも首の後ろに──したのだ。
自分のものを横取りされたような気がして、綱吉はその瞬間、ムッとなった。
ここにいる十四歳の獄寺は、自分のものだ。自分の右腕として、そばにいてくれる。二十四歳の自分のための獄寺では決してないはずだ。それよりもなによりも、二十四歳の自分の隣には、二十四歳の獄寺がいるではないか。十四歳と二十四歳、どちらの獄寺も手に入れたいというのは、少しばかり虫がよすぎるのではないだろうか。
「首の後ろ? 後ろって、どのあたり?」
ムッとした勢いのまま、綱吉は強く尋ねた。
「え……ああ、大丈夫っスよ。たいしたことありませんでしたから」
獄寺の言葉に、綱吉は苛立ちを感じた。
手探りでサイドテーブルのあかりをつけると、獄寺の着ていたスウェットをひっぱり、首のあたりをちらりと覗いた。
「どのあたり?」
そう言って綱吉は少し乱暴に、獄寺の首根っこを押さえつけた。ぐいぐいとベッドに獄寺の頭を押しつけながら、襟のあたりをひっぱって白い肌を確かめる。
「い…痛い、十代目、痛いです……」
弱々しく抵抗しながら獄寺が訴えてくる。
「だめだよ、獄寺君。どこに……」
言いかけた綱吉の言葉が、不意に止まった。
首の後ろ、髪の生え際に朱色に鬱血した部分がひとつ、綱吉の目の前に現れた。
「あ……」
白い肌に、淡くついた跡が生々しい。
「どうかしましたか、十代目」
気付いていないのか、それとも獄寺にしてみればこの程度のことはたいしたことにもならないのか、呑気なものだ。そんなふうに思った途端、綱吉はその跡を爪で思い切り引っ掻いていた。
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