眉間に皺を寄せた綱吉は大股に自室を横切ると、リビングのドアを大きく開く。誰もいない。だったら風呂場かキッチンだろうと順に見ていくと、思った通りキッチンに、呆然とした様子で佇む獄寺がいた。
「なにしてるの、獄寺君」
驚かさないようにそっと声をかけたつもりだが、弾かれたように獄寺は飛び上がり、土下座をしそうな勢いで「すんません、すんません」と頭を下げてきた。
「あの……ご、獄寺君?」
恐る恐る声をかけると、自分の置かれた状況にようやく気づいた獄寺が、はっと体を硬直させる。
パジャマ姿にエプロンをつけて、手にはボールと泡立て器を持って立ち尽くす姿は、いくら獄寺が格好良くても少しみっともなく見える。
「いったい何をするつもりだったんだよ」
夜中にカチャカチャという音が聞こえてくるから、綱吉はてっきり獄寺が、趣味の実験でもしているのだろうと思っていた。それが、だ。軽い振動を伴う爆発音がしたところで、恋人としてはパートナーのしていることを把握しておくべきだという考えに至ったのだが、この場合、何と言えばいいのだろうか。
「あー……その……」
しょぼんと肩を落とす獄寺は、失敗をして反省中の犬のように見えないでもない。
しかし、だ。キッチンを見回すと、あたりは床から天井までドロリとしたクリーム色のもので汚れきっていた。特にレンジの汚れが酷い。これを獄寺は、朝までかかってでも片づけるのだろうと思うと、少し可哀想な気がしないでもない。
「本当にすんません、十代目。ちゃんと朝までには片づけておきますんで、気にせず休んでください」 そんなふうに言われてしまうと、この場を放置して自分だけさっさと休むのも気が引けてしまう。
「片づけぐらいオレも一緒にするよ」
もう遅い時間だし、いつもなら二人ともさっさとベッドに入っている時間だ。
いったい彼は何をしようとしていたのだと綱吉は、獄寺の手元をじっと見た。
焦げ臭いような妙なにおいに混じって、微かにだが、ふんわりとした甘いにおいもしている。きっと獄寺はお菓子的な何かを作ろうとしていたのだろう。
「いえ、あの、十代目のお手を患わすようなことは……」
「今みたいなことになったら困るからね」
言いかけた獄寺にスパッと釘を差しておいて綱吉は、キッチンの片づけに取りかかった。
獄寺には、拭き掃除をお願いした。天井から始めて汚れを落としていってもらう。それから壁と、床。あたりに飛び散ったものも綺麗に拭ってもらうようお願いする。
綱吉はレンジだ。
どうしたらこんなふうになるのか分からないが、どうやらレンジの中で何かが爆発したらしい。多分、よく聞くレンジでゆで卵を作ろうとして……というのではないような気がする。レンジの中のにおいだけではよくわからないが、あたりに飛んだクリーム色のものから推測すると、どうやらホットケーキを作ろうとしていたようだ。
片づけながらちらりとダストボックスを覗くと、思った通り、ホットケーキミックスの空箱が無造作に捨ててあった。
「獄寺君……やっぱりわかりやすいよな」
呟きながらも綱吉の顔がにやけてくる。
ホットケーキを作って、いったいどうするつもりだったのだろう。
「どうかしましたか、十代目?」
ニヤニヤしていると、獄寺に声をかけられた。驚いた綱吉は、手にした布巾を取り落としそうになる。
「あ、や、なんでも……」
ホットケーキ、と綱吉は思う。
子どもの頃、母の奈々がよく作ってくれた。綱吉が中学生になってからは、ランボやイーピン、それにフゥ太がおやつにホットケーキを食べる姿をよく目にした。あのほんわかとした甘い味が、綱吉は大好きだった。
「獄寺君、ホットケーキ作ろうとしてたんだ」
ポソリと小さな声で言ったら、ガタッと音がした。背後で壁を拭いていた獄寺が、狼狽えている。言ってはいけなかったのだろうか?
「や、あの、その……」
困ったように獄寺は眉間に皺を寄せている。その姿が少しだけ可愛らしく見えて、綱吉は口元に笑みを浮かべた。
「……だいたい獄寺君、料理なんてできないよね」
綱吉も獄寺も、冷凍食品をレンジでチンするかお湯を沸かしてカップ麺を用意するぐらいしかできない。たいていはデパートやスーパーの総菜、弁当屋の弁当あたりで誤魔化している。
それなのにどうして、ホットケーキなのだろう。
「ホットケーキを作りたいのなら、京子ちゃんかハルに訊けばいいだろ。それか、うちの母さんにでも訊いて、作り方を習えばいいんだよ」
我ながらいい考えだと思いつつ、綱吉は言った。後日、このことをリボーンに話したら、人選ミスだと散々なじられた。ずっと後になっても綱吉にはその理由がわからなかったので、その度にリボーンにネチネチと言われることになる。もちろん、ビアンキにも、だ。
「いや、違うんです、十代目。あの……ケーキ、を……」
「ケーキ?」
尋ね返すと、獄寺はわずかに肩を落とし、うなだれた。
「はあ……その、十代目のお誕生日に、自分がケーキを作ろうかと思って……それで、ひとまずホットケーキで練習を、ですね……」
ボソボソと獄寺が告げるのに、綱吉は咄嗟に言葉を返すことができないでいた。
誕生日だなんて、順番で言えば獄寺のほうが先にやってくるはずだ。それなのに自分の誕生日のことより、綱吉の誕生日を気にかけるだなんて。それも、綱吉の誕生日だなんてまだ一ヶ月以上も先だというのに。
肩を落とした獄寺は、どこかしら頼りない子どものように見えた。もういい歳をした大人だというのに。
「……それよりほら、早く片づけてしまおう。早く寝ないと、明日も早いんだしさ」
そう言って綱吉は、片づけを再開する。獄寺も慌てて片づけに戻る。
綱吉の言葉をどうとらえたのかはわからないが、その日は二人とも言葉少なに寝室へと引き上げたのだった。
翌日から獄寺は、遅い時間に帰宅するようになった。
おそらく、誰かにケーキの作り方を教えてもらっているのだろう。
もっとも綱吉は、相手が誰かまで詮索するつもりはなかった。要は獄寺が、自分のために何かしてくれているという事実が、綱吉には嬉しいのだ。
だから獄寺のやりたいようにさせているのだが、それにしても寂しい。
一緒に暮らしていて、仕事で忙しいわけでもないのに、獄寺と二人の時間がどんどん減っていくような気がする。会えない日が続くと、それだけで不安になる。一方の獄寺のほうは充実している様子だったから、余計に綱吉の孤独感が増していく。
「最近、帰りがおそくなったよね、獄寺君」
その日も獄寺の帰宅は、深夜近くに及んでいた。
仕事で忙しい時には気にもならなかったことが、今は酷く気にかかる。出張で半年近く顔を合わせることができなくなっても、こんなふうに堪えるようなことはなかったのに。
「まだしばらくは忙しい?」
わかっていて綱吉は、しれっと尋ねてみる。
おそらく獄寺は、満足のいくケーキが作れるようになるまでは忙しいだろう。彼の満足のいく出来とやらがどの程度のものかはわからないが、程々にしてほしいとも綱吉は思う。
仕事で忙しいのなら割り切ることもできるが、プライベートですれ違ってしまうのは、少し残念だ。 それに獄寺が楽しそうなだけに、余計に自分一人だけが疎外されているような気がしてくる。そんなふうに思ってはいけないと思うのだが、どうにも割り切ることができないでいる。
「そうっスね、まだ、少し……」
躊躇いがちに獄寺は告げた。
「じゃあ、仕方ないな。もうしばらく一人で晩ごはん食べることにするよ」
思わず、溜息が洩れた。
自分が言い出したこととはいえ、ケーキ作りの練習のために獄寺と一緒に時間を過ごす誰かに、嫉妬してしまいそうになる。
「十代目……」
詮索はしないと決心したものの、気持ちが揺らぎそうになる。
「獄寺君も早く休んだほうがいいよ。明日も早いんだろ?」
声をかけると、獄寺はどこかしら寂しそうに頷いた。
だけど、綱吉だって寂しいのだ。
これでは何のために同居を始めたのだかわからない。
「じゃあ、おやすみ」
声をかけると綱吉は、そそくさと自室へ戻った。
おそらく獄寺はこれから晩ご飯を食べるはずだ。できることなら一緒についていたかたったが、そんな気分でないのも事実だった。
「ごめんね」
ポソリと口の中で呟いて、綱吉はベッドに入った。
どうせ獄寺は、寝る用意ができたらここに来るだろう。
この家にベッドはひとつしかない。二人で同居を決めた時からベッドはひとつだけだった。だから喧嘩をしようがどうしようが、絶対に顔を合わせるし、ひとつのベッドで眠らなければならないのだ。
「それにしても、いったい誰に習ってんだろう」
天井を見上げて綱吉は、はあぁ、とまた溜息をつく。
こんなことなら、詮索はしないでおこうなどと思わなければよかった。あれやこれや細々としたことを獄寺に尋ねたり、誰と一緒にケーキ作りの練習をしているのか尋ねるのはもみっともないような気がしたのだ。
だが今は、もっと早いうちに獄寺に、誰にケーキの作り方を習っているのか尋ねておけばよかったと綱吉は後悔している。
そう、綱吉は寂しくてたまらなかった。
いつもはそばにいるはずの獄寺が、いない。うるさいくらいに喋りかけてきて、まとわりつく獄寺の姿がそばにないのが、今は酷く寂しくてたまらない。
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