肌の上を、白い指先が滑り降りていく。
獄寺は唇をペロリと舐めた。
シャワールームに反響する水音は耳に痛いほど大きく、外の部屋に声が聞こえることはないはずだ。
陰毛の間で頭をもたげている性器が濡れているのは、シャワーのせいなのか、先走りのせいなのかはわからない。竿を握ると、根本のほうから何度か扱いてみる。手の中で、ペニスがビクビクと震えている。
「ぁ……」
躊躇いがちに出した声は、反響する水音にかき消されていった。
大丈夫だ。ここには、自分一人しかいない。部屋のドアには鍵をかけているから、間違っても誰かが部屋に入り込むことはないはずだ。
タイル地の壁に背をもたせかけると、獄寺は自分の性器を扱き始めた。手をスライドさせ、竿全体をてのひらで扱く。亀頭の部分を指の腹で何度か撫でると、既に滲んでいた先走りを親指で掬い取って口へと運んだ。
ペロリと舐めると、青臭いようなしょっぱいような味がする。
「十代目……」
今度は、喉の奥から絞り出すような声が洩れた。
鼻の奥がツンとなって、不意に嗚咽が洩れ出す。自分が泣いていることにも気付かず、獄寺は必死になって竿を扱いている。
熱が、体の中を駆け巡っている。
「ぅ、あ……」
ヒクッ、としゃくり上げながら、獄寺は必死に手を動かし続けた。
真っ赤に溶けてドロドロになった熱が、胸の奥を真っ黒に焼き焦がしていく。
「十代目、十代目……!」
掠れる声で口走ると同時に、獄寺は自らの手の中に射精していた。
白濁した精液が手を伝い、床の上へポタリポリと落ちた。勢いよく流れ出るシャワーの湯が、すぐさま獄寺の精液を排水溝へと導いていく。
ズルズルと獄寺は床の上に座り込んだ。
噛み締めた奥歯の向こうから、堪えきれない嗚咽が洩れてくる。
顔を両手の中に埋めると、獄寺は声を忍ばせて啜り泣いた。
シャワーの音に紛れるようにして、胸の奥のどす黒いものが獄寺を嘲笑っていた。
胸の中に獄寺は、黒い獣を飼っている。
誰にも内緒の黒い獣は、我儘で、傲慢で、醜悪な姿をしている。
この姿をあの人にだけは見せてはならないと、この十年間、必死に隠し続けてきた。
だけど、と、獄寺は思う。もう限界だ、と。
隠し続けた嘘は大きく育ちすぎた。もうこれ以上は、隠し続けることはできない。
今すぐにでも胸の内の気持ちを吐き出してしまいたい。この、真っ黒に染まった心の内側をさらけ出して、楽になりたい。そうしなければ、自分はいつか、この黒い獣に飲み込まれてしまうだろう。
真っ黒になった自分の心はこの十年、ただ一人の人だけを追い続けてきた。
好きで好きでたまらない。自分と同じ男だというのに、獄寺の心は、その人を追い求めることをやめようとしない。決して離れることはないだろうと、獄寺は思っている。おそらくは、地の果てまでも自分はこの人についていくだろう。
同じ男だろうと関係はない。
獄寺は、綱吉のことが好きなのだ。
目の前を、背筋をピンと伸ばして歩いていく綱吉の姿を獄寺はじっと見つめている。
この十年の間に綱吉は、ずいぶんと成長した。
貧弱だった体格はスレンダーながらもしっかりと筋肉のついた体つきになり、出会ったばかりの頃にはまだ低かった背は、いつの間にか獄寺を追い越していた。穏やかで優しげな外見ばかりに目が向かいがちだが、いざというときには誰よりも激しく、厳しい人になる。男としても、人間としても、綱吉はずいぶんと成長した。自分などその足下にも及ばないと、いつも獄寺は思っている。
そんな綱吉のことを、獄寺は好いている。
同じ男だというのに、綱吉の姿を見ていると、それだけで体がウズウズとしてくる。彼の手に触れられてみたいのだろうと、獄寺の胸の奥で黒い獣が囁きかける。
いけないことだというのは重々承知の上だった。
綱吉はマフィアの頂点にも立つと言われるボンゴレファミリーの十代目で、自分のボスでもある。
その綱吉に懸想する自分は、なんと醜い生き物なのだろうと獄寺は思う。
自分は、醜い。
綱吉に対する邪な気持ちが、獄寺の心をさらに黒く醜いものへと変えていく。
なんと醜いのだろう、自分は。
唇を噛み締め、それでも獄寺は綱吉の後ろ姿から目を逸らすことができない。
彼を好きな気持ちに偽りはなく、だからこそ獄寺は、自分の気持ちに葛藤を抱くのだ。このまま綱吉のことを想い続けていたい、だけど汚したくはない、と。
それほどまでに獄寺は、綱吉のことが好きなのだ。
先を歩いていた綱吉は執務室のドアを開け放つと、背後の獄寺を振り返って見た。
「──…獄寺君?」
名前を呼ばれた瞬間、自分が何を訊かれたのかわからず、獄寺は怪訝そうに綱吉の顔を見つめ返した。
自分を見る時の綱吉はいつも表情豊かだが、今日の彼は別人のようだった。
無表情で冷たい目が、ただ真っ直ぐに自分を見つめている。淡い茶色の瞳はガラス玉のように無機質で、他人行儀な印象を与えている。
「……どうかされましたか、十代目?」
獄寺が尋ねると、綱吉は何もないと返す。
その声があまりにも淡々としていてよそよそしいものだったから獄寺は、綱吉に気付かれないようにこっそりと顔をしかめた。
嫌いではない人のこんな表情を見るのは、あまり好きではない。この表情が他人に対して向けられているのであれば、獄寺はさして気にしなかったかもしれない。
しかし今、綱吉は獄寺に対して、そんな冷たい表情を向けている。
嫌いと言うよりもむしろ好きな相手にこんな表情をされると、胸のあたりがチクチクとする。
ぎゅっと拳を握り締めて、獄寺は無理に笑みを浮かべた。
「コーヒーでも用意しましょうか、十代目」
獄寺の言葉で綱吉は、いつもの綱吉に戻った。
人当たりのよい柔らかな口調で、綱吉は返す。
「うん、もらおうかな」
窓際のデスクに就くと、綱吉は積み上がった書類を片付けていく。それを横目に獄寺は、コーヒーを淹れ始めた。
静かだった。
書類を捲る音がして、時折、その音が止まったかと思うと今度はペンを走らせる音が聞こえてくる。綱吉がそうやって書類に目を通し、必要なことを書類のそこここに書き込んでいる間に獄寺はコーヒーを淹れる。
部屋の片隅でコーヒーの用意をしながら獄寺は、ちらちらと綱吉のほうへと視線を飛ばす。
先ほど綱吉は、いったい何を言おうとしていたのだろうか。尋ねてもいいものだろうか。それとも、綱吉のほうから言ってくるまでは知らん顔をしていたほうがいいだろうか。
そんなことを考えていたら、知らず知らずのうちにペンを走らせる綱吉の横顔に見入っていたようだ。不意に綱吉が顔をあげた。
「なに?」
たった一言、尋ねられただけだというのに。それなのに獄寺の心臓はドキドキと鳴り響いている。
「あ……いえ、何でもありません」
掠れた声で獄寺はなんとか告げることができた。
綱吉は小首を傾げたものの、すぐに獄寺に小さく笑いかける。
「もうちょっと待ってね、獄寺君。すぐに終わらせるから」
日に日に、綱吉に対する獄寺の気持ちは大きくなっていく。
子どもの頃はまだ、気持ちを抑えることができた。
これは憧れだと、言い聞かせることができていた。
それなのに最近の獄寺は、自分の気持ちをコントロールすることができないでいる。
どうしたらいいのだろう。自分は、どうやってこの気持ちを抑え込んだらいいのだろうと、そんなことばかりを考えている。
綱吉の顔を見れない日は辛かった。声を聞けない日は、どうにも気持ちが苛ついた。それでも、綱吉のために任務に出かけて行く自分に対してある種の誇りを感じてもいた。
すべて、十代目のため──そう思うことで獄寺は、自分の中の黒い獣を抑え込んでいた。 そうしなければ、黒い獣がいつ何時、暴れ出すかわかったものではなかった。
黒い獣は獄寺の胸の奥底にあるいちばん弱い部分を暴き立てては嘲笑う。弱くて醜くて、臆病な獄寺を、いつも馬鹿にしているのだ。
もしもこの気持ちを隠し通すことができたなら、何かが変わるだろうか?
黒い獣を自分の胸の内から追い出すことができたなら、心に平穏が戻ってくるだろうか? ポケットから無造作に取り出した煙草を口にくわえると、獄寺は火を点けた。
ニコチンの香りが血流に乗って全身を駆け巡り、アドレナリンが抑えられたような気がする。
ふう、と、息を吐き出す瞬間に、溜息も零した。
綱吉のことを考えただけで、胸の片隅がキリキリと痛んだ。
その日の午後遅くに獄寺は、綱吉の執務室に呼び出された。
どういった用件なのかはわからなかったが、あまりいいことではないようだ。獄寺が呼び出しを受ける前に、了平と雲雀が執務室に呼ばれていたという話を山本から聞いている。きっと、綱吉には綱吉の考えがあってのことだろうが、なんとなく獄寺は気に食わない。
右腕たる自分を差し置いて綱吉に呼ばれた了平や雲雀の存在が、面白くなかった。
抗議をするつもりでやや乱暴に執務室のドアを開けると、いつものように愛想よく笑みを浮かべた綱吉と真っ正面から目が合った。
「あ……」
咄嗟になにか言おうとした獄寺だったが、途端に喉がカラカラになってしまい声が出ない。
口をパクパクとさせて慌ただしくドアを閉めると、綱吉のほうへと向き直る。体の動きがギクシャクとしてぎこちないのは、柄にもなく緊張しているからだ。
「早かったね、獄寺君」
綱吉の声に、反射的に獄寺は背筋をピンと伸ばした。
「し…失礼します」
声が、震えてはいないだろうか。獄寺はうつむき加減に綱吉の口元へと視線を落とした。穏やかな笑みを浮かべている唇は、これから自分に何を伝えようとしているのだろうか。
「ごめんね、忙しいのに」
今日はたまたま、任務の合間の休暇だった。忙しくはありませんと獄寺が言うのに、綱吉は軽く手を降ってそんなことはないと返す。明日からまた、獄寺は任地に赴く。だから今日のうちに話をしてしまいたいのだと、綱吉は静かに告げた。
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