「──任務に戻っても、無茶をしないように」
綱吉はただ一言、そう告げただけだった。
拍子抜けしたように獄寺は、綱吉の顔をまじまじと見つめ返す。
「それだけですか?」
尋ねると、綱吉は頷いた。
「そう。それだけだよ」
あっさりそう言って綱吉は、フフッと柔らかな笑みを浮かべる。
「だって獄寺君は、俺がいても勝手に無茶やらかすからね。任務で君が側にいないと誰も止める人がいないから、心配で心配でたまらないんだ」
軽い調子で綱吉は言ったが、その目は真剣だ。
不意に、獄寺の頭の中に十年前の記憶が蘇ってきた。ヴァリアーとの戦いしかり、白蘭との戦いしかり。自分はいつも、無茶をやらかしてきた。何度、綱吉に怒られたことだろう。もしかしたら自分はいつも、この人に要らぬ心配をかけさせてきたのかもしれない。
獄寺はゴクリと唾を飲み込んだ。
「十代目……十代目のご期待に添えるよう、努力します」
口先での言葉には、綱吉は騙されない。獄寺は気持ちを込めてそう返した。
「うん、期待してるよ」
一瞬、綱吉の目の端が冷たく輝く。その目に射すくめられ、獄寺は何も言えず、背筋を伸ばして綱吉を見つめ返すことしかできなかった。
期待には応えられないかもしれないという苦い思いが、獄寺の胸の内には潜んでいた。
そして獄寺自身も気付かないような胸の奥のさらに奥底で、黒い獣がこっそりと、忍び笑いを洩らしていた。
それから小一時間ほどして獄寺は自室へと戻った。
ほんのわずかな時間だったが、任地へ赴く前に綱吉と言葉を交わすことができた。それだけで獄寺の気持ちは舞い上がってしまいそうになる。
本当は、右腕として綱吉の側に四六時中ついていたい。しかしそうはいかないこともある。今回の任務はどうしても獄寺でなければならないのだと言われれば、尚のこと行かずにはいられない。
実際には、獄寺でなくとも構わないのかもしれない。
小さく溜息をつくと、獄寺は窓の外へちらりと視線を向けた。窓の外には夜が広がっている。
室内の薄暗い照明の下で、獄寺は微かな体の火照りを感じていた。気にするな。今夜は、そんなことを気にしている場合ではない。明日からの任務に差し障ると、獄寺はぎり、と唇を噛み締める。 頭の中で、綱吉から言われた言葉を何度も反芻した。
無茶をしないように──そう言われて獄寺は、嬉しかった。綱吉が自分のことを気にかけてくれているのだと思うと、それだけで幸せを感じる。
そして同時に、自分に対する嫌悪感をも獄寺は感じている。自分が幸せだと思うことで、醜い黒い獣を呼び起こしてしまうのではないかと思ってしまう。恐いのだ。あの黒い獣が自分の心を乗っ取ってしまうのではないかと思うと、恐ろしくてたまらない。自分の邪な気持ちを具現化しようとしているのだ、あの黒い獣は。
ベッドに入るとケットを顎の下まで引き上げ、獄寺は目を閉じた。
何も考えず、泥のように眠ってしまいたい。
眠って、嫌なことは忘れてしまいたかった。自分の胸の内に潜む黒い獣のことも、この体も火照りも、何もかもすべて。
寝苦しいのは、胸の奥の黒い獣が嘲笑っているからだ。
臆病で後ろ向きな獄寺を黒い獣は馬鹿にしているが、それでも構わないと彼自身は思っていた。自分の気持ちを正直に綱吉に告げてしまうよりは、今のまま、胸の内に秘めているほうがずっとマシだ。
だいたい、男の自分が同じ男の綱吉に対して恋愛感情を抱いているということのほうが不自然ではないか。
このままでいい。自分はこのままで、構わない。口の中でそう呟いて獄寺は、寝返りを打った。
重苦しい闇の中で眠りはゆっくりと訪れた。
翌朝、まだ薄暗いうちに獄寺はボンゴレの屋敷を後にした。
屋敷から車で一時間ほどのところにあるボンゴレの関連施設での任務が、ここ一週間ほど続いている。先週から引き続く任務を獄寺は、意外と気に入っていた。なにより、ここの書庫は蔵書数が他の施設に比べると多かった。空き時間ができるとは獄寺は、書庫に入り浸っていた。
そういうわけで、綱吉と頻繁に顔を合わすことができないことを除けば環境はよく、任務としては申し分ないと獄寺は思っている。いや、ここにいればあの黒い獣のことを獄寺は思い出すことなく過ごすことができる。もしかしたら、綱吉とは会わないほうがいいのかもしれない。そんなことを思いながら施設内で獄寺に与えられたプライベートルームのドアを開ける。
持ってきた着替えをクロゼットにしまい直すと、獄寺は小さく溜息をついた。
勤務時間が始まるまで、一眠りできそうな余裕がある。
ベッドの上にゴロンと転がると、獄寺は天井を見上げた。
「無茶するな、ったって……単なる警備ですよ、十代目」
ポツリと呟いた言葉が、空中へと吸い込まれていくような感じがする。
任務と言ってもボンゴレの関連施設での警備サポートでしかない。無茶をやらかすほどの任務ではないことだけは確かだ。かと言って、おざなりにすることもできない任務だということは獄寺も重々承知している。特に難しい任務でもなく、困ったことがあるとすれば唯一、綱吉と会えないということだけだと獄寺は思っている。
じっと天井を見上げているうちに、獄寺は眠気を感じた。
朝が早かったからだろう。
目を閉じると、胸の奥で黒い獣が嘲笑っているのが感じられた。
「十代目……」
呟き、獄寺は唇を噛め締めた。
黒い獣の高笑いが、獄寺の耳の中で反響している。いつまでたっても自分の気持ちを素直に認めようとしない獄寺を馬鹿にしているのだ、この黒い獣は。
眉間に皺を寄せたままうとうととしかかったところで、軽い振動のようなものを全身に感じて獄寺はぱちりと目を開けた。
非常ベルが鳴り響くとほぼ同時にベッドから飛び起き、部屋を後にする。
警備室に駆け込むと、監視モニターのひとつに、炎の揺らめく様子が映し出されていた。 「何があった?」
獄寺が尋ねると、原因不明の爆発と同時に出火したと報告があった。既に任務に就いていた警備員が現場へ向かったが、そちらのほうからの報告はまだない、とも。
モニターの中では、もたついた動きでスプリンクラーが作動しだした。燃え広がりかけた炎は天井から噴霧される消火剤によってあっという間に抑え込まれていく。立ちこめる白煙の中、警備員が数人、今頃になってようやく現場に辿り着いたようだ。
「遅い」
小さく呟いて、獄寺は舌打ちをした。
たいしたことではなかったのか、昼前になってようやく獄寺の元に届けられた警備報告は単なる小火で片付けられてしまっていた。
それにしてもおかしいと、獄寺は思う。
あの爆発はいったい何だったのだろう。当初、原因不明の爆発と噂されていたものは、電源盤の一部が焼け切れて出火した折のものではないかと見られていたが、獄寺にはそうとは思えなかった。 もっとも報告通り、電源盤の部品が焼け切れていた箇所はすぐに特定することができた。長年使っているうちに部品の一部に過剰な熱がかかり、いつの間にか溶け出していたのを見落としていたのだろう。とは言え、定期的な点検は行っているはずだ。あの爆発は何か別のものが原因ではないのだろうか。それに、どう考えても不自然すぎる。
いったい、何があったのだろうか。
これは普通の小火ではないと、獄寺は呟く。
報告書に書かれたことを繰り返し目で追うが、そこから得られる情報はごくわずかなものでしかない。
自分はいったい、何をしなければならないのだろうか。
何を、確かめなければならないのだろうか。
スーツの内ポケットから煙草を取り出すと、火を点ける。
深く息を吸うと、ゆっくりとニコチンが肺を満たしていく。
胸の奥底で黒い獣が笑っているのが感じられた。無駄なことをと、嘲笑っている。この獣は、獄寺のやることなすこと何もかもが気に入らない。
ムッとして獄寺は、まだいくらも吸っていない煙草を灰皿の底でにじり潰した。
続く三夜は、施設のあちこちで続けざまに小火が発生した。
獄寺が警備から外れている時間帯に、人気のない場所で小火は起きた。
おかしいと、誰もが思い始めている。
何故、獄寺が任務から外れている時間帯に小火が発生するのだろうか、と。不審に思わない者が出てこないはずがなかった。
このまま獄寺が任務を続行すべきなのか、それとも誰か別の者が任務にあたることになるのかを、綱吉と長い時間をかけて電話で話し合うことになった。
こんなことで綱吉に手間をかけさせることになるだろうとは、獄寺も思っていなかった。 何よりも、自分が疑われることになるだろうとは獄寺自身、考えたこともなかった。最初は、単なる警備サポートの任務だったはずだ。
しかし状況は獄寺にとって不利に動いている。
苛々と煙草をふかしていた獄寺は、ふと気付いて手にした煙草をもみ消した。
小火の起きる現場は、どこも獄寺の部屋から近かった。それも、施設内に取り付けられた監視カメラでは確認しにくいような場所で小火は起こっている。
苛々と親指の爪を噛んでいるところに、またしても火災ベルが鳴り響いた。
「またか?」
緊急用の回線を使って警備室と連絡を取ると、書庫で小火が発生したと告げられた。
慌てて獄寺は部屋を飛び出した。
気に入っていた本は、大丈夫だろうか。ここの書庫には、他の施設にはないような本まで揃っていた。他施設の研究紀要など、興味深いものが山のように並んでいるのだ。
必死になって獄寺は廊下を走り続けた。書庫への通路を曲がったところで、もうもうと立ち上る黒煙に阻まれ、獄寺は立ち止まらねばならなかった。
火の勢いが強いのか、離れていても煙のにおいと炎の熱さが感じられる。
「ひでえ……」
書庫の内部で、小さな爆発がいつくか起こったらしい。壁一面が、真っ赤な炎の向こうで煤けているのがちらりと見えた。天井にとりつけられたスプリンクラーはいくつかあったはずだが、ひとつとして作動していない。
胸の奥の黒い獣が、高笑いを上げていた。
自棄になって書庫に飛び込もうとしたところで、駆けつけた消火作業員に肩をぐい、と引き戻された。
「ここは危険です。下がってください──」
現場から引き離される瞬間、獄寺は鼻に馴染んだにおいを不意に感じた。
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