ドン、という音がして、部屋が小さく揺れた──ような、感じがした。
  咄嗟に獄寺はベッドから跳ね起きた。
  綱吉にもらった報告書の写しは、いつの間にかベッドの下に落ちていた。くしゃくしゃになっている。無造作に書類を拾い上げ、ベッドの上に置くと獄寺は部屋を後にした。
  今の振動は、きっと小火の兆候だ。
  最初の小火の時もそうだった。振動と、ドン、という腹に響くような音を感じて目が覚めたのだ。
  部屋を出たところで獄寺は、ふと自分の手が煤けていることに気付いた。
「なんだ……どうして……?」
  小さく呟いて、自分の手をじっと見つめる。
  いったいいつの間に、自分の手はこんなにも煤けていたのだろうか。
  立ち止まったままじっと手を見つめていると、廊下に設置されたスピーカーから山本の声が聞こえてきた。
「獄寺、書庫だ!」
  その声を耳にした途端、獄寺は反射的に走り出していた。
  書庫への通路は、獄寺の部屋からはすぐだ。
  スピーカーを通して流れる山本の声は、獄寺がいちばん現場近くにいることを告げた。後を追うようにして警備員が書庫へと集まってきているところらしい。
  廊下を曲がって書庫に辿り着いた途端、獄寺は書庫が炎で真っ赤に染まっているのを目にした。先日の一件で真っ黒に煤けていた書庫が、今は真っ赤な火の海と化している。焼け残った本は、書棚に無造作に並べられていただけだった。原型を留めていた何冊かの本があっという間に炎に飲まれ、次々と灰になっていく。スプリンクラーの調整すら、終わっていなかったのだ。
「なん、で……」
  呟いて獄寺は、書庫に飛び込んだ。
  もう、ここに火の気はないと思っていた。二度も出火するとは誰も思いもしなかったことだろう。
  炎の向こうで黒い獣が笑いながら駆け回っているのが見えるような気がした。
「ちくしょう!」
  腹の底から声を振り絞って叫んだ瞬間、ドン、という腹に響く音がした。
  あっと思った時には、獄寺の体は宙を舞っていた。馴染みのあるにおいが、獄寺の鼻をつく。
  炎の勢いに吹き飛ばされたのだと気付くと同時に、獄寺は書庫のすぐ外の壁に体を叩きつけられていた。
  衝撃で獄寺の目の前が真っ暗になった──



  ボソボソと声がしている。
  お前は要らない人間だ、どうしようもない駄目なやつだと、小さな悪意ある囁きが交わされている。
  逃げ出したかった。
  今すぐに、ここではないどこかへ行きたい、この場から消えてしまいたいと思ったが、そうすることはできなかった。
  体が重くて、動かないのだ。
  声さえも、出すことができない。
  長い時間をかけて何とか右手の人差し指を動かすことができた。
「ぅ……」
  喉が渇いて、舌が顎に貼りついてしまったような不快な感じがする。
  体が動かない。
  のろのろと手を、動かした。動かそうとした。
  真っ暗な闇に閉じ込められてしまったかのようで、周囲は闇ばかりだ。何も見えない。ヒソヒソと交わされる言葉だけが、獄寺の耳には聞こえてきている。
  少しでも明るかったなら、こんなにも闇を恐れることはなかったはずだ。
  目を凝らして、周囲をじっと見つめる。
  何も、見えない。針の先のような微かな一点の光すら見えてはこない。
「ぅぅ……」
  声を出すことが辛かった。
  手を伸ばして、闇の中をかき混ぜた。
  暗闇の中に立っているからだろうか、平衡感覚が怪しくなってきた。
  これは夢の中だということがわかっているというのに、めまいがして、フラフラする。
  倒れる──そう思った瞬間、ガシッと手を掴まれた。
「獄寺君!」
  聞きなれた声に、獄寺の周囲がしだいに薄ぼんやりと明るくなってくる。
「獄寺君、しっかりして!」
  力強い手が、獄寺の手を握っていた。
  弱々しくその手を握り返そうとすると、何かが指先に押し当てられた。
「気がついたんだね、獄寺君」
  その声に、今度こそ獄寺の意識ははっきりと戻ってきた。



  目を開けると、目の前に綱吉がいた。
  心配そうな顔をして、じっと獄寺を見つめている。
「どこか痛いところは?」
  尋ねかけてくる綱吉を、獄寺は見つめ返した。
  喉が渇いて声も出せないほどだ。
「ぁ……」
  綱吉に掴まれた手が、やけに熱く感じられるのは何故だろう。じっとしていると、綱吉の手はするりと獄寺の手から離れていった。寂しかった。今まで感じていた手の熱さが、急に感じられなくなったからだろうか?
「水は?」
  ベッドの脇に置かれた冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、綱吉はキャップをあけた。
「少し、体を起こそうか」
  すぐに綱吉の腕が、ベッドと獄寺の背中の間に差し込まれた。綱吉がそっと腕に力を入れると、獄寺の体はベッドの上に起き上がっていた。申し訳ないと思いながらも、舌が顎にへばりついてしまったような感じがして、声が出ない。
  見慣れない部屋の様子に、ここが病院であることに獄寺は気付いた。どんなに内装を誤魔化そうが、消毒くさいにおいだけはなくなることはないだろう。
  下唇に軽く押し当てられたペットボトルの口から、獄寺は水を飲んだ。冷たい水が、喉を降りていく。口の中がカラカラに渇いていたのか、獄寺は喉を鳴らしてボトルの水を半分ほど飲んだ。
「あんまり急に飲むと、胃がびっくりするよ」
  やんわりと綱吉に言われ、獄寺はペットボトルから口を離した。
  獄寺のペットボトルを取り上げると、綱吉はサイドテーブルの上に置く。
「……何があったのか、話してくれる?」
  問いかける綱吉の表情はしかし、穏やかな声とは反対に厳しい。
  獄寺は唇を噛み締め、綱吉の顔を見上げた。



  声は、出てこなかった。
  詳細を伝えなければと思うものの、どう伝えたらいいのかが、獄寺にはわからない。
  あの炎の中で見たものを正直に話したところで、綱吉は信じてくれるだろうか?
「……すみません。話せません」
  小さな、おどおどとした声で獄寺は返した。
「なんで?」
  尋ねられ、獄寺は目を伏せる。
「報告があったはずです」
  言葉を選びながら、獄寺は告げた。あの時、警備室には山本が控えていた。山本からの報告があれば充分だろう。獄寺は綱吉の視線から逃れるようにしてベッドにもぐりこんだ。
「すみません」
  そう告げるのがやっとだった。
「すみませんじゃわからないよ、獄寺君」
  綱吉の言葉に、獄寺はますます頑なになっていく。ゴロリと体の向きを変えると、綱吉に背中を向ける。
「気分が悪いんです、十代目。しばらく一人にさせてください」
  獄寺は冷たく言い放った。自分勝手だということはわかっていたが、今はまだ、言えない。言ってはいけないと、獄寺の中の黒い獣が高笑いを繰り返している。きつく目を閉じると獄寺は、唇を噛み締めた。
「……じゃあ、屋敷に戻るよ」
  しばらく押し黙ったままだった綱吉が、ポツリと呟いた。
  寂しそうなその声に、獄寺は正直に本当のことを告げてしまいたいと思った。しかし、それはできないことだ。
  黙ってじっとしていると、綱吉の動く気配がした。
「獄寺君……眠っちゃった?」
  小さな声が、獄寺の耳に聞こえてくる。
  ケットを肩にかけ直してくれる綱吉の手が、とても優しく感じられる。
「全身を打撲しているから、精密検査がしばらく続くと思うけど……退院したら、今回の件について話し合おう」
  耳元で、綱吉の声がした。
  噛み締めた獄寺の唇は震えていた。綱吉に気付かれないように、獄寺は震えを堪えてじっとしている。
「……また来るよ」
  そう言うと綱吉は、獄寺の銀髪をくしゃりと撫でた。
  ドキリとしたが、身動きもせず、獄寺は息を潜めている。
  それから…──チュ、と乾いた音がして、獄寺は肩先に微かになにかが触れるのを感じた。



  パタン、とドアが閉まった。
  綱吉の足音が次第に遠ざかっていく。気配も、においも。
  獄寺はケットを頭の上まで引き上げた。噛み締めた唇の隙間から、くぐもった嗚咽が洩れる。
  しゃくりあげながら獄寺は、心の中で綱吉に謝罪した。
  謝っても謝りきれない。真実を告げた時に、果たして綱吉は自分のことを許してくれるだろうか? 真実を話した後でも獄寺のことを、綱吉は守護者として認めてくれるだろうか?
  洩れだした嗚咽を抑えるため、獄寺は自分の口を手で覆った。
  泣きながら、綱吉の唇が触れた肩先に熱を感じていた。
  お前は最低なやつだと、胸の中の黒い獣が嘲笑っている。
  どす黒い想いが渦巻いて、胸の中を侵蝕していく。自分は少しずつ、この黒い獣に心を侵されている。
  肩の熱が、ゆっくりと体中に回っていく。
  黒い獣の耳障りな笑い声が、獄寺の耳の中で響いている。
  獄寺は啜り泣きながら、震える手をじりじりとパジャマズボンの中に差し込んだ。
  熱を孕んだペニスが、触れてもいないのに硬くなって先走りを滲ませていた。
「十代目……」
  掠れる声で、小さく呟いた。
  肩先に触れた唇の感触を思い出しながら獄寺の手は、ゆっくりと自慰を始めた。



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(2009.10.18)


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